二人のKAITO

 床に散らばった楽譜。適当に撒き散らしたため何枚かは重なってたり裏返しになって読むことが出来ない。握り締めて皺がついたもの、端が破れているもの、印刷が掠れてファとソの区別が付かないもの、様々な不備が目に入る。
 MEIKOは一つ一つ眺めながら、頭にメロディを思い浮かべる。声を出さないつもりなのに自然と口が開く。五線譜を見ているだけではっきりと想像できる完成された歌。目に入る全ての曲を頭の中で歌ったあと、MEIKOはゆっくりと目を閉じた。
 どうして上手くいかないのだろう。
 意識は、隣の部屋に居るミクに向く。防音はされているがガラス窓があるため今のMEIKOの様子も覗こうと思えば覗けるだろう。疲れきって休んでいたのでそんな余裕はないと思うが。
 MEIKOはすうっと息を吸い込むと今度は声に出して歌い始めた。ミクに与えられた課題曲。今、これを歌わせるために躍起になっているのだ。既に四日目。成長はしているが、このペースで間に合うようには思えない。
 私は、歌えるのに。
 MEIKOは拳を握る。
 ミクはいい子だ。努力もしている。だけど、抑えきれない苛立ちが自分の中に生まれている。
 MEIKOは初めから歌えた。どんな歌でも、楽譜を与えられただけで完璧に歌いこなすことが出来た。
 『だからわからないんだ』
 かつて言われた言葉を思い返す。そうだ、わからない。何故出来ないのかがわからない。
 私は、指導には向いていないのかもしれない。
 歌い終わり、楽譜を拾おうとしゃがみこんだとき、MEIKOの後ろで扉が開いた。
「……ミク」
「MEIKO。私歌う」
 休憩は1時間と言ったはずだった。まだ30分も経っていない。だからMEIKOは首を振った。
「休みなさい。私たちに肉体的疲労はないけど。感情がある以上精神的なものは休んで回復するしかないのよ」
「……MEIKOも、疲れてる?」
 ミクが自分のスカートを握り締めているのに気付いた。湧き上がる感情を抑えたいとき、ミクはMEIKOと一緒で拳を握る。おそらく不安なのだろう。当然だ。このままだと四日後には、ミクは処分される。向こうのミクがどれだけ歌えてるかはわからないが、たまにすれ違う相手からは確かに自信が満ち溢れてきていて。
「……そうね。だから今は休んでちょうだい」
 それでも、そう言うしかなかった。MEIKO自身が自分の指導に自信をなくしているのだ。答えが見つからない限り、このまま続けても無意味なのかもしれない。
「……だったら、少しお話聞いていい?」
「え?」
 まだ楽譜を拾っていたMEIKOの前にミクが座り込んだ。正座を崩したような姿勢だが、しばらく動く気はないことを目が告げている。辺りの楽譜を軽く手で避けて、ミクはMEIKOのスペースを作ったようだった。
「お願い。MEIKOのこと、あんまり聞いてないし」
 聞けるかどうか、わからないし。
 その言葉は小さかったけれど、確かに耳に届いた。そうだ、このままだとミクと居られる期間は……あと四日。
「……話といってもね。私も作られてからそう何年も経ってるわけじゃないし」
 MEIKOはミクの正面に座り込んだ。休憩になるなら、これでもいい。
「あの……聞いていいのかわかんないけど……あの、マフラーの人…」
「……………」
 予想は出来る問いではあった。MEIKOは俯く。考えておくべきだった、彼の話題を振られたときのことを。
「KAITOって言うんだよね? あっちのミクがそう呼んでた」
「………違う」
 用意していなかった嘘は言葉には乗らない。MEIKOは素直に、感情のままに首を振る。
「私のKAITOは……違う」
「私の……?」
 はっとした。自分の言葉にMEIKOは自分で驚いた。固まったMEIKOを見て、ミクは少し考える素振りをしたあと言う。
「あの……違ってたらごめんね? KAITOって人、ひょっとしてMEIKOの恋人とかで、何か、性格変わっちゃったりとか……ってMEIKO?」
 ミクが途切れ途切れに出した言葉は予想外で、気が抜けたと同時にその想像におかしくなった。笑いだしてしまったMEIKOを見てミクが口を尖らせる。
「ち、違うんだったらいいんだけど! だって! 私、馬鹿だから!」
 恋愛ごとに結び付けてしまうのはそういったことに関する話を教育の過程で多くされているからだろう。何せ恋愛を歌った曲というのは数多い。MEIKOが今まで歌った歌も、多分半分以上がそれだった。ボーカロイドの自分たちに、実際にそういう感情があるのかはわからないが。
「うん、まあ違うけど。ありがとうミク」
「え?」
