人柱

「ここはおれたちの世界じゃない」
 ある日兄が呟いた言葉は、いつまでも双子の耳に残っていた。






「リンっ、リン、ちょっと待てよ」
 森の中。右へ左へ、枝が何度も体を掠めるのも気にせずリンは走る。背後から聞こえる弟の声は、段々遠ざかっている気がした。それでもリンは足を止めない。もう日は傾き始めている。早く、早く。初めて見つけた手がかりが、リンの心を焦らせる。今日、辿り着けなかったら、もう永遠に姉の姿を見ることは出来ないのではないかと思った。
「リン、待てって……!」
 再び弟の声が聞こえ、それに気を取られた瞬間、足が何か柔らかいものを踏みつけてバランスを崩す。咄嗟に捕まった枝も一緒に折れてリンは地面の上を転がった。はっと息を吐いた途端、その悪臭に顔をしかめる。鼻を押さえようとして、手がいやに汚れているのに気が付いた。
「リン……!」
 ようやく追いついてきた弟が息を切らしながら足を緩める。そしてリンの顔を見てぎょっとしたように一瞬後ずさった。
「何? 何よ」
「お前……」
 レンは何か言いかけて、すぐに視線を落とした。つられるように地面を見ればそこにあったのは動物の死体。先ほど躓いたのはこれだ。リンはもう1度自分の手を見る。薄汚れたこれは、血か。転んだときに手を付いてしまったらしい。
 レンが黙ってタオルを投げてくる。白いタオルが赤く染まってようやく確信を持てた。
「……顔も拭いとけよ」
「え、顔にも付いてる? 嫌だなぁ……」
 死体に顔面から激突した覚えはないが。よく見れば、獣の餌にでもなかったのか肉片は辺りに散らばっている。リンが顔をこすると、思った通り血のあとが付いた。
「これ……姉ちゃんかな?」
「え?」
 レンが死体の側にしゃがみこんだ。かろうじて頭は残っているが何の動物かわからない。顔に斜めに大きく走る傷のせいか。それは紛れもなく刃物の跡。
「……かもね」
 姉が切り捨ててきた獣と、人。
 リンたちは今、その血の跡を頼りに進んでいる。はっきりと形の残った死体を見たのはこれが始めてだったけど。
「……こっから先は回収できてないのかな」
「これ以上奥は、人は来ないと思う」
「……でも、まだ見つかってない人も居るって言ってたよな」
 沈黙が落ちる。
 麓の村で教えられた。
 人を、動物を、無差別に切り捨てる赤い女の話。
 初めは、村を襲った暴漢だったらしい。だから、感謝もされたし村人の引きとめでしばらく滞在もした。だけど女のそれは無差別で、女子どもも含めて何人もが犠牲になった。女は森に追放され、それ以来森は立ち入り禁止になった。元々人が入る場所ではない。恐ろしい獣も多く、奥まで入って戻ってきたものは居ない。
 なのに村の数人は、女の後を追って森へと入って行った。勿論、誰も帰って来なか った。
 入り口付近でのみ、数人の死体が回収されたと。
 それがリンたちの聞いた話。そしてそれは、リンたちが探している人物に間違いなかっ た。
 何故そんなことをしたのかわからない。姉は正義感の強い人物だった。似ているだけの別人だという方がしっくりくる。だけどリンもレンも、何故か確信を持っていた。数年前に居なくなった、一番上の姉は、きっとここに居る。
「……行くよ」
 リンはタオルを投げ返すと、再び立ち上がって歩き始める。レンは黙って隣に並んだ。今度は走らない。血の跡を、姉の所業を一つ残らずきちんと目に入れるために。





