今すぐ行くから待ってろよ!─7
これを持ってれば絶対襲われないんだ。お守りだよ。
そう言って手渡された板は、それほど大きくはなかったが、子どものポケットには入らなかった。不思議な仕掛けや奇妙な生物を見る間も、ずっと手に持っていた。
恐怖はない。何故なら本当に、化物の手が自分に伸びてくることはなかったから。
何部屋も何部屋も通り抜けて。
さすがにそろそろ帰りたいと思った頃、手の板は突然奪われた。
そして、化物が襲ってきた。
泣いて、泣いて、泣きながら逃げて。
そして──。
春奈陽子は、はっと目を覚ました。
いつの間にかうとうとしていたらしい。慌てて頭を起こすが、部屋の中には誰も居ない。
泊まっている宿の一室。壁に背をつけて座っていた春奈は右手に持ったままだった携帯を見る。自分が眠っていたのはほんの数分のことのようだった。
七瀬たちは……。
少し頭が混乱している。変な夢を見たせいだろうか。
幼い頃から何度も見た夢だった。だが、それは今までより妙に鮮明で、そして具体的だった。
板、は昨日遺跡で見たあれだ。皆守が拾ったものだ。
多分それがまた、アニメを見たときのように自分の記憶に入り込んだのだろう。それにしては、妙な現実感があったが。
春奈は立ち上がって頭を振った。
もう夜だ。七瀬たちが帰ってくる前に布団を敷いてしまおう。何かやっていないと落ち着かない。
春奈はちらりと隣室側の壁を見る。
皆守が倒れた、と連絡が入ったのは、そろそろ夕食をとりに帰ろうかと考え始める午後7時前のことだった。
道で倒れた皆守は通行人の発見により病院に運ばれ、夕方になっても意識を取り戻さなかったため、持っていた携帯の着信履歴から八千穂に連絡が入った。医者からは、体に大きな異常はないが、熱が高いため今日は入院するように、と告げられたらしい。
どちらにせよ意識を取り戻さない限り宿に戻ることも出来ない。
意識を失っているというよりは、眠っていると判断されているようだが。
春奈たちは一度病院へ向かったが、結局出来ることもなく宿に戻っている。
ばたばたとした空気が居心地悪い。
布団を敷き終わった頃、七瀬と八千穂が部屋に戻ってきた。2人とも、顔が強張っている。
「七瀬さん……やっちー」
つられて不安な顔になった春奈に、はっと気付いたように八千穂が俯き気味だった顔を上げる。少し微笑んで見せた。
「ごめんね、遅くなって。もー、皆守くんの怪我とかなかなか説明できないしさぁ」
「そうだよね……化物に襲われました、だもんね」
「あ、違う違う。それもあるんだけど、皆守くんって凄い怪我の治りが早いからさ」
前日の怪我、と言って信じて貰えなかったらしい。
そんなに早いのか。
「でね、皆守くん、昼間遺跡に行ったと思うんだけど、九ちゃ……九龍くんにそれ話したら、やっぱりしばらく遺跡に近付いちゃいけないって」
でも、絶対遺跡に関係あると思うんだ。
八千穂はそう言って再び俯いた。
「皆守さんは倒れる瞬間を目撃されてます。時間的に、遺跡に行って戻ってきた後だと思われます。何故あの皆守さんがわざわざ遺跡に行ったのか……何が気になっていたのか、それが謎を解く鍵になると思うんです」
「……うん」
正直よくわからなかった。だが春奈はその言葉に頷く。
皆守が一人で遺跡に行ったこと。これ自体が2人にとってはありえない話なのだろう。春奈にはそこまでわからない。倒れたことに関しても、単に風邪を引いて熱が出たと言われても納得するだろう。何がどこまで不思議なのかわからない。
「それでね……明日、遺跡に行ってみようと思うんだ」
「えっ」
「もう一度行ってみれば何か手がかりがつかめるかもしれないし。あんな皆守くん見たの初めてで……」
不安なのだろう。
先ほどの春奈と同じ、何かしていないと落ち着かないという状態なのかもしれない。
だが。
春奈は遺跡の中での出来事を思い出す。
「でもっ、またあの化物が来たらどうするの。皆守くんも居ないのに……」
蹴りで化物を吹き飛ばしていた姿が蘇る。