 恥ずかしがっていたミクがきょとんとしてMEIKOを見てきた。それはそうだろう。何故突然ありがとうなのかわからない。伝わる必要はなかった。ミクのおかげでMEIKOはようやく落ち着いたのだ。今まで自分が完全に余裕をなくしていたのがわかった。そうだ、一人でぐるぐる考えていても仕方ない。過去のことに一人悩んでいても仕方な い。
「ミク、あのね」
「うん」
「あの男は私たちと同じボーカロイド。ミクよりも前に選抜を受けて、一人残った男よ」
 突然話し始めたMEIKOに一瞬ミクはぽかん、とした顔になったがすぐに興味津々で頷いてくる。
 話した方がいいのかどうか、それも考えても仕方ないことだった。今ミクが知りたがっている。
 MEIKOはそのときのことを思い出しながら語った。





「もう決まりだろう」
「待って! 今のKAITOの歌聞いたでしょ!? まだまだ上手くなれるの、あとたった一日あればあんな奴追い越せるの!」
「そう言って伸ばし過ぎだ。すでに期限を何日過ぎてると思ってるんだ」
「あと一日や二日大した問題じゃないでしょ? よりいいボーカロイドを残したいんでしょ!?」
「………………」
 MEIKOの必死の叫びにLEONは複雑な表情をした。
 無茶なことを言っているのはわかっている。だけどMEIKOは諦めたくなかった。KAITOの教育を任されてからの一週間、目覚しい勢いで成長するKAITOにMEIKOは確かに「可能性」を見出した。スタート時が酷かったとか、それでももう1人のKAITOに追いついていないとか、頭ではわかっているのに。理屈ではない何かをMEIKOは確かに感じたのだ。
「……MEIKO」
 LEONの隣に居たLOLAが静かにMEIKOに近づいてくる。頬に手を当てられじっと覗き込まれて、MEIKOは動くことが出来ない。LOLAの方が背が高いとはいえそれほどの違いはないはずなのに妙な威圧感があった。
「あと一日」
「おいLOLA」
「本当にあと一日だけ。これで駄目なら諦めなさい」
「……わかってます」
「本当にわかってる? 明日になってあと一日、って言われても駄目よ? それと、こんな特例そうそう許すわけにもいかないの。本当に今回限り」
「わかってます」
「それからね。あなたは自分が教育してきたKAITOくんに勝たせてあげたいんでしょうけど、もう1人のKAITOくんだって何度も長引かせられて嫌な思いしてるのよ?」
「わかってます!」
 ついにMEIKOは叫んだ。一番考えたくなかったことを最後に言われた。MEIKOの睨みつけるような視線にはLOLAは微笑んだだけだったが。
「……じゃあ明日また同じ時間にね。KAITOくんも」
 LOLAの視線がMEIKOを超えた。思わず振り向けばそこには確かにKAITOが居た。いつから居たのか、MEIKOは全く気付かなかった。少しでも音があればわかるはずな のに。
「…………」
 KAITOはじっとMEIKOを見ていた。話しかけてきたLOLAに言葉を返すことはない。LEONとLOLAが去っていくのを耳だけで確認して、MEIKOはKAITOに近づく。
「……ごめん」
 KAITOの口から最初に漏れたのは、謝罪の言葉だった。
「何言ってるのよ。謝ってる暇があったら練習よ。あと一日あればあんな奴…」
 KAITOが首を横に振ったのを見てMEIKOは言葉を止めた。背の高いKAITOが、何だか小さく見える。
「違う。おれは……もう無理だよ」
「何言ってるのよ!」
「わかってるんでしょ? あと一日で越えられるわけがない。みんな知ってるんだよ。だけどMEIKOの気が済むまで待ってくれてる。大事なのはMEIKOの気持ちだ。もうおれの選抜なんて関係ない話なんだよ」
「な……によ、それ」
 KAITOの言葉が頭に染みてくると同時に急に足元がぐらついたような不安を覚え た。目の前が真っ暗になる感覚とは、こういうことを言うのか。
「何だ、わかってるんだ」
 KAITOの、更に後ろから声が聞こえる。KAITOと同じ声。同じ姿。こちらも部屋に入ってくる気配はなかった。居たのか。同じ場所に。
「どういう意味…?」
「いや、そっちのKAITOが言った通りですよ。気付いてるとは思いませんでしたが。ってことは結局MEIKOさん以外全員知ってたんじゃないですか。ただ茶番が続いてるだけだって」
「そんな……」
「MEIKO」
 MEIKOはびくっと体が震えるのを感じた。何故だろう。KAITOの言葉を聞くのが 怖い。
「おれは、もういいから。自分のことはちゃんと自分でわかってる。もうちょっと……歌いたかったけど……今まで引き伸ばしてくれてありがとう」
「何…言ってるの…」
「最後に一曲だけ。課題曲じゃないけど、おれが一番初めに覚えた一番上手く歌える歌があるんだ」
 そう言って、KAITOは少しMEIKOから離れた。思わず伸ばしたMEIKOの腕が宙を彷徨う。
