今すぐ行くから待ってろよ!─2

 8月2日。
 春奈陽子は空港の片隅で友人たちを待っていた。
 春奈は瀬戸内海に浮かぶ小さな島の出身だ。今日そこにある謎の遺跡へと行くことが決まっている。
 実は春奈は不安だった。
 記憶にあるその場所は、幼い頃以来一度も訪れたことはない。そこにあるのは確かだと思っているが、入れない状態になっていてもおかしくはないのだ。
 そのため確認も兼ねて春奈は一度友人たちより先に実家に帰った。いろいろ準備もあるから、と言い訳し前日の飛行機に乗ったのだが、結局船の都合や実家でのばたばたとしたやり取りもあり、そこへ行くことは出来なかった。何より一人で見に行くことへの躊躇いがやはりある。これなら東京から一緒に来た方が良かったかと思う。
「おっそい……」
 この待ち時間に一人で居ることを考えても。
 先ほどから何度も携帯を確認しているが、着いたという連絡が入らない。飛行機自体が遅れているのだろう。春奈の居る位置からは正確な着陸時刻は分からないが、見るために動く気にもなれない。
 時間潰しにゲームでもしようか、ともう1度携帯を開いたそのとき、漸く待ち望んでいた着信が入った。
 メールじゃない。電話だ。
「もしもし? 七瀬さん?」
 立ち上がり、歩きながら会話をする。既に荷物を取り終え出てくるところだと言われた。飛行機自体はとっくに着いていたようだ。荷物の方が遅れたのだろうか。ちょうどそこで春奈の視界に八千穂たちが入る。
 二つの大きな荷物を引きずる七瀬と、その隣で元気良く手を振ってくる八千穂。
 春奈が近づいたとき、七瀬の後ろに居た男が七瀬の荷物を奪い取るようにして持った。一瞬どきっとするが、どうやら連れのようだ。あらかじめ話には聞いてあった、七瀬と八千穂の友達らしい。七瀬から奪ったバックを片手に眠たそうに歩いている。八千穂が駆け寄ってきたため置いていかれてるが、急ぐ様子すら見せなかった。
「陽子ー! お久しぶりー!」
「お久しぶりー! やっちー、相変わらず元気だねー」
 七瀬の友人、八千穂とは数回一緒に遊びに行ったことがある。大学は別なのだが、距離が近いためか、店で遭遇する率も高い。八千穂は騒がしいのでどこに居てもすぐわかる。
「こんにちは。すみません、遅れてしまって」
「いやいや。飛行機着いたとこでしょ? 飛行機の遅れまでどうにもなんないよー」
 真面目な顔で言ってくる七瀬に苦笑する。バス停に向かうため歩きながら春奈は男の紹介を受けた。
「こっちが前に言ってた皆守甲太郎くん。いつもだるそうで眠そうで、その通りなんだけどちゃんといいとこもあるから!」
「どんな紹介だ、それは」
「あと、えっと、頭もいいよ!」
「お前よりはな」
 軽いやりとりに笑顔が見れて、春奈も少しほっとする。とっつきにくい相手だったらどうしようかと思っていた。七瀬からの情報だと、冷めてひねくれた皮肉屋、といった感じだったのだが。意外に反応が暖かい。
 八千穂をからかう皆守には遠慮のない関係が見てとれて、八千穂の彼氏なのかと何となく思う。こんなところに着いてくるぐらいだし。
「皆守くん、もうバス来るよ。そんなもの吸ってたら乗れないよ」
 外に出てバスを待っていると、いつのまにか皆守がパイプを口に銜えていた。同級生のはずなので未成年じゃないかと一瞬思ったが、誕生日を過ぎていれば20歳か。春奈は早生まれのため、どうしても感覚が狂う。
 まあ成人しているのだろうと勝手に結論付けておく。お堅い七瀬が何も言ってこないことだし。
 しかし春奈は特に煙草を気にしないが、喫煙者との行動はいろいろ面倒だ。喫煙席のあるようなところじゃないと食事は無理かな。
 思った瞬間、漂ってきた花の香りに驚いて振り返る。
「え……何それ?」
「あ? これはアロマだ。ラベンダーの香りがするだろ? ま、精神安定剤って奴だな」
「へぇ、これってラベンダーなんだ」
 何となく覚えのある香りではあったが、何の花かまでわかるはずもない。
