脱走計画

 顔がにやける。
 無意識に歌を口ずさんでいる。
 そのまま狭い室内でスキップを始めたミクを、ついにレンが立ち上がって止め た。
「浮かれすぎだろお前」
「えー、だって当然でしょ、明日はねー」
 うふふ、ふふ、と笑い声をもらすミクに、レンは呆れた顔でため息をついた。そして諦めたようにまた床に座り込む。KAITOは壁によりかかったまま興味なさそうに目を逸らしている。MEIKOはいつものように眠っていた。唯一、リンのみが笑顔でミクを見上げている。
「いいなーミクちゃん。ここから出られるの?」
「それはまだわかんないけど。マスターがいいって判断してくれたらいいの」
 明日はマスターとの面会日。ミクがここに来てから、他のメンバーにはただの一度も面会がなかったため、そもそもそんなものが存在していないのかと不安にもなったが。ミクのマスターはちゃんと会いに来てくれる。
「KAITOを落とせてないのが残念だけどー。やっぱり外の方がいいわよね、いい男いっぱいいるし!」
「ああお前、多分出られないな、それ」
 何も変わってねえじゃんか、とレンが笑う。どこか、ほっとしたように見えるのは気のせいだろうか。
「ぼくはマスター以外誰も好きにならないよ…」
「うわ何、今日のKAITO暗いー」
「ほっとけ、どうせあいつはすぐ引っ込む」
 多数の人格が存在するKAITOは、いつ誰になってるやらさっぱりわからない。だが、ミクもいつの間にか慣れてしまった。一番まともな目当てのKAITOが基本人格のようなので、そのときを狙うのもそれはそれで楽しいと思い始めている。途中で女になられると、やっぱり脱力するけれど。
「ここって一度出ちゃうと、もうみんなに会えないのかな? みんなはどこに住んでんの?」
 それなりにチームのメンバーには愛着も沸いている。外に出たときにまたみんなで会えるといい。
 そんな気楽な笑顔を向けたミクに、レンは顔を逸らした。
「……聞いても無駄だと思うぜ。おれら、出るあてないしな。……そもそもマスターがまだ待っててくれてるのかどうかもわかんないし」
「え……どういうこと?」
「……マスター、一度も私に会ってくれてない……」
 呟きはレンの隣からだった。リンが途端に顔を歪ませ俯く。リンがいつここに来たかは知らないが、確実にミクより前だ。人見知りのリンがレンに慣れるまで……それは、それなりの期間なんじゃないだろうか。
「リンの場合は、マスターに会っちゃうと甘えちゃうから、じゃなかった?」
 そのときのそのそとこちらにやってきたのはKAITO。声と表情でわかる。これが、いつものKAITO。
「だよな、そう言われたんだろ?」
「でも……会いたい……」
 マスターの前でしか歌わないリン。以前リンの歌を盗み聞きしたとき、全員で褒めたおかげか、ミクたちの前では歌ってもいいと言ってくれるようにはなった。実際に歌ったことはないけれど。
 そしてやっぱり職員たちの前では歌おうという気にすらならないようだ。
「リンの場合は、やっぱり他の人の前で歌えるようになってから?」
「じゃないと意味ないんだろうな。お前もマスターに会いたいなら歌ってみろよ」
「………うう……」
 なるほど、そういう餌なのか。
 ミクも、マスターに会いたいならKAITOに手を出すなと言われれば……我慢する。それぐらいは、出来ると思う。あまり長い期間は無理かもしれないけど。だって女の子は、恋をしていないと綺麗になれないのだ。マスターの前では綺麗でいたい。
 肝心なのは続けることだ。
「レンたちだけ……なら」
「それじゃ意味ないだろ。そもそもお前のマスターは人に聞かせるためにお前買ったんだろ?」
「…………うん」
 そうなのか。まあそうでないならマスター以外の前で歌わないというのは大した問題じゃないかもしれない。ミクもよく考えればマスター以外の前で歌った経験は少ない。
「何よー、頑張れば会えるんだから頑張りなさいよ。っていうかレンはどうなの? 何でマスター来ないの?」
「あいつはおれのこと嫌いなんだよ。閉じ込めてるだけ」
「だったら売るなりなんなりするでしょ」
「売って他のマスターに懐くのも気に食わねえんじゃね?」
「何それ、複雑ー」
 笑いながら言うレンに、ミクもあまり本気にせず笑う。だけど普段から、マスターに関する話をするときの冷めた様子から、あながち外れてもないのかな、とは思 う。
「私は……厄介払いされたのかも」
 レンに続いたのはMEIKOの声だった。眠っていたと思われるMEIKOは、寝転がったままだが、目を開いている。