 KAITOが、歌い始めた。初めて見る表情で。本当に、心から、楽しそうに。単純な童謡だったけど、そこには確かに感情があった。もう1人のKAITOが、驚きに目を見開いている。こんな歌がうたえるなんて、MEIKOは知らなかった。
「……聞いてくれてありがとう」
 MEIKOは言葉を出せない。KAITOが頭を下げた。右手を胸に当てた姿勢で、多分それは、謝罪ではなく感謝。
「……KAITOっ」
 気付けばKAITOはMEIKOの横を通り過ぎ、LEONたちの部屋へと向かっていた。
「待ちなさいKAITOっ」
 追いかけようと振り返ったとき、誰かが肩を掴む。ぐいっ、と引き戻されてしまった。
「何よっ、離しなさい!」
「………行っても無駄でしょう」
 もう1人のKAITO。感情の読めない顔でKAITOを見送っている。KAITOの姿が、視界から消えた。
「KAITO!」
「KAITOはここに居ますよ。KAITOはもうぼく一人だ」
「ふざけないで! 私は、私は……」
 まだだ。駄目だ。こんな終わりは間違っている。
「KAITOーーーーーーーーー!」
 叫びが、届くことはなかった。





 窓の外ではセミが鳴いている。木々が風に揺れている。鳥が羽ばたいている。
 だけど、ミクの耳には何の音も響いてこなかった。廊下の大きなガラス窓から見える景色は日々少しずつ変化していて、この光景をもっと見たいと思わせる。ミクは左手を窓に貼り付けた。見上げてみるが、窓は完全なはめ込み式で動くことはない。ぐっ、と強く押す。少しでも外の音が漏れてこないだろうかと思ったのだが無駄だった。
 ……外に出たい。
 そのためなら何をしてもいいと思っていた。
 手を下ろす。両手を窓の桟にかけて再び外を眺めながら、ミクは昨日の話を思い出す。最初「今の」KAITOは何も悪いことはしていないと思った。MEIKOがただ悔しさからKAITOを嫌っているのかと思った。だから問い詰めた。その答えは、意外でもあったし、予想通りでもあったが。
 ミクは近づいてくる足音に反応してさっ、と自分の視線を動かした。窓とは反対側の壁をすり足で移動していたもう1人のミクがびくっと動きを止める。
「何よ?」
「え、あ、あの、邪魔しちゃ悪いかなって」
「邪魔? 何の?」
「外の音…聞いてたんだよね?」
 ミクが自信なさげに問いかける。答えないでいると慌てたように手を振ってい た。
「ち、違うならいいの! ごめん、私、その、馬鹿だから」
 『馬鹿』は理由になるのだろうか。照れたように笑ってその場を立ち去ろうとしているミクに、僅かに苛立ちを覚えた。
「ちょっと」
「は、はい?」
「来てよ」
 窓の前に、少しスペースを空けた。ミクは不思議そうな顔をしつつも大人しく隣に並ぶ。ああ、身長も全く一緒だなと目が合ったとき思った。
「もうすぐ勝負の日だけど」
 びくっとミクの肩が震えた。右手を握り締めているのが目に入る。
「勝てる自信あるの?」
「…………」
 震えるような視線。ミクは静かに首を横に振る。
「ない。けど、私は、負けられない」
「……何よそれ」
「MEIKOが…。私が負けたらMEIKOまで…」
 その思いつめたようなミクの表情を見て理解した。おそらくMEIKOも話したのだろう。このミクに。かつての出来事を。
「こっちの気持ちは?」
「え?」
「私だって負けられない。私は外に出て歌うの。もっといろんな人と出会っていろんなことを経験したい。……だから負けられない」
 強く睨むとミクは目を逸らした。逃がさない、というようにその右手を掴む。
「あんたはさ」
「………」
「自分が残るべきボーカロイドだって思ってんの?」
「………!」
 ミクが目を見開いた。少し後ずさってこちらを見てくる。だけど目が合わない。ミクの目は何も見てない。ショックなのか。考えたこともなかったというのか。
 ……私は、負けられない。
「大した自信じゃない。私の夢を奪って、それで生きる価値があると思ってる んだ?」
 自分の言葉にはどこか痛みを伴っていた。だけどそれには気付かない振りをして続ける。
「自分のこと『馬鹿』とか言っといて。つまり私はあんたより馬鹿ってわけ?」
「ちが……」
「…よく、考え…なさいよ。あなたが残る価値が本当にあるのかどうか」
「…………」
 言葉がつっかえた。だけど、多分上手く言えた。ミクが呆然としている間に振り切って自室へと帰る。
 KAITOは言った。
 自分たちは感情を持つアンドロイド。
 勝ちたいなら、精神的に揺さぶってやればいいと。自分もかつて…そうしたと。
 右拳を握り締める。
 KAITO。
 KAITOは本当にこれで良かったの?


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