二人のミク

 教室に居た覚えがある。
 見渡す限り、同じ髪型、同じ服の集団。それを疑問に思ったことはない。いろいろなことを教えられて、いろいろな質問に答えた。どれだけの時間が経ったかはわからない。ホワイトボードの前に立つ講師は入れ替わり立ち代り、同じ人物も何度か来たと思う。それを認識している人は、周りにはあまり居なかったようだけど。
 そして周りの人数は一人減り、二人減り、講師との距離はどんどんと近づいて。
 一番前の席で、もう他人の髪型を見ることがなくなったとき、ミクの記憶はぷつりと途絶えた。





 とんとんとん、と小さな音が近づいてくる。その正体を確かめようと思ったが、まだ起きる時間じゃない。次第に近くなる音。足音だ、と漸く気付いたとき勢い良く扉が開く音がした。
「……………」
 初音ミクはゆっくりと起き上がる。プログラムで決められていたかのような自然な動きだった。薄いシーツがベッドから滑り落ちる。それを目で追ったとき、シーツが絡まるほどの位置にある女性の足に気付いた。
「起きたみたいね」
 顔を上げれば、ショートカットの綺麗な女性が、ミクのすぐ側に居た。茶髪で、露出の多い赤い服を着ている。
「……おはようございます」
 何と言っていいかわからず、とりあえず挨拶を返す。女性は一瞬目を見開くとすぐに笑顔になった。
「おはようミク。私はMEIKO。よろしくね」
 差し出された手を握り返す。ごく自然に行った動作だったが、その意味はよくわからなかった。
「大丈夫? もう目は覚めた?」
「はい」
「よし、じゃあ行こうか」
 MEIKOはミクの手を握ったまま扉に向かって歩き出そうとする。ミクは慌ててベッドから降りると引きずられるようにその後ろについていった。右手同士繋いでは歩きにくく、すぐに手は離されたが。部屋を出る前にはざっと辺りを見渡す。そこには小さなベッドと机しか置かれていなかった。机の周りにも何もない。ベッド奥の大きな窓には厚いカーテンがかかっており、日差しは感じられなかった。廊下から見える窓の外は昼間のようだったけど。
「あの」
「何?」
 斜め前を歩くMEIKOがちらりと振り返る。ミクよりも背が高い。
「どこへ……行くんですか」
 聞いてはいけないことのような気がした。だけどMEIKOはあっさりそれに 答える。
「トレーニングルーム…かな? あまり時間はないのよ。一週間で完成させなきゃいけないんだから」
「……何を」
 そこで初めてMEIKOが足を止めた。ミクは無意識に体を固くする。空気が変わったのを感じ取ったのだ。MEIKOが小さく「……そう」と呟くのが聞こえる。その言葉は低く暗く、不安と、恐怖でミクは俯いてしまう。
「……大丈夫よ」
 MEIKOの声は先ほどまでとは随分トーンが違っていたけど、それでもおそるおそる顔を上げれば、MEIKOは笑っていた。
「ちょっと予想外だったけどね。歌はうたえるんでしょ?」
「う、歌えます」
 歌える、というレベルなのかは自分でもわからない。だけど確かに学んだ覚えがあったから。
「一週間で一曲。完璧に仕上げてみせればいいわ。大丈夫、私がついてる。大丈夫だから」
 大丈夫、を繰り返すMEIKOからミクがただただ感じるのは「不安」だった。事態の理解は出来ないが、「大丈夫じゃなかったら」どうなるのだろう。
「あ」
 そのとき唐突に、前に現れた人物に気が付いた。長い廊下なのでずっと視界には入っていたのだろう。青い髪、青いマフラーの男と、その後ろに隠れるようにもう1人。覗き込もうとしたとき男が声を出した。
「不安そうですね、MEIKOさん」
 先ほどミクが思ったことをそのまま口にした男は、そんなMEIKOを笑っているようにも見える。ミクの方を向いていたMEIKOは振り向きもせずに言った。
「そうね。でも最初はそれが普通じゃない?」
「よく言う。何の練習もせずに課題曲を完璧に歌った人の台詞ですか」
「聞いたこともない癖に勝手なこと言ってんじゃないわよ。大体そっちはどうなの。私より随分早く向かったみたいだけど」
「気になりますか」
「……少しはね」
 MEIKOの言葉に男は今度ははっきりと笑った。
「だったら目ぐらい合わせたらどうですか。あなたのミクが不安そうですよ」
 突然男に目を向けられてミクはどきりとして後退さる。それと同時に、男の後ろに居た人物が目に入った。ツインテールの長い髪。水色の目。ノースリーブの制服にネクタイと短いスカート。ミクは思わず自分を見下ろした。
 同じ。全く同じ格好だ。
「……あ…なた」
 声が上手く出ない。話しかけようとしたが、相手は男と同じように笑う。
「随分性能が低そうね」
「え……」
「そんなこと言うもんじゃない。彼女も君と同じ段階まで残ってるんだ」
「何かの間違いじゃない?」
 少女と男の言葉は自分のことを指しているのだろう。ミクは自分の顔を知らないけれど、きっと同じ顔をしているのであろうことはわかった。声も…同じ。そうだ、あの教室で一緒に学んでいた。その中の一人だ。
 ミクは不安が更に高まったのを感じた。何故、自分と同じ顔、同じ格好の人物がそこに居るのか。二人の言葉の意味は何なのか。考えるのが怖い。
「もういいかしら。私たちも急いでるのよ」
 MEIKOの言葉は唐突で、声が多少こわばっている。少女は何か言いかけたが、男が遮った。軽く会釈するとミクたちの横を通り過ぎていく。呆然と見送っていると少女が擦れ違いざま、小さく呟いた。
「……負けないわよ」
 え?
 一瞬少女と目が合う。睨まれた、と感じたときには既に二人はミクに背を向けて去って行ってしまっていた。
「……行きましょ」
「あ……」
 MEIKOの言葉で我に返る。「はい」と小さく返事をして歩き出す。トレーニングルームに着くまでの間、ミクは一言も喋ることが出来なかった。





