すれ違う海賊団2

 人前に姿を見せることがないと噂の領主の妻は、医者の前にすら現れなかった。
 ベッドの前には何枚もの薄布が重なっていて、影さえ見えない。僅かに途方に暮れたように部屋の入り口で立ち止った男を、領主は睨みつけるようにして見ていた。
「これ以上は近づくなよ。近づかずに、治せ。本来ならあいつと同じ部屋に入り込んだだけで重罪だ。もし治せなかったら殺してやる」
 読み上げるように言った声にはそれほど感情がこもっていないが、間違いなく本気であろう。実際にこの領主はそれを何年にも渡って実践してきているらしい。特にここ何か月もの間は、妻の姿をまともに見た者すら居ない。女性のメイドですら、近づくことが出来なかった。領主のこの嫉妬心と猜疑心は年を追うごとに強まり、ついには女医すら追い出されたという。妻がどれだけ苦しんでいても、彼は医者に見せることはしなかった。簡単な診断なら、領主が話を聞いて医者に相談し、薬を受け取るだけで何とかなる。風邪程度はそれで済んだ。大きな怪我もなかった。だがついに、手に負えない事態になる。相談役の医者は逃げ出し、もう長くはないという言葉だけが残った。島の者たちに、覚悟と準備はしておくように、との通達があったのが一か月前。週ごとにただ、容態の悪化が告げられている。
 そしてつい昨日。おそらくあと一週間もつかどうか、と告げられた。同時に、若い娘たちへの最後通告。
「さあ、早くやれ」
 領主はもう、諦めているのかもしれない。男を睨みつける目には期待がこもっているようには見えなかった。むしろ、妻と同じ部屋に若い男が居ることへの不安の方が強くうかがえる。
 それでも部屋には警備員の一人もいない。50代半ばの領主は元は海軍に所属していたらしく、今でもがっしりとした体格でかなり鍛えているのがわかる。細身の若者一人いざとなれば何とかなると思っているのか。悪魔の実の能力者であるとも伝えられているはずだが。海軍のコネで、海楼石の武器か手錠ぐらいは持っているのかもしれない。
「まさか、おれを騙したわけじゃあないよな?」
 動かない男に対するイラついた言葉は、初めから疑いしか持っていなかったせいなのかもしれない。いや、それにしてはやけに急かされている。領主の部下たちの懇願で、決して顔を合わせない、肌も見ないという条件で連れられてきた医者を、どう思っているのか。
 男の背に冷や汗が流れる。
 下手に希望を持つと、更に絶望が深くなることはよくわかっていた。










 トラファルガー・ロー率いるハートの海賊団がその島に着いたのは、もう日も落ちて大分経った真夜中に近い時間帯だった。
 人気のない港も、閉められた店にも当然疑問は抱かない。唯一営業中と見えた明かりのついた酒場に、ローたちは向かった。扉を開けた瞬間聞こえてきたのは、男たちの怒鳴り声だったが。
「わー…まずいときに来ましたね、船長…」
 大して広くもない酒場で暴れる男が2人。周りの男たちの中には、止めようとする者も居れば、けしかけている者も居る。机や椅子が倒れ、辺りに割れた皿や酒瓶も散乱していた。男の一人は血を流しており、かなり派手な喧嘩であることは見てとれる。それも、随分前から行われているらしい。
 だがそんな男たちに少し目をやったローは、まるで気にすることなく奥へと進む。船員たちもちらちらと客たちを見ながらそれに従った。喧嘩真っ最中の2人は気付いてもいないようだが、客の中には何人も目を向けるものが居た。会話はなかったが。
「酒は出せるか?」
 真っ直ぐマスターの元へ向かったローは、そう言ってカウンターに腰を下ろす。船員たちがずらりとその後ろに並んだ。
「あ、ええと…いらっしゃいませ。出せなくはないですが…今、ああいう状況で…」
「別にいいだろう。いい肴だ」
 ちらりと面白げに喧嘩に目をやって、もう1度マスターに酒を出せと手を伸ばす。マスターは戸惑いつつも、それに頷いた。ハートの海賊団たちがそのやりとりを見たあとそれぞれ席に着く。
「こんな狭いとこじゃ巻き込まれるんじゃないですか」
「参加したいなら好きにしろ」
「いや、したくないって話です!」
