妖精の歌が響く森

 そこはとても小さなステージだった。
 薄暗さにごまかされるが、傷だらけ、ツギハギだらけで汚れも酷い。椅子もない客席は、座り込むとじゃりっと砂の感覚がした。誰かが土足で踏み込んだのか。屋内であるはずなのに冷え冷えとした空気のせいか、高い天井のせいか、密閉感に乏しい。
 だが中央に立つ女性が歌い始めたとき、響き渡るその声に初めて部屋の狭さを実感した。
 無機質に跳ね返ってくる音が、苦しい。もっと、どこまでも、この歌声は響くはずだと思った。



「ホントに行くの……?」
 門を乗り越えたあと、迷いもなく歩き始めた双子に向かってミクは不安げに声をかけた。無意識に、門をぎゅっと握り締めている。双子は立ち止まりはしたものの、引き返しては来なかった。僅か数歩分の距離がやけに遠く感じる。月の明かりもない真夜中。ミクの視力でもその表情の判別は難しい。
「何言ってんだよ、ミク姉ちゃんが言い始めたことだろ」
「あれは……冗談で……」
「嘘つき。気になってるくせにー」
 不審と不満のにじみ出るレンの口調。リンはそれより少し明るく、ミクの気持ちを疑いもしていない。早く行こう、と歩き始めるリンは、ミクが着いてこないことなど考えていない。
「ま、待って……」
 自分の気持ちはまだはっきりしていない。だけど、置いて行かれるわけにはいかなかった。チャンスは、おそらく今日しかないのだから。
 二人に追いついたあと少し後ろを振り返る。自分たちの自宅。研究所。ミクも、この双子もここで生み出されたアンドロイド。役割は、ただ歌うこと。研究所に居る様々なアンドロイドの中でもっとも人間に近いと言われ、同時にもっとも役に立たないと言われ続けていた。人間に出来ることを機械にやらせて何の意味があるのかと。表情や感情を持たせることに、何の意味があるのかと。
 その答えが出ているのかどうかは知らない。ミクたちはただ与えられた指令をこなすだけ。だけどミクたちがいまだ処分されずに済んでいるということは……おそらくまだ必要とされているのだろう。
「ミク姉ちゃん?」
 いつの間にか立ち止まってしまったミクに、リンが問いかける。
「私たち……ここに帰れるのかな」
 真剣な表情のミクに、双子はきょとんした顔で首をかしげた。
「何言ってんだよ。道に迷うとでも思ってんの?」
「大丈夫だよーミク姉ちゃん。ちゃんと朝までには帰れるから」
「うん……」
 生み出されたばかりの双子は知らない。自分たちの立場を。勝手に研究所から抜け出した、その行動が人間たちにどういった考えをもたらすかがわからない。それは、ミクも同じなのだけど。
「ごめんね……」
「? 何がだよ」
 もしもこれで処分命令が出たのなら、それはミクの責任だ。そこまで考える力があって、双子を止められなかった…いや、止めることをしなかったミクの。ミクも心のどこかで望んでいたのだ、こんな日を。
「よし、それじゃ急ごうか!」
 振り切ろう。せっかく外に出たのだ。馬鹿な頭で考え事をしていても始 まらない。
「え、ちょっと…」
「待ってよミク姉ちゃんー!」
 走り出したミクを二人が慌てて追う。
 楽しい。人間が居ない。
 自分たちだけで町を走っている。どこにでもいける。あの角を曲がるのだって、自由なんだ!
 ミクは今までにない高揚感を感じて自然笑顔になる。
 そんなミクを、双子も顔を見合わせて笑いながら追っていた。





「人気はある。確かに」
「だったら……」
「だけどさ、ただ『可愛い』って言われているだけでしょ。そんなのいずれは飽きられる。彼女たちの歌に価値があると認められなければ意味がないよ」
「…………」
「違う?」
「…………」
 言われた男は俯いたまま、机の上の書類を握り締めている。その通りだった。ボーカロイドの素晴らしさは、結局歌で伝えるしかない。だけどミクのそれはまだまだ未熟で。技術者たちがどれだけ努力しても、どれだけの機能を備えても、ミクの歌には何かが足りない。それが現在の結果であり、事実だった。
「ミクと、レン、リンの人気は今のところ安定してる。彼らだけなら何とかしてやるからさ」
 それは、ボーカロイドの開発終了を意味する言葉だった。そして量産体制も作られないことを。ミクたちの今後の改造も打ち切られるのだろう。
「ミクたちが出来ただけでも十分じゃない。アンドロイドとしては異質だったけど、そういう挑戦もありだったと思うよ。他のみんなもそろそろ君には次の段階にいって欲しいんだよ」
 上司は慰めの体制に入っている。そして同時に命令をしている。男は顔を上げられなかった。
 悔しい。
 ボーカロイドの必要性も、ミクたちの価値も認めさせることができない。
「…………」
 言葉は出てこない。
 心のどこかではわかっていた。もうミクにはこれ以上は望めないのではないのかと。レン、リンの投入が最後の賭けだったのだ。自分と同じ、だけど自分と違う歌を歌うボーカロイドの存在が何か影響を与えてくれるのではないかと思っていた。しかしこの二ヶ月、ミクはただ彼らと「仲良く」なっただけだった。
「もういい? この書類、上には回せないよ」
 最後の確認をするように上司は言った。男はそれでも俯いたまま。上司のため息が聞こえてくる。おそらく、困ったような顔をしている。わざわざ何時間もの時間を割いて書類を読み、説明を聞いてくれたのだ。その上で、駄目だと判断された。男に言えることはもう何もない。
「いいね?」
 上司の言葉に男は小さく頷いた。握り締めたまま震えている手は納得していないことを表していたけど。上司はそれ以上何も言わず部屋を出る。男はしばらくの間動けなかった。部下の一人が、ミクたちの失踪を知らせに来る時まで。





