六番目の小夜子─3

 温室は、実は中まで入るのは初めてだ。花にはあまり興味がないし、何となく一人で来るには抵抗のある場所だった。九龍は温室の鍵を持っているのに──。
「あれ?」
 鍵は開いている。放課後はそうだったっけ、と思いながら中に入るとそこに見覚えのある姿を見つけた。
「大和っ!」
「ん? ああ九龍か……」
 花とか絶対に似合いそうもない男が温室の中心で佇んでいる。他に、人影は見えなかった。
「お前一人か? 何やってんだよ、こんなとこで」
「ちょっと気になることがあってな……。九龍、君もこの場所に何か思い当たることがあって来たんじゃないか?」
「……うーん、そう、なのかなぁ……」
 言われてみるとはっきりとは答えられなかった。
 何で、温室に来ようと思ったんだっけ?
 ああ、そうだ、香りが……。
「……とりあえず匂いの出所を確かめようかなぁ、とか」
「そうか……」
 夕薙は頷いて温室の中を見渡す。
 充満する花の香り。だが、それでも……はっきりと、あの香りがこの空間を覆っているのがわかる。
「お前は? 何か温室がどうこう言ってから随分経ってねぇ?」
 あれからずっとここに居たというのだろうか。
 だが夕薙は少し笑って言った。
「ああ……何かがおかしくなったのはこの匂いを感じるようになってからだと思ってね。それで少し調べていた」
「おお……」
 さすがだ。
 九龍は本当に調べもの、が苦手だ。
 周りに得意な奴が居てくれて本当に助かる。
「で? 何かわかったのか?」
「ああ……。九龍、君は……抱香師というのを知っているかい?」
「……どんな漢字?」
「……知らないか」
 夕薙は苦笑して、その「抱香師」について語る。香りを操る技術を持った天才的な職人。この出来事は抱香師の仕業だと。……双樹、なんだろうな。
 それを夕薙に言うべきか、九龍は迷う。いい加減夕薙には話すべきかとも思っていた。生徒会のことと、その力。皆守を挟んで会話するときにも、その辺の話題が出せなくて不便だとは思っていた。ただ、夕薙が敵か味方かわからなかっただけだ。
 正直ここまで一緒に居るのなら、どっちにしろとっとと言ってしまった方が良かったと思う。何だか今更、切り出しにくい。
「……凄ぇな、抱香師って」
「ああ……。だがこれほどまでに完璧な情報操作を行うのは抱香師といえども容易くはないはずだ」
 夕薙はそこで真っ直ぐに九龍を見てくる。
「君は興味がないか? 彼らの持つ力の正体は一体何なのか……」
「……彼ら?」
 九龍の問い返しに、夕薙は答えなかった。
 意味ありげに強調されたその言葉。
「……お前さ、何をどこまで知ってるよ?」
「何のことだ?」
 腹の探りあいなんて苦手だ。
 もうこうなったら聞いてみるかとそう言えば、夕薙は表情を変えずそんなことを言う。
 ……いや、そう言われると説明できないんだよな、おれも。
 夕薙は生徒会側ではないと思う。
 だが、ハンターという気もしない。
 ただやたらに鋭い一般生徒……と言う可能性もなくはないが。
 とりあえず、話してくれる気はなさそうだった。
「じゃ、何でおれに聞く?」
「……君ならば、きっとこの謎に迫ることが出来ると思ってな」
「おれ、すげー頭悪いぞ?」
「勉強が出来ないのと頭が悪いのとは違うさ」
 いやいやいや。
 まあ、おれも本当に言うほど頭悪いとは思ってないんだけどな?