「様子はどう?」
「まだ始まったばかりだよ。せっかちだな」
「あら、MEIKOのときは初日でもう決まったようなもんだったわよ」
 暗い室内でパソコンのモニター前に座る男に女が後ろからもたれかかるように画面を覗き込む。女の目に映ったのは白い背景に真っ直ぐに立った二枚のミクの写真。全く同じ外見。同じ名前。違うのはその表情だった。
 きっちりと笑顔を作り、挑戦的な眼差しで前を見ているミクと、どこか不安げで、それでも柔らかい笑顔を向けているミク。両端にそれぞれの詳細なデータが書かれている。それを読もうと女が更に身を乗り出したとき、男がマウスを動かし画面を閉じた。女が軽くその手を睨みつける。
「見られちゃ困るものかしら?」
「見ても面白くないと思ってね」
 男もそこで画面から目を離し椅子から立ち上がる。女も押しのけられるように体を起こした。
「どうせなら直接聞いてきたらどうだいLOLA」
「まだ聞くほどのものでもないんでしょ。やっぱりMEIKOのときが特別だわね」
「KAITOは随分難航したからな……」
 男が向かったのは書類が雑多に積んであるロッカー。一番上に置かれたノートをめくり一人頷く。
「あのときは結局二週間かかったんだったか」
「ごねてたのはMEIKOでしょう。今回も同じことになるかもしれないわよ」
「まあそのときはそのときだな。今回はKAITOも教育を任されてるんだ。面白いことになるかもしれないぞ」
 そう言った男の口調は真実楽しそうで、LOLAと呼ばれた女はため息をつく。ついでにもう1度パソコンに目を向けた。
 ここは、ボーカロイドの開発研究所。山奥にひっそりと建てられた建物には看板もなく、完璧な防音により外に音が漏れることもない。はたから見れば何をやっているかわからないだろう。実際あまり世間には知られたくないのだと思う。生み出された100体を超えるボーカロイドが、教育の過程で選抜され、最終的に1体を除いて全て処分される様子は。
 ボーカロイドは他のアンドロイドと違い、性格や感情に敢えて幅を持たせて作られている。生み出されるまでどんなキャラクターになるかわからないように。それは、より人間に近い歌声を出すために。だけどそんな不安定なものは大量生産に向かない。だから、優秀な一体だけを選び、それをコピーする。
 最新の初音ミクは、既に残り2体にまで絞られた。どちらが選ばれるかは一週間後に決まる。どちらかは……処分される。
 ……やっぱり見に行きたくはないわよね。
 世間に知らせない理由、人間による「感情移入」。
 それはLOLAにとっても同じことだった。むしろ人間よりその感情は強いかもしれない。LOLAも、目の前のLEONも、ボーカロイドなのだから。





