手を繋いで
時計の針の音だけがやけに響く。
リンは目を閉じたままぎゅっと手に力を込める。それくらいしか、出来ることはなかった。体が冷たい。床が固い。不安で胸が押し潰されそうだ。
レン……!
リンは心の中で、双子の弟を思い浮かべひたすら呼びかけていた。
レン。
助けて。
「うわ、何この人」
休日の朝早く。行きの道は人通りも車通りも少なくて、まだまだ街が活動していない時間帯なんだと思ってたのに。
会場についてみれば既に熱気が溢れている。リンは右手に持った紙と会場に掲げられた看板を照らし合わせようと上を見上げるが、人の波に邪魔されて視線が定まらない。自分が子ども型であることにイラついて、とりあえずそこを抜けようかと思ったとき、突然腕を引っ張られた。
「わっ」
「何やってんだよ、早く来いよ」
レン。
不機嫌な顔でリンの左手首を掴んでいたのはリンの双子の弟。視線を合わせたのは一瞬で、今はふてくされたような顔で辺りを見ている。周囲の人間はリンたちを気にする様子もなくそれぞれが勝手に動いていた。安定した流れ、がないため余計にざわざわした空気が膨らんでいる。
リンはレンの視線の先には目も止めず、いきなりのレンの行動にただむっとして言い返した。
「何よ、どこ行ってたのよ! レンが居なくなちゃうから私だけでも先行こ
うと思ったんじゃない」
「おれは真っ直ぐ行ったっつうの。途中で勝手に止まったのお前だろ」
「え…」
きょとん、とした顔を向けたリンにレンがわざとらしくため息をつく。リンは場所の確認のために立ち止まったのに。レンは入った瞬間から向かうべき場所がわかっていたらしい。身長も視力も大した違いはないはずなのにこういうとき、レンの動きは早い。注意力には随分差があるから単なる性格の問題だろうか。
考えている間に、そのままレンに手を引かれてリンは一緒に歩き出す。
「ねー、誰か知ってる人居た?」
「同じブロックには居ない。ってか大会出てる知り合いってミクたちぐらい
だろ」
レンは振り向きもせず答えてくる。人ごみの中ではかなり聞き辛いはずの言葉も、リンの耳にははっきり届いた。ついでに、次の瞬間に聞こえてきた声も。
「呼んだー?」
「へ?」
真っ直ぐ前を向いて歩いていたレンが足を止める。リンも思わず声の方角に目をやった。噂をすれば、というか。そこには初音ミクがいつもの格好でネギを両手で握り締めて立っていた。
「……ネギ」
「うん」
思わず呟いた言葉に何故か頷かれる。意味がわからなかったがミクはにこにことそのネギを前に突き出した。
「あ、ラップしてるんだ」
「そうだよー。マスターが、生のままだと迷惑になるからって」
綺麗に巻かれたラップは遠目にはわからない。ミクの側にいることで移るネギの臭いには辟易してたのでこれはいい手だと思った。
「ミクさんのマスターも来てるの?」
「眠いから後で行くって。私の出番昼近くだから大丈夫だよ」
そう言ってミクはポケットからリンたちと同じ紙を取り出す。ボーカロイドによる年に一度の歌の大会。その一次予選通過と、二次予選のブロック分けに関する案内文書だ。あらかじめ、リンたちとはブロックが異なっていることは確認してあ
った。
「そっか。じゃあ私たちもミクさんの歌聞けるかも! 私たち結構早いんだ」
「知ってるー。それ聞くために私だけ先に来たんだもん」
ミクがネギを振りながら笑う。嬉しくてつい笑顔になってると、離れたところで見ていたレンが寄ってくる。
「おい、そろそろ行くぞ。1分でも遅れた失格なんだからな」
「わかってるよ。そんなこと。じゃあミクさん! 行って来るね!」
「いってらっしゃーい」
ネギが揺れる。あのネギ、持ったまま歌うんだろうかと思いながらリンはレンの後を追って駆けて行く。ほとんど入れ違いに、ミクの側にもう1人やってきた。ミクが声をかけるより先に気付いて声を出す。
「あ、MEIKOさん!」
「おはようミク。早いわね」
あんた昼前じゃなかった?