「……ここだ」
「…………うわあ」
 暗い。
 それが第一印象だった。木々が重なった山の麓。昼間見たときとは随分違う。ただでさえ月のない夜。近くの街灯は僅かにその表面を照らしているだけで、そこはただの黒い影にしか見えなかった。
 ミクはその森を見上げてつい数日前に人間の子どもとした会話を思い出す。ミクたちは研究所の人間に連れられて学校や公的施設を回ることが多かった。子どもたちとの会話は以前は制限されていたのだが、最近は積極的に勧められる。ミクにとっても子どもたちの話は新鮮で楽しく、ありがたいことだったのだけど。
『知ってる? 森の妖精の話』
 子どもの声がはっきりと蘇る。ミク姉ちゃんは歌が上手い、とそんな言葉から始まった会話のはずだった。子どもたちは口々に言ったのだ。森の妖精の方が上手い。その歌に聞きほれて学校に遅刻したこともあると。ミクは確かにそれに興味を持った。子どもたちの足を止めさせるほどの歌い手に。
「ミク姉ちゃん」
 思い返していると突然腕を引っ張られた。早く行こう、とリンの目が言っている。リンもレンもあのとき一緒に居た。二人も目を輝かせて子どもたちの話を聞いていたのだ。森で歌う妖精に会いに行こう。それは子どもたちの話を聞いたその晩には既に決定していた。誰が言い出したわけでもなく。
「こっちだ」
 先に森に入ったレンが手を上げた。木々の間からかろうじてその姿が見える。ミクはリンに腕を取られたまま、並んで歩き始めた。
「……暗いね」
 数歩先に進むともうほとんど前が見えない。懐中電灯なんてものは用意できなかった。ミクたち自身の出す僅かな光を頼りに前へ進む。妖精は昼も夜も関係なく歌っているのだと言っていた。大人たちは気味悪がって近づかないのだとも。
「……歌ってくれないとわかんないね」
 一応辺りを見回しながらミクが言う。
「こっちから呼んでみる?」
「何て?」
「……妖精さん出てきてって」
「無茶言うなよリン」
 リンとミクの会話にレンが割り込んできた。レンはミクたちより先に進んでいる。声だけは聞いていたようだ。草をかきわけ、ミクたちの道を作ってくれている。
「そいつ、自分が妖精って言われてるの知らないんじゃないか?」
「え……でも妖精でしょ?」
 ミクの疑問にレンは少し驚いたような声を出して、ため息をついた。
「ミク姉ちゃん。妖精ってのはみんな勝手に言ってるだけで、人間だと思うよ」
「え、そうなの」
 リンが補足した言葉に今度はミクが目を丸くする。そういえばそうなのかもしれない。何となく、本当に妖精が要るのだとミクは思っていた。だって人間が……こんな森の中で歌うとは思えない。
「人間だったら絶対出入りしてるはずなんだよなー。足跡とかあればわかるん だけど」
「足跡……見えないね」
 思わず下を見下ろすが、ただただ黒い。足跡があったとしてもミクの目には留まらない。だがそのとき、レンが声を上げた。
「あった! 足跡!」
「ええ?」
 リンとミクが顔を見合わせて駆け寄る。レンが指したところは足跡にはとても見えない……だけど。
「何度も通ってる……のかな」
「そうだろ、ここだけ凹んでるし硬いぜ」
 しゃがみこんだレンが地面を叩く。その感触はわからなかったが感覚としては理解した。そういえばこの辺りは草も掻き分けられたまま跡がついている感じだ。
「行こう。この先に居るよ絶対」
「うん!」
 不安も何もかも吹き飛んだ。この先に妖精がいる。ミクは無意識に胸を押さえる。興奮している。心臓がドキドキするとはこういう感じだろうか。ミクは震えそうな手をごまかすように一度離れたリンの手を取るとゆっくりとレンの後をついて歩き始めた。


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