 でも多分お前の方が普通に上だろ。
 九龍が黙っていると、夕薙もようやく視線を逸らす。
「この学園は呪われている──か」
 この出来事も、やっぱりそれに繋がるのだろう。
 夕薙はほとんど独り言のようにその後を続ける。
 超常的な力など信じない。神の怒りだの呪いだのを信じない。
 そんな力、この世にあるはずがない──と。
 夕薙がたまに見せる激しい側面。
「九龍」
 その激情のまま、夕薙は強い口調で九龍を呼んだ。
「君はどうなんだ。この学園を取り巻く呪いとやらは、人の力では覆すことの出来ない神や悪魔や、超常的なもののなせる技だと思うのか?」
「それはない」
 九龍は夕薙の問いに、珍しく正面から答える。
「どんな現象だろうと、人の力でどうにもならないってことはない。っていうか……」
 そう信じてないとやってられない。
 超古代文明だって、人が作ったものだ。不思議な力はある、不思議な出来事は起こる、呪いだって存在する。だがそれは全て人が為しているものだ。人の力で起こされたことだ。だから、人の力で覆すことは出来る。
 九龍は神も悪魔も信じていない。
 それだけは、はっきり言えた。
「……そうか」
 夕薙の超常現象への嫌悪感に対して、九龍は反感を持っていたし、今までもずっと曖昧にかわしてきた。
 だけどどうやら……根本のところは同じだったようだ。
 ただ多分、「常識」の範囲が違うのだろう。
 ただ、それだけだ。
「九龍、君は──」
 夕薙が何か言いかけたとき、放送のチャイムが鳴る。
 思わず2人揃って校舎の方に目をやった。
「3年C組、葉佩九龍くん。瑞麗先生がお呼びです。すぐに保健室へ行ってください。3年C組、葉佩九龍くん。保健室までお願いします」
「……おれかよ」
「何だ、何かやったのか?」
「いやいやいや! ってか保健室に呼び出されるって何だ……!?」
「甲太郎の迎えか?」
「いや、それで呼び出すってどんな嫌がらせだ……!」
 自分はそんなに瑞麗に嫌われてたか?
 名前を出されるのが九龍なら、皆守への嫌がらせにもならない。
 っていうか皆守引っ張っていくなら八千穂の方が効果的なんだが。
 ……ああ、今八千穂は駄目か。
「行かなくていいのか?」
「いや、行くって。マジで甲太郎の迎えだったらお前も呼び出してもらう」
「さあ、おれは帰るとするか」
「待て。ってか一緒に行かないか大和」
「悪いがおれにはまだ用があるんでね。それにそろそろ下校の鐘も鳴る……呼び出しも受けてないおれが付いて行ってはまずいだろう」
 全然まずくねぇよ、いいから来い。
 そうは思ったが、それを言う前に夕薙は小声で呟くように言った。
「……何かわかったのかもしれないな」
 ……瑞麗先生が?
 ……何か、伝えようとしている?
 ……いやいや。何でおれに。
「急いだ方がいいんじゃないか? 本当に校舎に入れなくなってしまうぞ?」
「……あー、もうわかったよ。じゃあな大和。情報サンキュー」
 九龍はため息をついて温室を出る。まあ……聞かれてまずい話かもしれないし、一人で行った方が無難だろう。
 帰る生徒たちの人波に逆らって、九龍は保健室へと向かう。
 ちらちら、見知った顔が九龍を見ていた。
 ……珍しいよなぁ。保健室への呼び出しって。
 あとで何か聞かれるんじゃないだろうか。
 校舎1階は既に静まり返っている。保健室側の校舎に向かおうとしたとき、正面から歩いてくる人物に足を止めた。
「あ、トト!」
「コンニチワ、葉佩サン。ココデ会エル、思テマシタ」
 嬉しそうに微笑んで、トトは九龍のもとへと駆けつけてきた。
 どうやら放送を聞いて待っててくれたようだ。
 ……ん? タロットで占った?
 まあどっちでもいい。
 トトは九龍の次の敵、双樹についての忠告をしに来てくれたらしい。人の記憶を勝手に変えてしまう香りの使い手。……考えてみると、確かに怖い。
 だがトトは怖いより──許せない、と言った。
 大切な想い出を奪われる痛みは……執行委員が誰より知っている。
 九龍は頷いた。
「安心しろ。おれが絶対何とかしてやる。その生徒会役員だって……」
 九龍は言いかけて気付いた。
 役員も、何かの呪いにかかっているのか?
