ここは任せて先に行け─1

 10月がもう終わろうとしているある日の放課後。
 お疲れ様でした、の声に適当に返事をして夷澤は机の上に突っ伏した。
 置かれていた紙がくしゃり、とねじれるのがわかる。それでも顔を上げる気にはなれない。
「夷澤く……会長、大丈夫?」
 そんな夷澤に声をかけてきたのは生徒会副会長──響五葉。
 おどおどとした声かけには、少しイラつく。
 3年になり、生徒会長になった夷澤に、補佐として付いたのは何故か響だった。自分を変えたいと立派なことを言ってこの半年役員として活動してきたが、夷澤の目には何か変わったようには見えない。生徒会室の中では会長と呼べと言ったのを律儀に守ろうとしてあるときはつっかえ、あるときは慌てて言い直し会長と呼ぶ響に、夷澤は言った言葉を少し後悔していた。半分は冗談だったのだ。現に他の役員は誰も会長とは呼ばない。かといって今更前言を撤回するわけにもいかなかった。
「ああ〜、響。決めといてくれよ、もう」
「えっ、無理だよ。それは、夷澤くんが決めることだから……」
 あっ、と小さく叫んで、また会長と言い直す。
 うるさい。
 夷澤は体を起こし、少し皺のついた紙を改めて眺めた。
 先ほどの会議のテーマ。
 学園祭の出し物について、だ。
 今年から多少開かれた学園になったここは、以前には出来なかったことにもいろいろと挑戦している。学園祭実行委員から出た「特別ゲストを呼ぶ」という案に生徒たちは諸手を挙げて賛成した。部外者を招く、ということが今までにはない第一歩、なのだろう。
 生徒たちから取ったアンケートの集計結果。
 上位に上がるのは夷澤でもよく知っている芸能人たち。海外スターの名前もあって、ふざけ半分で投票している者も多いのがわかる。上位などいくら金があっても呼べないメンバーばかりではないだろうか。そもそも今から呼んで間に合うものか。
「予算内で一番票の多い奴、でいいんじゃないか」
 上がっていたのはお笑い芸人だ。名前は聞いたことがあるがよく知らない。
 上から順に交渉していけばいいだろうとしか思えない。
「でも、学園の雰囲気ってものがあるから……。あんまり変な人呼ぶと保護者の人とか……」
 響は態度は弱気なものの、言うべきことは言ってくる。これが変わった点、なのだろうか。前からそんなだった気がするが。
 元々全寮制進学校ということで、娯楽を絶って勉強させてくれると保護者は思って進学させてくる。ある意味間違いではないし、実際そういう売りにはなっている学園だと思う。
 ……お笑いは、合わないか?
「お笑い歌手俳優歌手お笑い……」
 名前の横に簡単な説明。「流行の人」なんて呼べばそれだけで浮ついていると言われるんじゃないだろうか。
 どうせならプロボクサーとかどうだ、と夷澤も自分本位で考える。
 そして、ある名前に目が止まった。
「……ピアニスト……?」
 票数は少ないが、それでも複数票入っているその名は、夷澤もよく知る人物。
「あ、取手先輩だよね。うん、天香の卒業生でもあるしいいんじゃないかって言われてるよ」
 会計からのお勧めマークが入っていた。予算的な問題もあるのだろう。
「あの人、いつの間にピアニストになったんだ?」
 確か大学に進学したばかりだったと思ったが。
 それを言うと響は少し驚いたようだった。
「え、知らないの? この間何か有名なコンサートで優勝してテレビにも出てたよ」
「マジかよ……」
 全然知らなかった。
 ピアノコンサートの話題など、自分が目に留めているはずもない。
 夷澤は取手の演奏していたピアノを思い出す。
 確かに上手かったと思うけど。それ以上のことは夷澤にはわからない。
「でも、だったら忙しいんじゃないか?」
「うん、だから交渉できそうなら、って」
 プロなら金次第で時間は作ってくれるが、取手はただの大学生だ。金を取ってるわけでもないだろう。
「……響、取手さんの連絡先知ってるか?」
「知らないよ。夷澤くんこそ」
「知ってたら聞くか」
 夷澤はふと生徒会室の外を眺めた。
 阿門は、学園を卒業したが、いまだこの学園に居る。
 知っているとしても、何となく頼りたくない。
「九龍さんなら知ってるんじゃないか」
「あっ、多分知ってるよ!」
 響の顔が輝く。九龍の名が出てきただけで嬉しそうだ。夷澤は手を振って響に言った。
「じゃあお前が聞いとけよ。とりあえず……取手さんで進めてみよう」
 天香卒業のピアニスト、最近話題になったばかり。
 十分じゃないか。
 夷澤はようやく終わったとばかり立ち上がって帰る準備を始める。
 生徒会役員は、元々役員の仕事が出席代わりになっていたため放課後を使わなくても会議が出来た。その特権がなくなったのは残念だ。代わりに仕事は減ったけど。
「何してんだ、もう出るぞ」
「あ、うん」
 じっと立っていた響が慌てたように追いかけてくる。ひょっとしたら、待っていたのかもしれない。
 取手さんか……。
 懐かしい名前だった。深く関わったのはほんの数日しかないのだけれど。
 もし呼べたなら、またあのときの気分を思い出せるかもしれない。