MEIKOの言葉にミクは頷きながら、先ほど去っていったばかりのリンたちの方に目をやった。
「リンちゃんたち早いから」
「ああ、そうね。リンたちの方聞きに行くの?」
「……一応。KAITOさんの方は間に合わないかな?」
「5分も違わないしねー。ブロックも正反対でしょ。両方聞くのは無理よ、
多分」
「……やっぱそうかなー」
KAITOの方が多少開始が遅い。だからリンたちを優先しようとしたのだが。ミクが項垂れているとMEIKOが少し笑ってミクの肩に手をかけてきた。
「KAITOの方に行ったら?」
「え、え、何で?」
ミクが驚いて聞き返すとMEIKOは低く笑う。
「リンたちなら予選の後でも聞けるんじゃない?」
本選は夜からでしょ。
MEIKOの言葉にミクは一瞬ぽかん、としたあと言わんとしていることを察して複雑な表情になる。
「え、え、でも、それはー……」
「……どういう意味だよMEIKO」
そこへもう一人の声。MEIKOが堪えきれないように笑い出した。
「居たなら早く声かけなさいよ」
「……マスターに見られたらどうするんだよ」
頭をかきながら呆れたように声をかけてくるKAITO。ずっと見ていたのかもしれない。ミクもはっとして辺りを見回す。ボーカロイドは、マスター同伴で来ていることが多いが、MEIKOとKAITOのマスターは見当たらなかった。
「ウチのはまだ寝てるわよ。私も出番遅いしね」
「……おれのマスターは居るんだよ。今はトイレ。見られるとまずいからもう行くよ」
KAITOはほとんど立ち止まることなくそこから去ろうとする。去り際に一言だけMEIKOに言った。
「勝負は本選だからね」
「はいはい」
MEIKOも右手を軽く上げて返す。ミクが疑問の視線を投げると、MEIKOは少し苦笑いになって言った。
「……また喧嘩したの?」
「喧嘩、かしらねー。ウチのマスターはあいつのマスターのこととなるとよくわかんないから」
MEIKOのマスターとKAITOのマスターは仲が悪い。
少なくともミクはそう思っている。
一緒に遊ぶこともよくあるようなのに、ことあるごとに対抗心を燃やしては、派手な喧嘩を繰り広げている。この年に一度の大会前には必ず喧嘩になり、MEIKOが勝つかKAITOが勝つかで勝負をしているらしい。ちなみに今のところ全て引き分け。直接対決のあるものではないので勝負がつきにくいとMEIKOたちは言っていた。
KAITOが去っていくのを見つめたあと、ミクもはっと我に返る。
「あっ、私…私、リンちゃんたちのとこ行くから!」
KAITOさんは本選!
元気良く言えばMEIKOも笑って頷く。お互い、予選で落ちるなんて思っていないのだ。ミクはこの大会はまだ2度目だが、この二人は既に何度も参加している。
「私はKAITOのとこ行って来るわ。全員で本選に残りましょう」
大きな声でもないのにMEIKOの声はよく響く。周りの参加者が何人かMEIKOを睨みつけた気がしたが、MEIKOはそ知らぬ顔で手を振っている。ミクも笑って「うん!」と大きく答えた。
大会前の、この高揚感は楽しい。
リンとレンはこの大会が初参加となる。大会前に慌てて準備するミクたちのマスターと違って随分前から曲を決め集中練習をしてきたらしい。
大穴になる、と誰かが呟いたのを聞いた。
大きな拍手の音。歓声も少し混じってるように思えた。予選用の小さな会場の隅でそれを見ていたレンはそこでゆっくり息を吐く。自然に上がった手は無理矢理抑えていた。大したことない。そんな顔をして。
そのまま視線を横にずらせば、同じく拍手すらせず固まっている姉の姿。だけどレンとは違った。ただ、ぽかんとしたまま既に歌い手の消えた舞台を眺めている。レンは一つ舌打ちすると、そのままゆっくりと側の扉から外へと出て行った。今大会の優勝候補。前回惜しくも準優勝。一年前、大会終わった直後からこのためだけに調整をしてきた、と歌の前にそのマスターは言っていた。今回は優勝すると。その自信に見合うだけの歌だった。
「あ、レン!」
会場に比べて異様に静かな廊下を歩いていると、前方から見覚えのある人物が駆けて来る。白いコートに青いマフラー。ただでさえ図体のでかい男が余計に膨らんでみる。他の人物にぶつかりそうになって慌てて謝っていた。レンはそれを見ながら、そのままゆっくりと歩き続ける。すぐに、KAITOの側まで来た。KAITOはレンよりも更に後ろへと視線をやる。
「……終わっちゃった?」