 双樹も神鳳も、何かに苦しんでいる様子は見えなかった。だが、それを言うなら朱堂や真里野もそうか……。
「もしお前たちと一緒なら……おれが救うから」
 どうにもトトに対してはこういう物言いになってしまう。おれを信じろ、など力強く言ってしまったせいかもしれない。こいつの前でおれが弱気になっちゃ、いけない。
 トトは安心したように微笑んだ。そして励ましの言葉と共に……生徒会室の鍵を渡される。
「……いいのか、これ?」
「ハイッ。葉佩サンオ役ニ立テテクダサイ」
 九龍はその鍵を握り締める。
 敵陣だなぁ。1度……乗り込んでみるか。皆守でも連れて。
「ありがとうトト。それじゃ、おれは保健室行くな。お前は早く帰れよ?」
 下校の鐘が鳴る前に。
 執行委員たちが解放されたあと、どういう扱いになってるのかはよく知らないが。もう生徒会の仕事をしていないのは確かだった。
 ならば、一般生徒と同じように処罰される恐れはある。
 トトは一つ頷いてそこから去って行った。
 困ったときはいつでも力になる、との言葉と共に。










 保健室辺りは、既に人気がなく静かだった。
 職員室の明かりはついていたが、こちらもほとんど物音が聞こえない。
 足早にそちらに向かった九龍は、突然響いてきた声に思わず足を止める。
「用が済んだらさっさと帰りたまえ。それとも、こんな時間に校舎内をうろついてまた騒ぎを起こす気か?」
 瑞麗の声。
 何だかいつもと口調が違う。
 誰と話しているんだ? と九龍は思わず聞き耳を立てる。
「まぁまぁ、そう邪険にする事ないだろ? 今じゃあ、この匂いに思考を邪魔されずに済むのはこの部屋くらいだ。それにまんざら、知らない仲ってわけでもあるまいし……」
 これは……鴉室!?
 なるべく静かに近寄って、ドアを僅かに開ける。やはり、鴉室だ。この位置からだとはっきりと顔は見えないが、その特徴的な服装は間違えようもない。
 瑞麗先生の知り合いだったのかよ……!
 そういえば以前鴉室は、学園内に協力者が居ると言っていた。それが……瑞麗か。
 意外すぎる組合せに、目を見開きながらも、九龍は立ち聞きを続ける。どうせ今入られちゃ困るだろうしな。いや……鴉室のことは既に知ってるから、いいのか?
 思っている間にも2人の会話は続く。あの夜会について、鴉室は説明するように瑞麗に話し続けていた。あれが舞踏会の名を借りた足踏み呪法? 鴉室さん、そこまでわかってたのか……っていうか、あれ、あんな意味があったのか……。
 夜会の夜。
 ほとんど双樹の言いなりに踊っていた九龍は、それがどんなものであったかなど全く思い出せなかったが。
 おれの、あれさえも利用されてたってのか?
 何だかもやもやした気分が残る。ハンターに鎮魂の手伝いさせるとか。からかわれてんのかよ、これ。
「それよりも、もうすぐ生徒が来るんだ。詳しい話はまた後で――」
 墓地の中のもの、彼らを救う方法。
 その辺りまで及んでいた2人の話は、やがて瑞麗が唐突に切った。あ、そうだ。呼ばれてるんだおれ。
 もうちょっと聞きたいんだが。
「生徒って葉佩くんだろ? なら大丈夫だって。あいつとはちょっとした仲──」
 そうそう、おれは聞いても問題ないんじゃないか?
「貴様……生徒に手を出したのか」
 どういう意味ですか瑞麗先生。
 その人、そっちの趣味もあるんですか。
 結局鴉室は瑞麗に投げ飛ばされ、ガラスを突き破って強制退場させられてい た。
 ……ここで入って、何にも気付かない振りとか、無理だろ?