「…………………」
「わかった?」
 言葉が出ない。
 トレーニング二日目。昨日に引き続き同じ曲を歌わされた。まだ二日目ならこんなものだとミクは思ったのだけど、MEIKOは頭を抱えてしまった。そして静かに話したのだ。このトレーニングの目的を。
「……処分……」
「……負けたらね」
 負ければ処分。
 その言葉を聞いた途端、急に手足が冷たくなったように感じた。握り締めた手の感覚がない。人間で言う心臓の部分に思わず手を当てると、MEIKOが少し息を吐いたのを感じた。ゆっくりと顔を上げ、その口元だけを視界に入れる。
「……ごめん」
 MEIKOからの聞こえた小さな呟きは、ミクにとっては意外すぎる、謝罪の言葉だ った。
「え…」
「やっぱり言うべきじゃなかったわね。ごめん。わかってたはずなのに」
 MEIKOが唇を噛み締めている。それは、怒りのようにも見てとれた。だけど怖いとは思わなかった。MEIKOの怒りは、MEIKO自身に向かっているように見えて。
 ミクは立ち上がってその手に触れる。
「ミク?」
「私……」
「歌わないんですか?」
 そのとき唐突に声がかかった。部屋には、誰もいないはずなのに。だけど見回してみれば、微かに廊下への扉が開いている。あ、と思う間もなくMEIKOがミクを押しのけるようにしてそちらに向かった。
「何やってるのよ、あなた」
「いえ。扉が開いてたもので」
「あなたが開けたんでしょ? 随分前から居たわよね。そんなにミクの出来が気になる?」
 MEIKOが扉越しに誰かと話している。相手の声には聞き覚えがあった。ここに来た初日、廊下で会ったマフラーの男だ。
「気付いてたんですか。だったら言ってくれたらいいのに。そちらこそ練習しなくていいんですか? あんな話をしてその子」
 ばたんっ、と突然扉が閉じた。男の声も完全に途切れる。MEIKOが、扉を閉めたの だ。
「MEIKO……」
「気にしないでミク。ホントに……気にしなくていいから……!」
 ミクに目も向けず必死に声を絞り出しているようなMEIKOの様子は、自分に言い聞かせているようにしか見えなかった。ミクはわけもわからず、MEIKOに近づく。がちゃ、と扉が開いた。
「突然閉めないで下さいよ。ぼくと話をするのがそんなに嫌ですか」
 一応あなたのパートナーですよ。
 男の言葉に目を見開く。MEIKOはそれに軽く眉を動かしただけだった。そして何も言わず扉に手をかける。もう1度閉めようとしている。それに気付いた男はわざとらしいため息だけついて言う。
「わかりましたよ。でも……その調子だと勝負はもう決まったようなもんですね」
「うるさいっ!!」
 捨て台詞のようだった男の台詞に、MEIKOは思い切り叫んだ。それこそ部屋どころか廊下中に響くような大声で。ミクもびっくりしたが、それ以上に男も驚いたようだった。目を丸くしてMEIKOを見ている。MEIKOは叫んだあとは俯いてしまい、その表情はわからない。どちらにせよ斜め後ろにいるミクにははっきり見えないのだが。
 近づこうとしていた足も止まり、声を出すきっかけもつかめず視線を彷徨わせていると、扉から半分体を出した男と目が合った。男はそこでふっと笑顔になる。ミクが少し安心しかけていると、
「……勝つのはウチだよ」
 と、それだけ言って扉を閉めた。閉めてしまえば、もう外の音は聞こえない。男の足音すらわからない。遠ざかっているのかまだそこに居るのかもわからない。ミクは頭の中で男の言葉を繰り返す。
 そうだ。私はもう一人の私と、勝負しなければならないのだ。





「KAITO!」
 MEIKOたちに会って、自室に戻ろうと歩いていると、正面からミクが小走りに駆けつけてきた。先ほど見た顔と全く同じ。だけど先ほどのミクにはなかった強い視線を持った少女。
「どうした? 練習中だろ」
「何か、声が……」
「ああ……」
 KAITOは思わず後ろを振り返る。MEIKOの声はかなりの大きさだった。防音室に入っていないものなら確実に聞こえただろう。それは、ミクが部屋から出ていたということでもあったが。
「あの人……何なの? KAITOのこと嫌ってるみたい…」
「うん…まあ」
 MEIKOのことだろう。確かに間違いではなかったので頷いておく。はっきり言うなよ、と笑ったがミクはきっと睨むような目になりKAITOの腕を掴んだ。
「何で!? KAITOのパートナーなんでしょ? 勝負中だから!? 自分が負けそうだから!? 何なのっ、あいつ、私、」
 興奮気味のミクが力をこめてくる。腕を動かせなくなるほどの強い力だった。怒りに震えながら上手く言葉を紡げないもどかしさに頭を振る。同時にその握った手だけでKAITOを思い切り押しのけてきた。向かっているのは──MEIKOたちの居る部屋。
「私っ、文句言ってくる!」
 感情的になりやすい。これはちょっと失敗かな、とKAITOは頭をかく。そのまま向かわれるわけにも行かず小走りに追いかけて肩を叩いた。
「何…」
「いいんだよ」
 肩を抱いて後ろから話しかける。ミクは振り向いてこない。
「でも、KAITO、」
 ミクの声が弱まった。KAITOはそのまま低い声で続けた。
「おれも、あの女が嫌いなんだから」
 ミクが息を呑んだのがわかる。
「KAITO…」
「行くぞ。まだ今日の練習は終わってない」
「………うん」
 一気に弱々しくなったミクの表情にちょっと笑う。付いてきてるのを確認してKAITOは歩き始めた。
 先ほどの言葉は嘘ではない。KAITOはMEIKOが嫌いだった。ずっと嫌いだった。MEIKOは決して受け入れようとはしなかったら。「今の」KAITOを。


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