八千穂もテニスボールで攻撃していたが、それだけで倒せるものなのか。七瀬にも春奈にも、戦う手段はない。
「あの部屋には入らない。でも、外にも手がかりあるかもしれないでしょ?」
そうだろうか。
そこに行くだけのことに何の意味があるのか。本当に八千穂が入るつもりはないのか。判断が出来ない。
でも、と春奈は曖昧な言葉だけ呟きつつ、それ以上は言えなくなった。
沈黙が落ちた部屋の中、七瀬がゆっくりと息を吐き出す。
「ともかく……明日になってからにしましょう。明日になれば皆守さんも起きるでしょうし、その話を聞いてからでも遅くありません」
「…………」
八千穂が、そんな七瀬を不安げに見つめる。
人が倒れた、というのは大きなことだとわかる。だけど、この八千穂の不安はなんなのだろう。医者に危険だと判断されたわけではない。背中の傷も大したことはない。高熱も、人体にありえないレベルというわけでもない。インフルエンザの方が高いぐらいだ。
「うん……うん、そうだよね。ごめん。何か今日は朝からすっごい不安な気分でさ」
「そんなに焦る必要はありません。皆守さんも命に別状があるわけではないですし、九龍さんたちも来週にはこちらに来れるんです」
「だよね。うんっ、焦っても仕方ないよね」
八千穂の顔がようやく明るくなった。それでも、多少無理している感じはあるが。春奈も何とか笑顔を出して言う。
「そうだよ。それに、調べものも途中だし。遺跡に行かなくても、調べたらわかることもあるかもよ」
そういえばばたばたしていて結局情報交換をやっていない。
それどころじゃないと思っていたが、これが遺跡に関わることなら、続けるべきなのだろう。
危険かもしれないから止める、という選択肢は誰の頭にも浮かばなかった。
遺跡に行きたい。
その言葉を聞いたとき九龍は絶句した。思わず携帯の表示を確かめる。自分が電話をかけた相手は誰だったかと。聞こえてきた声は確かに男のものだったのに、それが信じられない。八千穂や七瀬の名前が表示されてるのではないかとまじまじと携帯を見返してしまった。
「おい、九龍」
「あっ、ああ、聞いてる」
慌てて携帯を耳元に戻す。電話の相手は間違いなく皆守だ。倒れたという連絡が七瀬から入ったのは数時間前のこと。七瀬自身も動揺して混乱しているようで、そのときは詳しいことはわからなかった。それからまた随分経って、医者は問題ないと言ってる、との連絡がメールで来た。
電話をしにくい状況なのか、病院に居るなら電源を切ってるか、などと考えてまた一人もんもんとし、更に時間が経ってようやく、遺跡が原因かもしれないという七瀬の予測が送られてきた。再びメールだった。
遺跡に行きたいという八千穂と七瀬を止め、むしろ絶対に行くなと電話で話したが、納得しているようには思えなかった。
結局迷った末、駄目もとで皆守に電話をかけてみると意外にも相手は出た。そして、最初に言われたのがそれだった。
「あのな、とりあえずお前人が心配してるのを」
「悪かったな。さっき起きたとこなんだよ」
そういえば眠っていて話が聞けないとも言っていたか。しかし皆守の声は寝起きの声ではない。どこか固い。
そこでふと気付く。
「お前……今どこだ?」
病院内なら電源を切ってるだろう、と思ったのも気軽に電話をした理由だ。皆守は少し沈黙する。
「おい、」
「病院の外だ。携帯が使えないからな」
「……お前、すぐ電話出ただろ。かけたとき既に外に居たってことか?」
「お前に電話するつもりだったんだよ。いいから聞け」
強い口調が、妙に焦っているようにも聞こえる。九龍は知らず緊張して携帯を握り締める。
「おれが今日遺跡に行ったのは聞いたか」
「聞いたよ。それだ、まずおれが聞きたかったのは。何でだよ」
「……おれにもわからない」
「おいっ」
「今向かってる理由はわかる」
「…………!」
皆守が場所を移動しているのは何となく気付いていた。息遣いが荒……いや、これは移動のせいじゃない。
「ちょっと待て! お前、まだ熱が」
「ああ、熱はあるだろうな。だりぃ」