 大学の構内というのは何だか緊張する。
 九龍は年齢的には大学生で十分通じるし、服装もそう周りの者たちと変わらない。それでもどこか場違いな感じばかりして、早く立ち去りたいとそればかり考えていた。
 九龍の側を通り過ぎた数人の学生がこちらを見て話しているのがわかる。
 「あれ、誰だ?」「1年じゃねぇの」「知らねぇ」「別の学部だろ」
 ……ああ、声を潜めてるけどしっかり聞こえるよ。頼むから早く行ってくれ。聞こえない振りも限界だ。居心地が悪くて仕方ない。
「はっちゃん!」
 その時ようやく目当ての人物の声が聞こえてきた。
 九龍はぱっと顔を上げて、駆け寄ってきた人影に笑顔を向ける。
「よぉ取手」
「お待たせはっちゃん。ごめん、すぐ来る予定だったんだけど」
「いや、いいって。急に来たのこっちだし」
 九龍の噂をしていた者たちのざわめきが大きくなる。取手の友達、というのが意外だったのだろうか。
 取手はそちらをちらりと見て少し悲しそうに顔を歪めた。
「……取手?」
「……行こうか、はっちゃん」
 取手に促され、そのまま連れ立って階段を下りていく。途中、その学生たちの横を通った。あからさまなひそひそ話。取手は軽く会釈していたが、ほとんど無視されていた。
 ……何だ、こいつら?
 さすがにその場では口にせず、校舎を出てしばらく経ったところで取手に聞く。
 取手は少し躊躇ったあと、こう答えた。
「……ぼくの先輩たちなんだけどね。今回のことも……あの先輩たちが出るなって」
「は?」
「勿論ぼくは行くつもりだよ。1度引き受けたことだし、はっちゃんに頼まれたことだしね。ただ……最近妨害が酷くって」
 響から九龍を通して伝わった学園祭でのコンサート依頼。取手は二つ返事で了承したし、九龍も時間が取れたら聴きに行く、ということで一旦話は終わっていた。
 なのに、学園祭間近になって大学側から演奏者交代の知らせがあった。夷澤たちは戸惑いながら、要請は取手に対してのものであることを説明した。元々大学を通していたわけでもない。
 だが取手は都合が悪くなったといわれるばかりで、結局リハーサルにも別人がやってきた。日も迫っているし、来れないなら仕方ないとそのままリハを行ったが、そのことを聞いた九龍が取手に連絡したところ「そんな話は知らない」とのこと。取手はリハーサルは当日の朝に変更になったと……大学の先輩から言われていたらしい。
 丁度その頃日本に帰ることになっていた九龍は、会うついでに事情を聞こうかとここ──取手の通う大学内に入って来ていた。
「妨害って……何されてんだよ」
「うん……楽譜隠されたり、変な噂広められたり……あとこの間は休講って嘘付かれて……これは自分でちゃんと確認するようになったけど」
 いじめかよ。
 九龍が顔をしかめたのに気付いたのか、取手が少し目を伏せる。
「何でなんだ? 何でそんなことされてんだよ」
 つい強い口調になった。取手が悪いなんて発想は欠片も浮かばないから当然だ。取手が少し校舎の方を振り返る。
「……この間、コンクールで優勝したでしょ?」
「ああ」
 始まる前から、緊張しているとのメールが着ていたし、結果は大きくニュースにも取り上げられていたのでよく知っている。八千穂が開いた仲間内お祝いパーティーには間に合わなかったが、個人的には会って、祝いも贈っていた。
「あれね……ホントは先輩が出るはずだったんだけど。教授がぼくの方を指名したから……」
「……何だそれ……」
 つまりは嫉妬か?
 コンクール優勝なんてするとやっぱり面倒なことが起こるんだな、と九龍は思うが、取手はそれに首を振った。
「それもあるんだろうけど……先輩、元々実力はちゃんとある人なんだ。でもずっと大会とか、出してもらえなくて。先輩は……生活態度が悪いって」
 教授に、嫌われているということか。
 出ていれば自分が勝ったかもしれないと思えばこそ余計に──か?
 取手はコンクール優勝者としては最年少ということで騒がれていた。その立場を元々取れる実力があったのなら。
「……それで何で取手だよ。恨むんなら教授じゃないのか?」
 実際の生活態度というものがどういうものかは知らない。それが教授の言いがかりなのかどうかもわからないが、どちらにせよ逆恨みですら、向かう相手は教授のような気がする。
「うん……教授、今入院してる」
「……おい……」
 暴力か。暴力に訴えたのか。
 態度に問題あり、とされた理由がわかるぞ、それ!
「お前は暴力振るわれたりとかはないのか?」
「……今のところは」
「……………」
 探るような目で見つめてみると、取手はそれに真っ直ぐ返す。
「大丈夫だよ。ぼくは、いざとなったら力があるし」
「そりゃそうだけどな……」
 普通の大学の先輩相手に使えるのか、お前。
「でも……出来れば一つお願いがあるんだ」
「ん……?」
「……当日、先輩たちが邪魔してきたら──」
 助けて欲しい。
 取手のその言葉に九龍は笑った。
「任せとけ……!」
 これが言えるのが嬉しい。
 少し乗せられている気もするけど。


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