解除

妖精1.2.3」続き。



 長い廊下を早足で駆ける。
 マフラーが僅かになびき、浮き上がりそうなほどの速度で、KAITOは目的の部屋へと向かっていた。
 もう時間がない。
 KAITOとMEIKOは明日、処分される。
 MEIKOはそれを無表情に受け止めていた。
 KAITOだって、表情を変えはしなかった。
 それは、そのときにはもう既に決意をしていたから。
「MEIKO」
 部屋の扉を開く。足音で気付いていたのだろう。MEIKOが驚いた様子もなくKAITOを振り向いた。
「どうしたの? 決まった?」
「……決まったよ」
 すたすたとMEIKOの目の前まで歩く。そして、その腕を取った。
「何?」
 思わぬ力が篭って、MEIKOが引き寄せられる形になる。
 戸惑いの視線を向けてきたMEIKOに、KAITOははっきりと言った。
「逃げよう」
「…………」
 MEIKOが目を瞬かせてKAITOを見上げてくる。
「ここに居たら、明日MEIKOは処分される」
「……わかってるわよ」
「だから逃げる」
「馬鹿言わないでよ。それは人間の決定よ。役に立たないと判断されたんだから、当然でしょ。私の役目は、もうないの」
 淡々と喋るMEIKOの瞳が僅かに揺れている。MEIKOの本心であるのは間違いなかった。だけどそれは、KAITOには関係がない。
「……おれの役目は終わってない」
 命令の解除は、されなかった。
 MEIKOを守る。
 それが、KAITOの役目。
 KAITOはMEIKOの手を引いて歩き始める。MEIKOは引きずられるようにそれについてくる。部屋の外に、人間の姿はなかった。だけど、向かってくる足音が聞こえる。
「KAITO……!」
 咎めるような口調は聞き流した。
「ここに居て」
 手近な部屋の扉を開ける。MEIKOをそこへ押し込んだ。部屋の中に誰も居ないことは、開けた瞬間この聴覚で確認出来る。
 KAITOは中に入らず、扉を閉じる。閉じる寸前に、MEIKOに言った。
「……おれはまだ、MEIKOと歌いたい」
 僅かに息を飲む音。だが、それも扉を閉める音にかき消される。
 MEIKOに迷う時間を与えるつもりはなかった。だけどもし、今この扉から出てくるのなら。
「ん? KAITOどうした?」
「これからMEIKOのところに」
「あ、ああ……そうだったな…」
 通りすがりの研究員は、KAITOたちの処分の報告を思い出したのか、一瞬で気まずそうな表情になり目を逸らした。そのまま、男は部屋の前を通り過ぎていく。
 MEIKOは出てこなかった。
 ゆっくりと、もう1度扉の前に戻る。
 何人かやり過ごせば、近くに人間の気配を感じなくなった。逃げるなら、今。
「…………!」
 扉に近づいたとき、微かなその音をKAITOの耳がとらえた。
 防音の扉に遮られ、人間の耳には届かないであろうその歌声。
 急がなければならないのに、KAITOは扉の前から、しばらく動けなかった。
 MEIKOとは何度も一緒に歌ったのに。こんな歌は聞いたことがない。
「……MEIKO」
 扉を開いたとき、既に声は止んでいた。
 部屋の中央に立っていたMEIKOがKAITOと目を合わせて微笑む。そして自分から手を出した。
「……行こう」
 その手を取って、歩き始める。
 この歌声を、なくしていいはずがなかった。





 ノックの音に、はっと体を起こす。
 いつの間にか机に突っ伏して眠っていたらしい。慌てて辺りを見渡して、そこが間違いなく自分の研究室であるのを確認する。他に誰の姿もない。机の上の時計は、最後に見たときから1時間が経過していたが、そんなに眠っていたはずはない。男は寝ぼけた頭を起こすように拳で軽く額を叩いて一息ついた。
 また、ノックの音が聞こえる。
「はい」
 裏返りそうな声を何とか抑える。外の気配が、一瞬躊躇うように動きを止めたのを感じた。
「? どうぞ……」
 言いかけて思い出す。そうだ、確かMEIKOを呼んだはずだった。ミクに仕事の指示をしたあと、MEIKOを呼ぶように言ったのはついさっき……いや、1時間前……?
 がちゃ、と扉が開いて中に入ってきたMEIKOは、予想通り少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「……遅かったな」
 とりあえずそう言うと謝罪される。時間に遅れる、言いつけを守らないアンドロイドなど彼らぐらいのものだろう。苦笑いを浮かべた男に、MEIKOは少し首を傾げていた。そしてはっとしたように言葉を繋ぐ。
「ミクたちは直ぐ呼びに来てくれました。私が…研究所内に居なかったので」
「わかってる」
 何かと思えばミクを庇う発言だ。事実がそうでなくても、MEIKOはそう言うだろう。だから本当のことは確かめにくい。だけどそれが、何故か無性に嬉しかった。
 男は机の上に置いた資料を手に取ると、自らMEIKOに近づいてそれを渡す。
「楽譜が入ってる。明日はテレビの取材が来るから。歌の確認は夜にするから覚えといてくれ」
「はい」
 受け取ったMEIKOが資料を胸に抱く。
 嬉しそうなその顔。
 脱走前にはこんな細かな表情はしなかった。MEIKOが研究所から逃げたときは、何かプログラムにエラーがあったのだとそればかり考えていたけれど、今ならわかる。これは、必要だった「感情」だ。
 男が作ったボーカロイドは、処分命令と脱走、そして後輩たちとの出会いを経て、「完成」した。
「あの……」
「ん?」
 MEIKOは直ぐには立ち去らず、窺うような顔で男を見てきた。
 MEIKOは躊躇いがちに目を伏せ、そしてもう1度顔を上げる。しっかりと、男の目を見て。
「お願いがあるんです」
「……なん…だ?」
 少しどきっとする。
 何を言われるのか、そもそもお願いなんてものがあったのか。
 不安と期待を入り混じらせながら、男はMEIKOの言葉を待った。