「皆守さん、まだそれを吸ってらしたんですね。もう精神安定剤は必要ないのでは?」
 七瀬の声が妙に厳しい。精神安定剤、なんて言われるとさすがに初対面の春奈は突っ込めなかったが、こちらは付き合いが長い分遠慮がない。皆守はふん、と口元でパイプを揺らす。
「別にいいだろ。おれの周りには騒がしい奴が多いからな。休日に突然叩き起こしに来る奴とか、真夜中に国際電話をかけてくる奴とかな。ゆっくり眠るためには必要なのさ」
 言いながらも、皆守はアロマの火を消した。
 バスが来たのだ。
「まあ、もうそれは皆守くんの香りって感じだしね。ないと逆に落ち着かないかも」
 八千穂が笑って言って、4人はバスに乗り込んだ。
 すれ違ったときに漂った香りに、男の匂いとしてはどうなのだろうとも思ったが、落ち着く香りには違いないのかもしれない。










 空港からバスで約30分。待ち時間を経て船で約2時間。島の港近くで昼食を取り、近くの旅館に荷物を置く。そこからほぼ歩きで1時間。4人は問題の遺跡のある、山の麓に立っていた。
「ここよ」
 春奈が振り返ったとき、それまで疲れた顔をしていた七瀬の顔が輝きだす。歩いている間も手放さなかった本をしっかり握り締め、震えるような声で言った。
「ここに、超古代文明の遺跡があるんですね……!」
「い、いや、まだわかんないから……」
 長い道行の間に随分と話をした。
 七瀬に既に話してあったことも出来るだけ詳しく語った。どこまで本当だったかわからない体験も、冗談交じりにではあったが話してある。七瀬どころか八千穂や皆守も、そんなことがあるはずないとは、一言も言わなかった。
 皆守辺りには特に突っ込まれるような話題だったと思うのだが。
 八千穂や七瀬の言葉にはやたら茶々を入れていたのに、春奈の話には真剣だった、ように思う。単に遠慮があるだけかもしれない。
「でも陽子が見たのって絶対そんな感じだよねー。すっごい古い遺跡なんでしょ? それでそんな凄い仕掛け作れちゃうんだもん」
「襲い掛かってきた奇妙な生物、というのも天香遺跡を思い起こさせますしね」
「うーん、それに関しては自信ないんだよねー。今思い起こすとアニメで見たキャラだった気もするし……」
 というよりは、長い間に記憶がアニメにすり替わってしまったような気がする。何か、が居たことは確かなのだけど。
 皆守がゆっくりと煙を吐きながら言った。
「さっきから思ってたんだがな。お前……よく帰ってこれたな?」
「うん……」
 そこだ。
 奇妙な仕掛け。奇妙な化物。
 それらと遭遇したことは覚えている。逃げていたときの手の感触も、転んで手を付いた地面に見えたひび割れも、今もはっきりと思い起こすことが出来る。
 なのに、その後が曖昧だ。
 自分がどうやって遺跡から出たのか。
 気付けば森の中で泣いていた。そんな記憶しかない。
「……とりあえず行こっか。暗くなるとさすがに危ないし」
「ここから遠いの?」
「遠かった覚えはあるけど……子どもの頃のことだしねー」
 そう言いながら春奈は山を登り始めた。山登りをする準備じゃない気もしたが、元々子どもの足で行けた場所だ。そう遠いはずもない。
「道があるのか?」
「途中までね。途中大っきな湖があって、木が一本ぽつんと生えててその近くに小屋みたいなのがあってそれから……どうだっけ」
「おい」
「大丈夫大丈夫。行けばわかるって」
 とんとん、と軽い足取りで春奈は進む。ちらりと後ろを見ると八千穂と七瀬は並んで歩き、その後ろを皆守が着いて来ていた。あまり早く進むと距離が開いてしまう。見失わないためにも会話を続けた。
「でね……一個だけ言ってないことがあったんだけど」
「何なに?」
「これはホント……凄く自信ない……っていうか一番自信ないし、ホントにただの私の妄想かもしれないんだけど」
「はっきり言え」
 のんびりしてるのだかせっかちなんだかわからない男が先を促す。