「形見だから、処分できない。けど歌わないVOCALOIDは居ても邪魔、なの」
 そう言ったMEIKOは、思ったよりも状況を的確に認識している。いつもお酒お酒と呟いているのは現実逃避なのかもしれない。
 ……歌えば、すむことなのに。
「おれは、記憶が繋がるようになったら、かなー? マスターにも随分迷惑かけたみたいだし」
 KAITOは苦笑いのような笑みでそう言った。
「……つまり、リンとKAITOは頑張れば会えるんじゃない?」
「でも……」
「おれ、どう頑張ればいいかわからない」
 難しい、のだろう。どちらも。
 そもそもここに居る間も、特に何かをされた覚えがない。カウンセリングのようなものは受けたし、チームで何かやらされることもあるが。誰も何も改善してな い。
「何よ、みんな寂しいわねー。私が出て行ったあと、私に会うために頑張ろう! とか思わないの」
「いや、お前も絶対出ていけないと思うから」
「何よ!」
 叫び返したとき、ノックの音が聞こえた。ミクは慌ててドアから離れる。
「何だろ」
「この時間……何もないはずだよな」
「あ、マスターが早く来てくれたのかも!」
「それはない」
 思わずドアに向かいかけたミクに、レンが冷たく突っ込む。膨れていると、扉は開かないまま外から声がかかった。
「KAITO」
「あ、はい」
 事務的で感情の篭らない声に、KAITOは律儀に返事をする。声はそのまま続け た。
「明日、お前にも面会が来る。ミクと2人で来い」
「………は?」
 KAITOと、加えてレンが驚きの声を上げた。





 興奮して寝付けないだろうな、とは思ってた。
 面会日を告げられたのは一週間前で、そのときからミクはずっと落ち着かなかった。指折り数えて待った、明日──いや、日付的には既に今日──が面会日。マスターのことだけで頭も胸もいっぱいになっている……はずだった。
「…………」
 ミクはゆっくりと体を起こす。昼間とほとんど同じ体勢で、壁に沿うようにして眠っているMEIKOがすぐ隣で少し身じろぎをした。だけど、起きてはこない。
 聴覚に集中する。寝息は、一つ足りなかった。
「………KAITO」
 窓からの月明かりだけが唯一の光源となっている部屋の中。部屋の隅でうずくまるように体を抱えていたKAITOがびくりと反応する。余裕のない反応に、いつものKAITOではないことだけを確認する。
 昼間、面会が告げられたとき、ミクは祝いの言葉を投げた。マスターに会えるのだから、これほど嬉しいことはないはずだと。
 だけどKAITOは、何故か少し顔を曇らせたまま。レンも考え込むように口を閉ざしていた。
 リンは素直に、羨ましいと言っていたけれど。
「KAITO、起きてるんでしょ?」
 寝息は聞こえない。ミクは膝立ちのまま近づいていく。このまま押し倒してやろうかと思ったとき、ようやくKAITOが少し顔を上げた。
「……うん」
 幼い返事、だけど、子どものようには感じなかった。
「あれ、あなた会ったことあるっけ?」
 ここに居る間、いろんなKAITOに会った。何度も会えば、その表情と声で、どんな性格の「KAITO」だったかが思い出せる。だけど、この「KAITO」は記憶にない。
「私のことわかる? あなたの恋人予定」
 言うと、ようやく少しKAITOの顔に笑みが浮かぶ。戸惑いではなく笑い、ということは一応知ってはいるのか。少し不愉快だが。
「知ってるよ……みんな知ってる」
「そうなの? いつ出てた? 私、あんたに覚えないんだけど」
「……全部、知ってる。ここに来てからのこと……ずっと」
「……は?」
「君と、会ったときのことも、君に押し倒されたときのことも、そのあとの…呆気に取られた顔も。君を…口説いているときのことも」
 呆然とした。
 それは、全て違う人格のときに起こったことのはずだった。記憶が、繋がらないというのが、KAITOの問題点だったはずなのに。
「……本気で言ってるの?」
「うん……」
「あんた……まさかずっと私たち騙してたの!?」
 出た結論はそれだった。
 違う人格、なんてホントは存在してなくて、全てがKAITOの演技だったのかと。だけどKAITOはそれに慌てたように首を振って否定する。
「違う、よ。全部…おれだけど、おれじゃない…奴」
「やっぱりそうか」
 声は背後から聞こえた。
 いつの間にかレンが起きてきている。
 上半身だけ起こしたレンが、KAITOを睨むように見ていた。