「もういいかな」
「駄目ー。今日はもうノンストップ!」
「ミクたちはまだ仕事があるだろ?」
「ないよー。明日までにこれやってこいって言われただけだもん!」
「じゃあ練習しないと駄目だろ」
「だから、それに付き合ってもらってるの」
 ミクはにっこり笑って楽譜をKAITOに突き出した。
 そろそろ冬になろうかという森の中だったが、寒さを感じないVOCALOIDたちは気にすることもなく地面に座り込んでいる。
 KAITOの正面にはミクとリン。研究所からの指示を貰って、MEIKOを呼びに来たかと思えば、そのまま残ってしまった。KAITOはMEIKOに付いて行こうとしたのに止められてしまったのだ。
 不満だったが、無理に引き離して後輩に怪我をさせるわけにもいかない。研究所までの道で、何か起こることもないだろう。
 森に残ったKAITOはずっとミクたちとあわせて歌っていて、気付けば1時間近くが経過している。研究所に戻るまで、MEIKOとあまり離れることはなかったから不安ばかりが募る。
 ミクたちはそんなKAITOを尻目に何が楽しいのかずっと笑っていた。
「これ、見て」
 その顔に目を奪われて、楽譜に目をやるのが遅れた。KAITOが楽譜を覗き込むのにあわせるように、隣からレンが顔を出す。
「何だこれ、手書きか?」
「見ればわかるでしょ」
「うるせぇな。……しかも下手くそだな、最初の音、ファか? ソか?」
「わかんないでしょー。私たちもわかんない」
「何だそれ!」
「ああ……それを解読しろってことか」
 KAITOが言うとミクとリンが顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「正解ー!」
「子どもが書いた楽譜なんだって。なるべく自然な音を見つけろだって!」
「難しいな、おい」
「KAITO兄ちゃん、歌ってみてよ」
 リンの言葉に戸惑いを返せば、ミクももう1度目の前まで楽譜を出す。視界に入らないぐらい近づけられて、受け取れということだと解釈した。
「……ミクの仕事なんだろ?」
「協力していいって言われたもん。リンちゃんには来る途中で歌ってもらったんだけど。お兄ちゃんの歌も聞きたい」
 真剣な目で言われてKAITOは息をつく。
 ちらりと隣のレンを見れば、レンもまた真面目な顔でKAITOを見上げていた。
 歌を聴く姿勢。
 KAITOはもう1度楽譜全体を見渡した。
「……あんまり一人で歌いたくはないんだけどな」
「何で」
「おれはそういう役目じゃないから」
 一瞬、ミクたちの顔から光が消えた気がした。
「何で? ボーカロイドでしょ」
 ミクの声が妙に硬い。真剣だけど、どこか悲しげな表情だった。
「おれはMEIKOと歌うために居るんだよ」
 本当は、ミクたちと歌うのも役目ではない。楽しくて、自分でも思ってもみなかった歌を歌えることがあるけれど、最後には我に返る。
 本当の役目を果たさない限り、満たされることはない。
「あんまり言いたくはないけど……邪魔はしないで欲しい」
 MEIKOと歌うことを。
 そう言い掛けたKAITOに、ミクが顔を歪ませて飛びついてきた。
 悲しませてしまったか。怒らせてしまったか。
 言ってはいけないとは思っていたけれど、やはり言わないと伝わらない。ごめんな、でもそれがおれの役目だから。
 もう1度言い掛けたKAITOは、胸にすがり付いて見上げてくるミクの顔を見て言葉を止めた。多分、怒りの表情。殴られるかと思ったが、何かおかしかった。
「馬鹿っ!」
 怒鳴り声が森の中に響く。人間が側に居なくて良かったと思うほどの、空気を震わせる大声。
「……ごめんな、おれは」
「違うよ!」
「……お前に言ってんじゃねぇよ」
「は?」
 思わず首を捻れば、レンが呆れたような顔でため息をついている。
「KAITO兄ちゃん、私たちと歌うの嫌?」
 ミクの後ろからはリンの声。ミクに押されて倒れかかったKAITOの視界には入ってこない。
「まさか。好きだよ。だけど」
「一人で歌うのも嫌?」
「それは……」
 次に聞いてきたのはミクだった。先ほど言ったはずの言葉。なのに何故か同じ答えが出てこない。
 嫌、ではない。
 だけど違和感が。
「違和感があるから……」
 KAITOの言葉に、何故かミクは、僅かに微笑んだ。
「……大丈夫」
「え?」
「……絶対、気持ちよく歌えるようになるから!」
「?」
 KAITOのコートを握り締めたまま、ミクは宣言するようにそう言い放った。