 部下の言葉にもローは笑っている。ローの隣に腰を下ろした部下は、背後の喧嘩を気にしつつもマスターに尋ねた。
「ここのログってどれくらいで貯まる?」
 旅人が島の者に最初にする問いだ。マスターは慣れたように一週間、と答える。そしてローへと酒を出し、少しおそるおそる尋ねた。
「旅人ですか? それとも…海賊ですか?」
 ローのまくられた袖口から見える刺青。そして船員たちの服に刻まれたジョリーロジャーにちらりと目を向けている。ハートの海賊団のマークはドクロではないため、確信が持てないのだろう。その問いに部下より先に、ローが答える。
「海賊と言ったら──どうする?」
 面白げに笑う顔にマスターが僅かに引きつる。それでも笑顔を見せて言った。
「まあ、お客さんならどっちでも歓迎ですよ。……ここは海軍もよく来るので警戒はしてくださいね」
 忠告なのか警告なのかわからない言葉にローたちは笑うだけだった。それでも黙って酒を飲み始めたことに、マスターは少しほっとする。ローたちの興味は、直ぐに背後の諍いの方に移っていた。
「オメェだけとっとと逃げりゃいいだろうよ! 船もあるんだしよ。それとも何か? グランドラインを航海出来る腕があるっつってたのはデタラメか?」
「うるせぇ! 行けるもんなら行ってるよ! おれだって家族が居るんだ。90近いばあさんを海に連れ出せるかっ!」
「だったらおれの話に乗りゃいいだろう!」
「大人しくしてりゃぁおれに被害はねぇんだよっ! 娘のことは諦めるしかねぇだろ!」
「結局他人事か、てめぇは! 不満があるっつってたのは口だけか!」
 この島の現在の問題をまさに語っている男たちの言葉は、来たばかりの海賊団には重要だった。言葉言葉の間に蹴りや殴りや野次が入り聞き取り辛いが、ハートの海賊団はごく普通に雑談をしながらそれらを耳に入れている。
「領主への反乱でも企ててんのか?」
「反乱前に仲間内だけで終わりそうだな」
 そして雑談の中に、その会話への応答のようなものも混じる。普通の声音で話すので客たちも海賊団を気にし始めた。
「おいトキ、部外者が居る前でその話…」
 男たちを止める者たちにも焦りが出てきた。だがトキと呼ばれた男は、激昂したままその男たちを睨みつける。
「関係ねぇだろっ! こいつらもどうせログ貯まったらとっとと出ていくんだろうが! それともこいつらが領主に言いつけでもすんのか? そんな暇な海賊団いねぇだろっ!」
 海賊団、ということには気付いていたらしい。ただの勘かもしれないが。そして怒りに燃えている割には言葉は的確だ。ローたちにも島の問題に関わるつもりは全くない。だが注意が海賊団の方にそれたことでか、いい加減疲れてきたのか、殴り合いをしていた2人は静かに息を吐いてその場に座り込んだ。
「何だ、もう終わりか?」
 やれやれといった空気が占める中、ローが零した言葉に男たちが反応する。
 トキがそれに再び立ち上がった。
「結論は出てねぇだろ。結局そっちの男はやるのか? やらないのか?」
 トキと殴り合っていた男も、その言葉に唇を噛み締めて立ち上がる。男たちの敵意が、ローの方へと向いた。ローの隣に居た部下もため息をついて立ち上がる。
「初日なんだから大人しく飲んでましょうよ…」
「別に喧嘩売ってるつもりはねぇよ」
 いやいやいや、と海賊団だけでなく周りの客たちも突っ込んでいる。純粋な疑問だ、と言われてしまえば、それまでなのだろうけど。
「島の問題に口出す気はねぇだろ兄ちゃん」
 何の関係も得もねぇしな、とトキはそれでも少し落ち着いた口調で、ローへと近づく。座ったままのローは男を見上げて笑った。
「一週間は滞在することになるからな。騒ぎが起きれば軍が来る可能性は高くなる。そうなるとおれたちにも面倒だ」
 海賊団も含め何人かがはっとしたようにローを見る。
 で、やるのか、やらないのか、とローはまるで挑発するような口調で言った。トキが、ちっ、と舌打ちする。
「…すぐそこにエターナルポース売ってる店がある。あまり種類はねぇが、次の島までのなら売り切れってこともねぇだろうよ。明日の朝一でそれ使ってとっとと出て行け」