「……失礼しまーす……」
「やあ、ようやく来たな」
「涼しい顔して言わないでください」
「ん? 君は何か言いたそうだな」
「聞かない方が懸命でしょうか」
 九龍はちらりと割れた窓ガラスに目をやる。
「そうだな。大人の事情に首を突っ込んでもろくなことにはならないぞ」
 瑞麗は平然とそう言って、しゃっ、とカーテンを引いた。窓が一応内側からは隠れて見えなくなる。
「さて、まず始めに一つ確認するが──」
 カーテンに人型の影がちらりと映った気がしたが、瑞麗は何事もなかったかのように九龍に目を向けてくる。
 九龍もそれ以上そちらを気にしているわけにはいかなかった。
「君は白岐幽花という名前に聞き覚えがあるか?」
「…………」
 驚いた。
 瑞麗は、知っているのか。
 一瞬躊躇ったあと、頷く。それは、皆守の言っていた名前。九龍たちから失われている、少女の名前。
 ……だった。
 ようやく、思い出してきた。
 まだ僅かに霞みがかったような記憶ではあるものの、髪の長い物憂げな表情をした少女の顔が、はっきりと浮かんできた。何度も会話をした覚えだって、ある。
 瑞麗はやはりな、と頷いていつものように煙草を吸いながら、説明を始めた。
 この保健室は特別な香りで清められているらしい。なるほど。言われてみれば、学園中に漂っていた香りがここではしない。じゃあ窓を割ったのはまずかったんじゃ、と思うが瑞麗は当然それは気にせず続ける。
「実は今朝、保健室に来てみたら生徒のカルテを何者かが触った痕があってな」
「カルテを?」
「ああ。ひとつのカルテが抜き取られていた」
 それが、瑞麗に疑惑を抱かせるきっかけになったようだ。
 確かになくなっているカルテがあるのに、誰のものなのか思い出せない。そうだ、やはり人間の居た痕跡を完璧に消すことなど……不可能だ。時間が経てば経つほど痕跡は発見され、人の記憶が繋がっていく。
 瑞麗はその名を、なんと占術で導き出したらしいが。だけどきっかけさえあれば、そして原因さえわかれば……思い出せるものなのかもしれない。
「白岐幽花。君たちの級友に間違いないな――皆守」
「へ?」
 しゃっ、と瑞麗がベッドにかけられたカーテンを引く。
 その上に居た皆守が、苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ていた。
「いきなり話をふるなよ。まるで俺が盗み聞きしてたみたいだろ」
「いやいやお前聞いてたのか! ってかずっとここに居たのかよ」
「午後の授業が始まってすぐぐらいだったかな」
「って瑞麗先生も知ってたんですよね、つまり……」
 じゃあ皆守が居ることを知っての会話かよ。
 さっきの鴉室さんとのやり取りだって……聞いてるんじゃないのか?
 まあ……寝てなければ、だが。
「九龍」
「ん?」
「お前はあんな匂いなんかで本当にあいつの事を忘れていたのか?」
「…………」
 言うなよ。
 九龍の情けない顔に気付いたのか、皆守が顔を逸らす。
「……悪い」
「……しょうがねぇだろ。おれはお前みたいにアロマ持ってねぇし」
 先生たちまで忘れていたのを、おれにどうしろと。
 勿論正直──悔しいが。
 もう完全にはっきりしてきた白岐の姿。
 そこに来てようやく疑問に思う。
 何故、生徒会が、白岐の記憶を消す。
 白岐が、何かしたのか?
 その疑問は皆守たちも持っていたようだ。
 生徒会が白岐の存在を隠蔽しようとしているのか。
 白岐は生徒会に関係があるのか。
 それとも彼女はこの学園に関する重要な秘密を握っているのか。
 生徒会は一体何から白岐を隠そうとしているのか。
 2人の会話を聞きながら、いくら考えたって、答えなんて出ない。
「やれやれ、この学園には、わからない事が多すぎるな。どうだね、転校生としては挑み甲斐のある謎……といったところかな?」
「そんなこと言ってる場合じゃない気がしますが」
 とにかく早く、八千穂にだけでも白岐のことを思い出させてやりたい。
 白岐はそもそも今──どこに居る。
 考え込んだ九龍に瑞麗が時計台の話を振った。
 時計台の幽霊。
 白岐に似ているという少女の話。
「あっ……!」
 それは、今日聞いたばかりの話。
「……時計台か」
 九龍の呟きに瑞麗が微笑んだ。
「先生、おれそろそろ──」
「ああ。行って来い。君の手で数々の謎が明らかにされるのを、楽しみにしてるよ」
 ……あれぇ、おれ瑞麗先生に何話したかな。
 苦笑いをしつつ、九龍は保健室を後にした。


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