妖精の歌は懐かしく

 目を開いたとき、辺りは真っ暗だった。
 ああ、夜なんだ、とただ思ってもう1度目を閉じる。
 代わりに声を出した。側に居るはずの相手に向かって。だけど返事は返ってこ ない。
「………?」
 また、どこかへ行ってしまったのだろうか。
 開いても無意味な目は閉じたまま、ゆっくりと息を吸い込む。側に誰も居ないときは、歌をうたうと決めていた。



「……ミク姉ちゃん」
「……うん」
「……聞こえる」
 小さな、人間の耳には届かないかもしれない声。だけど確実に歌っている。歌詞すら聞き取れない距離だったが、ミクもレンもリンも、思わず駆け出していた。森の妖精とか、子どもたちの話とか、そんなことはどうでもいい。この声をもっと近くで聞きたいと思って。
 だが。
「うわっ」
「レン!」
「レンくん!」
 突然前を走っていたレンが後ろに飛んできた。受け止め損ねて一緒に転がる。リンがミクたちに一瞬目をやったあと、すぐに視線を前に戻した。
 誰か居る。
「何? 誰よ!」
 レンはその人物に弾き飛ばされたようだった。リンが喧嘩越しで怒鳴る。相手の背はリンよりもかなり高い。男性だ、とだけミクは判断してレンと一緒にゆっくりと立ち上がる。
「そこどいてよ!」
 リンはその場から動かず声だけで男に向かって吼える。ミクはそんなリンの肩に手を置くと、そのまま男の前に歩み出る。
 研究所の人間かもしれない。ミクたちを連れ戻しにきたのか。
 リンの肩に置いた手に思わず力がこもる。森の奥からはまだ歌が聞こえている。もう少しなのだ。
「通してください」
 ミクははっきりと、感情的にならないように落ち着いて言った。まずはちゃんとした会話を。相手が研究所の人間かどうか、確かめる必要があった。
「何か言いなさいよ!」
 だが相手の男は沈黙している。痺れを切らしてリンが叫んだ。黙っていたレンもミクとリンの間を割って出てくる。
「レンくんっ……!」
「どけよっ!」
 レンが足を振り上げた。蹴りを入れるつもりか。ボーカロイドは人間基準に作られているとはいえ、その固さは鉄のようなものだ。人間に当てれば下手すれば大怪我をする。
「レン! やめなさ……」
 リンの言葉が途切れた。レンの蹴りは確かに男に当たったにも関わらず、男はぴくりとも動かない。そして……。
「わああっ!」
 レンの足がつかまれ投げ飛ばされた。ばんっ、と近くの木に当たった音がする。
「何すんのっ、」
 言いかけたリンも手をつかまれて引っくり返される。地面に倒れたリンはダメージよりも驚きで体が動かない。
「近づくな」
 そこで男が始めて喋った。右手を真横に上げてミクたちの行く手を塞ぐ様子は、妖精の番人のようで。
「……私たち、妖精に会いたいんです」
 研究所の人間ではない。
 そしてこれは悪意でもない。
 無意識にそう判断していたミクは、自然と今の素直な願いだけを吐いた。
「あの人の歌を聞きたい…」
 話しかけるというよりは、呟くようなミクの言葉に、男の手が僅かに動いた。そのとき突然その手の下をくぐるようにレンが駆け抜ける。
「レンっ!」
 男が一瞬戸惑った隙を縫ってリンも追う。
「あ……」
 自分がまるで騙したような形になって、ミクは動けない。だけど男は、静かに腕を下ろした。
「あ、あの……」
 何か言わなくては。
 そう思ったが男は何も言わずレンたちの後を追う。レンたちに比べて、非常にゆっくりとした足取りだった。