「私も行って来る」
 最後に聞いた二番目の姉の言葉は淡々としていて、別れの寂しさとか辛さとか、そんなものを感じた覚えはない。だから双子はただ頷いて見送った。微笑んだはずの姉の顔は何故か思い出せない。片割れと手を握り合っていた感触だけは覚えている。
「……私たちも行こっか」
 その言葉が出たのは、姉と別れてどれだけ経ってからだったろうか。
 最初に一番上の姉が、次にたった一人の兄が、そして二番目の姉が出て行った。
『ここはおれたちの世界じゃない』
 そんな兄の言葉を深く考えたこともなかった。幸せだった5人の生活はどこかおぼろげで、あれは夢だったのかと思うときもある。5人が暮らした家の周りに何があったか、思い出そうとしても砂漠のような光景が浮かぶだけで、隣の家も、道も店も、何一つ記憶に残っていなかった。
「……どこに行くんだよ」
 姉たちが何故出て行ったのかは知らない。聞いたかもしれないけれど、答えは覚えていない。どこに向かったのかも、勿論知っているはずがない。
「それはあんたが考えるの」
「何でだよ」
 頭を使う仕事は全て弟に押し付ける姉に、レンは笑っていた。そして考えた。
 家を出たあと、まずはひたすら人の噂を集めた。
 赤い服の女、青い目をした男、緑の髪の女。
 覚えている限りの特徴は、大半が今は違うかもしれないという曖昧なもので、有力な情報はなかなか得られなかった。
 初めて、一番上の姉のものらしき噂を聞いたのが数日前。
 名乗っていた名前も一致した。


「MEIKO姉っ!」
 暗くなった森の中に赤い服の影が動く。きらりと光ったのは剣か。リンとレンは顔を見合わせてすぐさまその影を追う。
「姉ちゃん! 姉ちゃん! MEIKO姉っ!」
「リンとレンだよ! お姉ちゃんっ!」
 慣れない道、方向感覚のつかみ辛い森の中。障害物も多く何度も躓いて体に切り傷を作った。それでも、ひたすらに影を追う。
「何っでっ、お姉ちゃんなんでしょ! 何で逃げるの!」
 息が切れ、一気に押し寄せてきた感情に、上手く言葉を紡げない。届いているかどうかもわからなかった声に、一瞬だけ影が止まった気がした。
「姉ちゃんっ!」
「……来ちゃ、駄目」
「えっ……?」
 小さな呟きが聞こえた。影はまだ遠いのに、それは間近で聞こえた気がして双子は思わず足を止める。辺りを見回した次の瞬間、影の姿は消えていた。
「あっ……」
「姉ちゃん……」
 もう気配すら感じない。
 思わずその場にへたり込む。
 鳥の声も、獣の声も聞こえない森の中、2人の息遣いだけが響く。
「……逃げ、られた」
「……ああ」
「何でよっ!」
 リンが地面を拳で叩く。姉は、明らかに自分たちを避けた。いや、その可能性を考えなかった方がおかしい。どんな事情があるにせよ、最初に弟妹たちの元から去ったのは、MEIKOだったのだ。
 レンは辺りを見回して、血の跡を探す。だけど最早地面は黒い影にしか見えない。今視界がきいていることが不思議だった。もう日は沈んでいる。
「……帰るぞ」
 森の中に居た姉らしき人物。
 確証もない。聞こえた声も、姉のものかはわからない。
「……何が駄目なんだよ」
 がむしゃらに走った道をゆっくり戻りながらレンはぽつりと呟いた。