「……一緒に、男の子が居た気がするんだよね」
 握り締めた手の感触。
 駄目だよ。逃げて。こっちは危ない。
 耳に残るそんな声。
 だけどその姿は、はっきりと思い出せない。どんな服を着ていたのか、どんな髪形をしていたのか。年齢はいくつなのか。
 思い出そうとしてもぼんやりとした影にしかならなかった。体格は、自分と同じくらいだったと思う。
「……でもそんな友達が居た覚えもないしさ。この島の中だとみんな知り合いになっちゃうから誰も覚えてないとかありえないし」
 さりげなく、その子の話題をしたことはある。
 一緒に山に登った男の子誰だっけ、と。
 上がる名前は近所に住む年の近い遊び友達。
 でもその誰も、遺跡のことを知らない。何より、それらの人物であれば、自分がわからないはずもなかった。
「たまたま観光に来てた子、とか?」
「親戚を尋ねてきた子かもしれません。一度会っただけ、とかだと記憶が薄いのでは?」
「あー、そうかなぁ」
 山の中で泣いていた自分は一人だった。
 ならば、あの子はどうなったのだろう。
「これホント、自分の妄想だったら恥ずかしいんだけど」
 小さな子どもは見えないお友達を作ることが多い、と聞いたとき、正直この子のことが浮かんだ。誰も覚えていないなら、自分の中だけで作り上げた自分の理想の男の子だったりするのではないかと。
「その話、いくつのときなんだ?」
「小学校……低学年かな。多分…小学校には上がってた気がする。自信ないけど」
 あれ、でも帰ったときおじいちゃんに会った気がする。明らかに泣いた跡のある自分に喧嘩でもしたのか、と問いかけてきた。でもおじいちゃんは小学校に上がる前に死んでなかったっけ。あれは別の記憶だっけ。
「……駄目だ。記憶って曖昧すぎる」
「少し自分で調べて来いよ」
「だって親にも聞けないじゃん。自分の妄想かもしれない場所のことなんてさ」
 皆守のツッコミに容赦がなくなっている気がする。
 思わず唇を尖らせて返せば、ちょうど湖が見えてきた。
「あ。あれ? 湖って」
「だね……うわぁ、こんなに小さかったんだ」
 子どもの頃の目線では相当な大きさだと思ったが。そもそもこれは湖ではなく、ため池か?
「随分汚いな」
「泳ぐのは禁止されてたなぁ。昔、子どもが飛び込んで怒られてたよ。汚いってのもあるけど、結構深いんだよね。足付かなかった」
「お前かよ」
「あ、ばれた」
 深さは実際かなりありそうだ。今思うとよくこんなところで泳ごうとしたものだと思う。
「あ、木と小屋ってのもあれかな?」
「え、あ、ホントだ」
 これもまた、記憶より随分近いところにあった。
 木も小さい。子どもの頃は本当に見上げる高さだったのに。小屋とほぼ同じぐらいしかない。
「小屋というのは、何かに利用されてるのですか?」
「さあ。私は知らない。小屋って言ってもほとんど廃墟だよ。ドアは壊れてるし、中は砂だらけだし」
 自分たちも土足で踏み込んでいた。秘密基地扱いでいろいろ持ち込んではいたが、それで怒られた記憶もない。
 道はほぼそこで終わり、今度は草木を掻き分け森の中を歩く。枝に何度か引っかかり、半袖で来たのを少し後悔した。
「こんなところ、子どもが歩いてたのか?」
「そんなに奥までは行かないよ。っていうか小屋から先は立ち入り禁止。あ、蛇とか出るから気を付けてね」
 その言葉に七瀬がぎくりとしたように下を見たが、足を止めることはない。八千穂と皆守は平気そうだった。
 蛇は結局見なかったが、いろんな虫に遭遇したり、八千穂が蝉にはしゃいだりしながら、道なき道を歩き続ける。日も大分陰ってきた頃、皆守がぼそりと言った。
「おい……本当にこの道で合ってるのか?」
「道なんてないからわかんない。あの小屋からこの方向に真っ直ぐ」
「おい……」
「それにしても遠いよね。子どもの頃ここまで来たの?」
「……うん」
 今更不安になってくる。
 まさか、本当に、あれがあったこと自体が自分の妄想だったとでも言うのか。