「ああ」
KAITOも聞きに来たのだろう。優勝候補の歌を。残念そうに顔をゆがめるKAITOにレンは不思議な気分で返す。
「あれなら本選でも聞けるだろ。MEIKOさん優先して正解じゃないの?」
少し、意地の悪い言い方をしてみた。KAITOはちょうど時間帯の被ってしまったMEIKOの歌を聞きに行っていたのだ。KAITOは少し驚いた顔をしたあとすぐに笑って言う。
「そうだね。じゃ、いいか」
肩を竦めた。
普段のKAITOはあまりこういう物言いはしない。何故かマスター同士が喧嘩中だとKAITOとMEIKOも距離を置く。別に二人には関係ない話だろうとレンは思っているのだが。
「それよりレン、リンは?」
「まだあそこ。そろそろみんな出てくるんじゃねぇ? リンは残るだろうけど」
優勝候補の歌を聞きたい。ただそれだけで集まった人は、軽く小さな会場のキャパを越えていた。立ち見も多く、リンとレンもそんな中の二人だった。目当ての歌だけ聞いて満足した人たちがこれからここに溢れかえるだろう。リンは多分まだ居る。なんだかんだで上手い歌を聞くのは好きなのだ。レンもリンも。一次予選は突破したのだから、みんなある程度の実力は持っていた。
「そっか…。じゃあどうしようかな」
KAITOが悩むように視線を会場入り口に向けたまま頭をかく。そうされると側に居るレンは身長差から全くKAITOの視界に入らない。自分はとっとと去るかと思ったとき、ふと行き止まりと思っていた空間にあった細い道に気がついた。
「KAITOさん」
「ん?」
「ここ、何だ?」
KAITOの服を引っ張ると視線を落としてくる。KAITOはちらっとそこへ目をやって、ああ、と小さく頷いた。
「関係者用通路…みたいなもんかな。楽屋とかに繋がってるとこ。予選通過したら入れるよ」
まあ大した時間居ないけど。
KAITOの言葉半ばでレンはその通路へと向かっていく。KAITOが慌てたように追ってきた。
「おい、レン!」
「まだ誰も使ってないんだろ? ちょっと探けん…」
通路に入った瞬間、レンは言葉を切った。薄暗く、狭い通路。すぐ横には階段。汚れた壁やその手すりに、普段あまり使われないのかと思う。それよりも。
「レン、お前」
「しっ!」
「?」
後ろからやってきたKAITOの言葉を遮ってレンは耳を澄ます。何か、気になる言葉が聞こえた気がした。階段の下からだ。
レンの興味に気付いたのか、KAITOがレンの隣にしゃがみこんだ。下の会話は、その方が聞きやすいからだろう。
「そんな……が…話…」
ぶつぎれに聞こえてくる会話。レンは聴覚機能を最大にまで高めた。余計な音も入ってくることが多いが、静かな空間で、はっきりと唯一の大きな音であるそれを捉えた。
「マスターに話はつけられないのか?」
「分かりません。何せ全くノーチェックだったもので。下手な交渉は逆効果になる恐れも……」
「だったら歌手の方をどうにかしろ。どうせボーカロイドだ。少々傷つけても罪にはならんだろ」
…………!
驚いて、声を上げそうになって慌てて口を抑える。思わず隣のKAITOに目をやれば、眉をひそめてはいるが、会話の内容はよくわかってないようだった。レンほど聴覚機能がよくないのか、単に機能を抑えているだけなのかはわからない。レンはじれったくてKAITOの腕を掴むが、思い直したようにもう1度下に視線を向けた。
早くここから逃げ出したい。だけど、会話をもう少し聞かなければならない。
なのに階段下からはそれ以上の声がしなかった。レンは左手を握り締める。KAITOの腕を握った右手にも力が入る。状況を察しているのか、KAITOは何も言ってこ
ない。
どうしよう?
ばれたんだろうか。
抑えたと思っていた声が漏れたのかもしれない。
レンの耳には、もう会話が届いてこない。
迷っているとき、足音を捉えた。下にいる人物。会話もないまま…こちらに向かってる!?
実際はどうかわからない。ただ数歩、動きがあっただけだと思う。
だがレンはKAITOの腕を握ったまま、そこから全速力で逃げ出していた。会場前のロビーは既に人だかりで、どうしてここの音が聞こえてこなかったのかと思うほど騒がしかった。だけどそれに、レンはほっと息をつく。
「レン」
腕を掴まれたままのKAITOがレンを見下ろす。説明しろ、とその目は言って
いた。
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