 たまに思い出すことがある、みんなで歌った歌の記憶。
 歌の好きな兄弟だった。いつも誰かが歌っていた。
 誰から教えてもらったのか、どこで覚えたのかは忘れてしまっていたけれど、自分たちはたくさんの歌を持っていた。
「……あそこ」
 次の街へ近づく度に、濃くなって行った噂。そこへ辿り着けば、情報収集の必要すらなかった。歌の町、と呼ばれるところがあるという。その町の中心部ではいつも男が歌っている。その歌を聴くと幸せになれるんだと、一度でも歌を聴いたものたちは言葉通り幸せそうに語っていた。
 男は、青い髪、青い目に、青いマフラーをしているらしい。
「……聞こえるか?」
「うん」
 町の入り口から数歩。響いてきた歌声。優しく、楽しげなその声に懐かしさが溢れ出す。すぐに向かおう、きっとお兄ちゃんだと数日前に言ったリン。なのに、2人は歩調を変えず、ゆっくりとそちらに向かっていた。
「……兄ちゃんだろ」
「うん」
「……早く行こうぜ」
「……うん」
 頷きながらも、歩みは益々遅くなる。レンもそれにあわせるように歩調を緩めて、ついに止まった。
 歌声が響く中心部へと目を向ける。町の人々も、呆けたようにそれを聞いていた。
「ねえ、おばさん」
 レンが手近な女性に声をかけると、女性は呆けたまま「いらっしゃい」と言った。気付かなかったが、そこは店の前だった。
「あー…買い物じゃないんだけど、ねえ、ここで歌ってる人って……」
「買い物じゃないの? ああ、まあいいよ、勝手に持って行っていいよ、今は歌を聞く時間だからね」
 レンの言葉を途中で遮ると、女性はまた視線を戻してしまった。レンがリンに困った顔を向けると、今度はリンがその女性の腕を掴む。
「ねえ、そんなんでいいの? 商売。歌を聞きながらでも出来るんじゃないの?」
「この歌は聞けば聞くほど幸せになれるんだよ。もう何人も幸せになってるのに私は商売なんかしてるせいでちっとも聞けないんだよ。わかったら私に歌を聞かせてくれ」
 女性はもう目も向けて来なかった。リンとレンは顔を見合わせて、またどちらからともなくゆっくりと歩き出す。小さな子どもの姿が目に入った。
「ねえ」
 まだ子どもの方が話が通じそうだ。
 そう思った2人が同時に子どもに声をかける。子どもはきょとんと首を傾げて2人を見上げてきた。
「この歌を歌ってる人、知ってる?」
 リンがそう問うと、子どもは嬉しそうに頷く。
「青いお兄ちゃん。歌を聞くと幸せになれるんだよ」
 大人たちと同じことを言う。そう言われているのだろう。
「いつも歌ってるの?」
「うん。朝も昼も夜も。凄いでしょ」
 自分のことのように自慢する子どもには曖昧に頷く。毎日朝昼晩、歌が途切れるときはないという噂だった。本当にそうなら、何故それを普通に受け入れられるのかとも思う。
「お前、親……お父さんお母さんは?」
 そこへレンが口を挟む。子どもは、一人で遊び歩くには少し幼すぎる気がした。
 子どもはまたにっこり笑う。
「幸せになったよ」
「……幸せ」
「うん!」
 どういう意味だ。にこにこ笑う子どもに何も言えなくなっているレンの腕を、リンが引っ張った。
「何だよ」
「もう、いいから行こう。お兄ちゃんに聞こう!」
 会うことが怖いとすら思い始めていたレンだったが、リンは決心したかのように強い声でそう言う。2人が走り出して1分も経たない内に、町の中心部、少し開けた場所に出た。水のない噴水の中心に、男が一人立っている。記憶と変わらない優しげな笑みと歌声で、人々の心を魅了している。
「お兄ちゃん……!」
 駆け寄りながらリンが叫んだ。今度は逃がさない。レンも一緒になって叫ぶ。
「KAITO兄ィ!」
 男が振り向いた。驚きに目を見開いて。間違いなくKAITOだ。2人の、たった一人の 兄。
「リン、レン……」
 朝昼晩一度も途切れることがなかったという歌声が途切れ、双子の名を呼ぶ。嬉しさに涙が溢れそうになった瞬間、小さな爆発音のようなものが聞こえた。
「え……」
 KAITOの驚きの目が、そのままの形で真っ赤に染まる。
「え……え……」
 ゆっくりと、KAITOの体が崩れ落ちた。
 ワンテンポ遅れて上がる悲鳴。背後で男の笑い声が聞こえる。足を止めてしまったリンは、それ以上動けない。
「……兄ちゃん……?」
 KAITOはもう、ぴくりとも動かなかった。


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