 歌声が大きくなる。
 近づいているからでもあり、元々の音量が上がっているようにも感じる。ミクは男と並んで歩きながらちらりとその顔を見上げた。やはり表情はわからないけど、不機嫌そうには思えなかった。ミクたちを追い払おうとしていたときの無機質さがどこか消えている。この歌のせいなのか。
 そんなことを思っていると、突然男が足を止める。どうしたのかと思ったが、一瞬遅れてミクの耳もそれを捉えた。
「リン……レンくん……」
 二人が、歌っている。森の妖精と声を合わせて、歌っている。こんなに楽しそうな歌声を、ミクは今まで聞いたことがない。
「…………っ」
 男が小さく何かを叫んで駆け出した。ミクも慌てて後を追う。僅かな光が見える。少し開けたその場は、木々に覆われていないせいか星の光で多少明るい。リンとレンと、中央に岩に腰掛けた女性の姿があった。
「ミク姉ちゃん!」
「見つけたよ、森の妖精!」
 二人の嬉しそうな笑顔。女性の声もそこで止まっていた。とん、と岩から女性が降りる。
「お帰りなさい」
「………ただいま」
 答えたのは先ほどの男だった。僅かな光のおかげでその優しげな表情がはっきりと目に映る。首に巻かれた青いマフラーが印象的だった。
「誰か来てたわよ」
「ああ……知ってる」
 男はミクたちに目を向けた。ミクは何故か緊張して、男の視線から顔を逸らせ ない。
「大丈夫。研究所の人間じゃない」
「そう……」
 ……研究所?
 男の言葉に疑問符を返す前に、リンとレンがミクの元へ寄ってきた。そして男たちと対峙する格好になる。
「ねえ、もっと歌ってよ」
 最初に話しかけたのはリンだった。その無邪気な笑顔に、男は苦笑したようだ った。
「……さっきはごめんな。こんな真夜中に来たのが子どもだと思わなかった」
 どこかに感じる違和感。ミクはそれが何なのかわからないまま、思わずリンの言葉に乗っていた。
「私も歌、聞きたい!」
 疑問も、先ほどの恐怖も、何もかもどうでもいい。その女性の歌が聞きたい。それだけだった。それはレンも同じだったようで、勝気で、負けず嫌いな性格にも関わらず投げ飛ばされたことについて何も言ってこない。
 男が女を促した。女は小さく頷くと、再び先ほどの岩の上にのぼる。岩といっても上部は平らになっていて、小さなステージのようだった。
 ……ステージ?
 何かを思い出しそうで、思い出せない。
 だけど女性が歌い始めた途端、ミクの体は力が抜け、自然にその場に座り込んでいた。
 女性を見ているリンも、レンも気付かない。男がこちらに目を向けてきたが、何も言わなかった。
 思い出した。
 ミクの記憶に引っかかっていたもの。同時に、理解したこと。
 ミクは頬に手を当てる。自然と起こったその動作に何の意味があるかもわからなかった。






「MEIKO……」
 部下たちの慌しさをよそに、白衣の男は一人自室から窓の外を眺めていた。
 男が初めて作ったボーカロイドMEIKOも、こんな月のない夜に失踪した。男が、当時もてる技術の全てを注ぎ込んだMEIKO。あのときは一般に人気が出ることもなく早くに処分命令が出た。その反省からミクたちは一般層へのアピールを積極的に行って何とか今まで繋いできたのだが。結局同じことにしかならないのかもしれない。
 ミクたちは、直ぐに見つかるだろうと思っている。研究所の人間から逃げ切れる頭も力もないのだ。そう、設定したから。
「……何で…かな…」
 声にならない呟きと共に男は窓を閉めた。ミクたちの失踪はおそらくボーカロイド開発部門に対してトドメを刺すこととなるだろう。何故失踪するのか、何がいけないのか。そんなことを議論する場も与えてくれないに違いない。ミクたちだけは何とか守ると言ってくれた上司も……おそらく庇いきれなくなる。ミクたちは、処分されるかもしれない。
「…………」
 だったら、逃げて欲しいと思った。
 ミクたちは、ボーカロイドはあくまで機械で特別な感情を持っているわけではない。だけど何故か、逃げて欲しいと思った。



「おい」
「ああ……」
 失踪したミクたちを探していた男たちは、山の麓で足を止めた。
「これ……ミクたちか?」
「……3人…より多くないか?」
 それに、ミクたちには出せない低い声も混じっている気がする。
 音感に自信のない男が問いかけるように辺りを見回した。共に行動していた数人はわからない、というように首を振る。
「それに……こんなに上手かったか?」
 聞き覚えのある声があった。だけど、聞いたことのない歌だった。
 男たちは仕事も忘れその場で立ち竦む。そんな男たちに気付いてやってきた他の職員たちもまた、同じようにその場で止まってしまった。
「報告を……」
 誰かが小さく呟いた言葉にも、答えるものは居なかった。




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