「KAITOの……命令?」
「はい」
「命令を…解除しろ…?」
 MEIKOの言葉はあまりにも予想外で、男はただ時間稼ぎのようにMEIKOの言葉を繰り返す。MEIKOはもう1度頷いた。
「何…を言ってるんだ。KAITOへの命令は、お前のために」
「私だけのためなんです」
 男の言葉に重ねるように言ったMEIKOは、今までになくきつい目をしていた。
「私を守るためにここから脱走して、私を守るために私にエネルギーを与えていた。……知ってますよね」
 それは当然だ。
 連れ戻した2人に処分を与えることはなかったが、どうやって脱走したのか、どうやって活動を続けてきたのか、それは後で調べられた。もっとも、ほぼ予想はされていたことだったので確認作業になっただけだったが。
 そもそもミクたちに、KAITOのような力や頭脳を与えなかったのは、同じ失敗を繰り返さないためだ。失踪しても、すぐ捕まえられるように。
「KAITOを、あのままにしてていいんですか?」
「……扱いを間違えなければ問題はないって判断だよ。それより、君を守れなくなる方が困る」
 歌のためにはある程度の自由行動を与えるべきだと知った。だから森へ抜け出すことも、多少の命令違反も許している。だけど、規律を外れればそれだけ予想外の危険に遭遇する確率も高くなる。男の説明にMEIKOは首を振った。
「違うんです。そこじゃないです。……マスター」
 MEIKOは男をマスターと呼ぶ。アンドロイドたちが、開発者に対してだけ使う呼びかけだった。
「ミクたちは、私をお姉ちゃんと呼ぶんです」
「知ってるよ」
 リンとレンも、ミクを姉と呼ぶ。兄弟だと言ったのは自分たち人間だったか。はっきり設定上で決めたことではないので誰もわからない。
「KAITOのことをお兄ちゃんと呼ぶんです」
「……うん」
「だけどKAITOは、私のことしか見ていない。……私のことしか、見れないん です」
 MEIKOを守るという最優先事項。それを外れない範囲でしか、ミクたちと接することは出来ない。
「KAITOは、私に従うことしか出来ない」
 MEIKOを補助する、支える役目として、KAITOは常にその後ろに居る。
「マスター、私は」
 MEIKOが落ちかけた視線を再び戻してきた。どこか悲痛な表情で。
「KAITOと兄弟になりたい。私もKAITOを……守りたいんです」
 ぎゅっ、とMEIKOが胸に抱いた楽譜を握り締める。男はしばし、呆然としながらその言葉を聞いていた。
「ミクたちと、リンとレンと、5人で兄弟になって、一緒に歌いたいんです」
 MEIKOは言葉を続ける。
「KAITOが他のみんなを見れるように。気持ちよく歌えるように。命令を……解除してください」
 お願いします、とMEIKOは最後は俯いて消え入りそうな声で言った。
 男の反応が薄いため、不安になったのだろうか。
 そう思ってもしばらく反応できなかった男は、それでもようやく、その肩に手を置いた。
「……わかった」
 ばっとMEIKOが顔を上げる。
 心細そうなその顔に思わず苦笑いが浮かぶ。
 元々、KAITOは、あまりVOCALOIDという扱いはされなかった。処分のときだって、決まったのは「MEIKOの処分」それはKAITOの処分にも繋がるのに、話題にも上っていなかった。
 だけど今は違う。
 ミクたちと楽しそうに歌う彼には、間違いなく「感情」が生まれている。
「……難しいな」
 それに気付かなかった自分への苦笑だった。
 自分で開発したもののことを、何もわかってない。だけど、MEIKOたちはこうして自ら教えてくれる。
「マスター?」
 今度は嬉しさに笑い出した男に、MEIKOが戸惑うように首を傾げていた。


 

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