「──おれに命令するな」
 ローの顔が険しくなった。トキが一瞬怯んだように後退さる。客たちは静まり返って睨み合う2人のやりとりを見ていた。海賊団の中には、面白がるようににやにやしてる者も居るには居たが、それでも多少緊張気味だ。
 やがて、最初に目を逸らしたのはトキの方だった。
「……おれたちには時間がねぇ。どれだけ反対されようが…例えおれ一人になろうが──反乱は起こす。一週間以内だ。海軍は来るだろうな。ここの領主は海軍と親しい」
 ローたちにはありがたくない展開を、男はそれでも言い切った。それを聞いて、数人の男たちがトキの周りを囲むように立ち上がる。
「そうだ、悪いがおれたちはあんたらの都合なんざ構ってられねぇ」
「頼むから大人しく出てってくれ!」
「なんならエターナルポースはおれたちが買ってやるしよ!」
 口々に騒ぎ立てる男たちにローが閉口する。面倒ごとを自ら起こしていながら、面倒なことになった、と思っているのだろう。だが、わいわい騒ぐ男たちの中、一人がぽつりと漏らした言葉は聞き逃さなかった。
「…むしろ海軍の目がお前ら海賊に向いてくれりゃぁ…」
 その言葉を聞いた者たちが、思わず固まったせいもあるだろう。
 ローがぎろり、とその男を睨みつける。
 その視線を遮るようにトキが慌てて動き、ローの前でひらひらと手を振った。
「ああ、悪い。だが今そういう発想をしちまった。おれも今使える、と思った。だからホント…巻き込まれたくないなら早く出て行った方がいい」
 トキの口調は脅しではなく懇願に近かった。面倒ごとを減らそうという精一杯の努力だろう。妥協をして、引いて、命令口調も止めて、ハートの海賊団たちに逃げ道を与えた。酒場で暴れていた男とは思えないほど冷静な言葉だ。
 だが、立場上、どう見ても20代前半の若僧相手にそれ以上下手に出ることは出来なかった。
「……海軍が来る前に逃げろと?」
「……ああ」
 ローが少し笑ったのを、トキは奇妙な顔で見ている。その笑みの意味がわからない。ローが立ち上がり、船員たちもそれに続く。
「船長、残るんですか!」
「当たり前だ。お前ら宿を探しとけ。おれは一旦船に戻る」
 ばたばたと追いかける部下たちに、ローはそれだけ言って扉に手をかける。
 島の一般人が用意した『逃げ道』に、大人しく乗る男ではなかった。むしろローの逃げ道を奪ったのは彼らの言葉の方だろう。
 どうせこんな小さな島に大物は来ない──ローはそう考えてもいる。
 そうして海賊団が去って行くのを、男たちは呆然と見送っていた。すぐにざわめきが満ちる中、男の一人が言った。
「お、おい、誰かあいつら追いかけて宿に案内しとけ。せめて居場所を確定させた方が…」
「ああ…おいリマ! お前のとこに泊めてやれ。どうせ今、客も居ねぇだろ」
「あ、でも今日数人来て…」
「いいから行け」
「お、おう…」
 慌てて男の一人が駆け出して行く。
 トキが溜息をついて座り込んだ。最初に殴られていた男はこっそりその場を抜け出そうとして、別の男に捕まっている。
「フグ。てめぇ逃げんじゃねぇよ」
「うるせえ! いい加減付き合ってられっか!」
「まあお前が計画知っちまった時点で逃がすわけにはいかねぇんだよ」
 ざわめきの中、トキも落ち着いて考える。
「おい、あいつらいつから居た? どこまで聞いてた?」
「え、えっと…」
「来たばっかじゃないか?」
「いや、でもちょうど計画の話してなかったか?」
「っていうか決行のこと話したのトキさんだし…」
 まとまりのない男たちの言葉を全て耳に入れながら、トキは海賊団の残していった酒を勝手に呷る。
 計画性のない計画は、最初からつまずきだらけだった。
「…こうなったらもう、もたもたしてられねぇ。明日全員武器持って集合だ」
「え、でもあの話は…」
「明日中に結果が出なきゃ一緒だ。いつまでもびくびくして過ごしてられっか!」
 おお、と何人かが同意した。
 何人かは僅かに目をそらしていたが、トキはそれを気にすることもなかった。


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