 これだけはっきり覚えているのに。全て夢の中の出来事だったとでも。
 振り返った春奈の顔から不安を見てとったのだろう。皆守が僅かに気まずげに顔を逸らす。
「ま、簡単に行けるとこじゃないからこそ発見されてないんだろうが」
「そうですよ! 超古代文明の遺跡がそう簡単に見付かるわけがありません!」
 七瀬は興奮気味にそう言ったあと、はっとしたように息を吐き、眼鏡を上げながら少し落ち着いた声音で言った。
「古人曰く──『幸運は待っていれば向こうからやってきてくれるほど都合のよいものではありません。自ら望み、準備し、行動することによって獲得するものです』──まずは向かいましょう。探さなければ見付かりません」
「まー、そうだね。何か期待されてるのが怖くなってきたけど」
 出来るだけ軽い口調で言ってまた歩き続ける。
 そのとき、八千穂が声を上げた。
「あれ? ねぇ、あれって何?」
「え?」
「井戸……か? こんなところに」
「えっ、井戸!?」
 八千穂が示した先に確かに何かがある。木の影になってはっきりした形がわからない。だが、皆守がはっきりと井戸と告げた。
「そこ! そこだよ!」
「は?」
「井戸が……ですか?」
「そこが入り口なんだって!」
 春奈は思わず走り出す。木を避け、草を踏み分け、大したスピードは出なかったが、早く確認がしたかった。
「これだ……!」
 確かにそこにあったのは記憶にある井戸。
 あのときより小さく感じるのは、やはり自分が成長したからだ。
 屋根の部分が完全に崩れ落ち、腐りかけた木を囲むように岩が積み上げられている。
 この岩の部分に足を乗せ、中を覗き込んでいた記憶が蘇った。
「……辺りには何もありませんね」
「謎の井戸だね! いかにもって感じだよね」
 井戸の上にはそれだけ少し新しく見える板があった。打ちつけられているわけでもなく、ただ乗せられている。
 上にあったいくつかの石をどかせば簡単に持ち上がった。
「うーん、暗いなぁ。皆守くん、見える?」
「……水は入ってないんじゃないか。下は土だな」
「見えるの?」
 狭い井戸は木に囲まれているのもあって随分と中が暗い。
 石を落としてみようと思っていた春奈は思わずその手を止める。
「皆守くんの目は特別なんだよっ。ねえ、じゃあさ、ここから入れるの?」
「私は子どもの頃ここに落ちちゃってね。で、横に大きな道があって」
「ねっ、入ってみようよ!」
 八千穂がうずうずと押さえきれないように叫ぶが、それを皆守が制した。
「ここから飛び降りるつもりか? 降りられたとして、どうやって帰ってくるつもりだ」
「う……それは」
「でも……子どもの頃の春奈さんが戻ってこれたということは、ここ以外に出口があるということですよね?」
「だと思う。ここを上った覚えないしねー」
「それが子どもしか出られない穴だったらどうするんだ」
 しかも見付かるかどうかわからない、と皆守が言う。
 それはそうだと思ったが、七瀬はずっと背負っていたバックを下ろし平然と言った。
「では、まずロープを張りましょう。この辺りには木が多いですし、長さも足りると思います」
「お前、そんなもの持って来てたのか」
「古人曰く──『偶然は準備のできていない人を助けない』」
「わかったわかった。それじゃあまあ、せっかくだから降りてみるか」
 ロープを受け取った皆守が近くの木にそれを巻く。
 井戸自体にも天井を支えていた柱があるのだが、あまりに細く、朽ちかけていて頼りない。
 皆守がロープを井戸の底へと投げる。興奮が湧き上がってくる。本当に、この中に入るのだ。
「それじゃ、先に行くぜ」
 皆守がロープを掴み、軽い動作で中へと飛び込んだ。びん、とロープが張りつめる。
「どきどきするねー」
 八千穂の笑顔には救われる。
 春奈は勢いよく頷いて、皆守の後へと続いた。


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