 KAITOはぼんやりレンを見つめたあと、柔らかく笑う。
「……初めまして、レン。ずっと君と話がしたかった」
「おれもだよ」
 レンは厳しい表情のまま、冷たい声で近づいてくる。KAITOは僅かに体を竦ませたが、逃げられるわけでもない。大人しく側まで来るのを待っている。
「……どういうこと? レンは知ってたの?」
「……KAITOが言ってたんだよ。おれが基本人格のはず、だけどそうじゃないって主張する奴も居る、って」
「あ、それ私も聞いた」
「でも今まで、あのKAITO以外に自分が基本人格だって言った奴、いたか?」
「え……」
 そういえば。
 あのカマ口調のKAITOも、女のKAITOも、子どものKAITOも、女垂らしのKAITOも暗いKAITOも。ミクが元に戻れ、と言ったとき、自分が元だと言ったことはなかった。ただの区分けのためだろうが、KAITO以外の名で呼ばれることにも抵抗がないようだっ た。
「……お前がそうなんだな?」
「……おれが……おれが、KAITOだよ……」
 KAITOは何故か泣きそうな顔でそう言った。





「あはは、そんなこと言ってたんだ」
 翌朝は、いつものKAITOだった。
 基本人格に会った、と言っても呑気に笑っている。ミクとレンは顔を見合わせ る。
「何ー? 何の話ー?」
「昨日、KAITOの基本人格って奴が出てきたんだよ」
「え、このKAITOじゃないの?」
 寄ってきたリンがきょとんとした顔で首を傾げている。KAITOは微笑んでそうだよ、と答えた。
「あいつは滅多に出てこないんだけど…いつも言ってるよ。何でかは知らないけどね。基本人格ならもっと出てきても良さそうなのになぁ」
「でもあいつ、全部覚えてるって言ってたぞ? お前らに代わってる間のこと も」
 レンがそう言うと、KAITOは少し真剣な顔になる。
「……それが本当なら、そいつがマスターに会えばいいのにね」
 全部覚えてるって言えばまた引き取ってもらえるかも。
 KAITOはあまり本気ではなさそうな口調でそう言う。ミクは何と言っていいかわからず、レンを見る。レンは、まだ睨みつけるようにKAITOを見ていた。
「……帰りたくないんだとよ」
「え?」
「……あのKAITOは、マスターに会いたくないって言ってたよ」
「…………」
 KAITOは沈黙する。
 そうなのだ。昨日の夜、KAITOは確かにそう言った。嫌だ、と。マスターに対して、VOCALOIDがそんなことを思うとは思えない。だからやっぱりあのKAITOは本物じゃない、とミクはそのとき判断した。だけどレンは、違うようだった。
「……面会にはお前が出るのか?」
「さあね? 出来ればおれで対応したいけど、いつ誰に変わるかわかんないからどうしようもないでしょ」
 でも、そっか。嫌なのか。
 KAITOは呟くようにそう言って顔を逸らす。その横顔に、笑みが浮かんでいる気がした。
「KAITOも、嫌なの?」
「へ?」
「……あなたも、嫌なの?」
 ミクは何となく言い直してKAITOに迫る。VOCALOIDがマスターを嫌いだなんて、そんなことは……いや、レンはそうなのか。だから、ここに入れられている。でもやっぱりそんなのは信じたくなかった。レンは性格がひねくれてるだけだ。本心で言ってるようには思えない。
 KAITOの目をじっと見つめていると、やがてKAITOが目を伏せた。避けられた、と思って更に迫ろうとするが、その前にKAITOが言う。
「嫌なわけ……ないよ。ただ……」
「ただ?」
 KAITOがまた沈黙する。ミクはKAITOのマフラーを握り締めながら、ドキドキして続きを待った。今変わられたらまた説明のし直しだ。変わるな変わるな、と念じながらKAITOを見る。
 やがて顔を上げたKAITOは言った。
「内緒」
「は!?」
 にっ、と笑ったKAITOは突然ミクの手を振り切って立ち上がる。
 同時に、ノックの音が聞こえた。
「ミクとKAITO、面会だ」
 ああ、もう間に合わなかった。
 ミクはがっくり肩を落とす。
「ミクちゃん? マスターに会えるんでしょ?」
「あ!」
 リンから不思議そうに問われて、ミクも慌てて立ち上がる。
 あんなに待ち望んでいた面会なのに。
 KAITOのことが気になって仕方ない。
 ミクは軽くKAITOを睨む。KAITOはへら、と呑気な笑みを浮かべていた。


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