「普段から言ってるから深刻さが全くわかんねぇが、お前、呼吸がやべぇ!」
耳を澄まして聞いてみれば、皆守の辛そうな呼吸がわかる。焦る九龍に落ち着け、と言ったのは皆守だった。
「遺跡に行けば治るんだよ」
「…………な」
「多分、それは、間違いない」
皆守が歩き続けているのを感じる。九龍は必死で頭を働かせた。
どういう意味だ。遺跡に魂の井戸でもあるのか。でも一部屋しか開いてないとか、いや、今日遺跡に行ったときに気付いた? いやいや、それでも今日行った理由が謎だ。
「最初に井戸に入ったのがおれだからか、最初に部屋に入ったのがおれだからか、壷を割ったせいか、攻撃を受けたせいかわからないが、」
九龍が混乱している間にも、皆守は続ける。
「多分、遺跡が、おれを逃すまいとしてる」
ひどく冷静に、皆守はそう告げた。
荒かった呼吸が、少しずつ静かになっていく。
「……おれは遺跡に入る。これ以上山に行くと携帯の電波が入らないから切るぞ」
「ちょっ、待て! 入ってどうするんだ! ずっと居るつもりか!」
「とりあえず入ってから考える。二部屋目の扉が開いてた。行く前にお前に知らせとこうと思ったんだ」
「お前、何か持ってるのか! 水とか薬とか食料とか!」
「あー……」
皆守が頭をかきむしってるのがわかる。何も考えていないのか。
「……時間がかかりそうなら引き返しゃいいだろ。とにかくだるい」
だるいから遺跡に行くなんて。なんて皆守らしくない言葉だ。
だが本当に辛いのだろう。行けば治るとわかっているから行くのだ。
九龍は頭を抱えた。
「それじゃ、ホントに切るぞ。何かあったらまた連絡する」
「いやいやいやいや! お前また入って出られるのか! せめて誰か……」
言いかけて気付く。あそこに居るのは八千穂、七瀬。そして九龍の知らない七瀬の同級生の女子が一人。
あーっ、真里野はまだか!
「もういいだろ。切る……」
「甲太郎っ!」
本気で切られそうな気配があったので慌てて大声で叫ぶ。
「何だよ」
「遺跡に入ったらじっとしてろ。次の部屋には行くな。せめて一日待て!」
遺跡の呪いを甘くみるな。墓に捕らわれたものは……墓の意思に反する行動を起こせないかもしれない。敵が出て、反撃出来なかったらどうする。
「一日ったってな」
「どうせもう夜だろ。遺跡の中で寝てろ。得意だろ。寝るの」
「…………」
「アロマぐらいは持ってるんだろ? それつけて寝てろ。夏だし、風邪引く心配もないだろ」
皆守の返事はない。九龍はじっと待ったが、やはり何も言ってこない。
「わかったな? 先に進むつもりなら八千穂たちけしかけるぞ」
このことを話せば、何が何でも八千穂は遺跡に向かう。八千穂には、戦う力だってあるのだ。
皆守に危険を冒させないために八千穂を危険にさらす、では矛盾しているかもしれない。だが皆守が八千穂を危険にさらすわけがないとも思っている。
やがて、皆守がため息をついて言った。
「わかった……、寝てりゃいいんだな」
「おお、寝てろ。とにかく寝てろ。遺跡の声には耳貸すなよ」
朝、遺跡に向かったのは遺跡が呼んでた、ということなのだろう。
とにかく待ってろ、と心の中でも必死に言う。
皆守の「ああ」という小さな声だけ聞いて、電話は切れた。
九龍は電話を放り出し、急いでHANTを立ち上げる。
ここから日本に戻ろうと思えば、朝の飛行機に乗って……着くのは昼過ぎか。
ちょうど今の仕事もバディが居なくなったところだ。引き延ばしたところで誰に迷惑をかけるわけでもない。
九龍は七瀬へのメールも打ち始める。
皆守が病室から消えたことはいずれ連絡がいくだろう。
「…………」
HANTを打つ手を止め、九龍は再び電話を手にした。
こういうとき、メールの文章だけではひどく不安だ。
声で伝えられたほうが安心するんじゃないかと、そう思ってのことだった。
それは自分の声が落ち着いていてこその効果だと、繋がった瞬間思ったが。
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