六番目の小夜子─2
八千穂と昼食を取ったあと、九龍は音楽室へと向かっている。
先ほど取手から入ったメール。
今朝から漂うこの香りについて、不安を訴えるものだった。
……この、香りに何かあるのだろうか。
「取手ー?」
「あ、はっちゃん」
音楽室にはいつものように取手が居る。ピアノの前に座っていた取手が立ち上がった。音楽室は締め切っているせいか、少し香りが薄い。
「どうしたの? わざわざ」
「いや、ちょっと話したいと思ってな。さっきのメールのことなんだけど……」
九龍は勝手に音楽室の隅にある椅子を引っ張って取手の隣に座る。取手は、ああ、と納得したように頷いた。
「……取手は、おれらのクラスに居る髪の長い女の子知ってるか?」
「え? はっちゃんのクラス?」
取手が思い出そうとするかのように考え込む。九龍にも具体的な姿が浮かばないので説明がし辛い。ええと、皆守が言った名前は……何だっけ。
「いや、わかんないならいいんだけどな。何かおれらのクラス……先生も含めてみんなそいつのこと忘れてるみたいで」
「え……」
「……おれも、八千穂も。さっき七瀬ちゃんに会ったんだけど、七瀬ちゃんも……」
思い出せない、と言っていた。確かにその人を知っているのに、と。
「……ごめん。ぼくにもわからない」
「うん……いや、お前は単に知らないだけかもしれないんだけど」
でも目立つ子だった気はするんだよなぁ。
思い浮かべようとすると、また頭がぼおっとする。
……この香り。
「……それでな。お前がこの香りが不安になるって言うから」
「それは……ぼくが感じただけだから」
「いやいや。そういうの貴重だって。お前も、その……」
忘れていた経験がある。
それは姉の存在そのものではなかったが。
取手が納得したかのように少し瞬き、俯いた。
「そうだね……。あのときと、ちょっと感じは似てるかもしれない」
心にまとわりつく不安感。
何かを忘れている空虚感。
「……やっぱりこの香り、なのか」
ならば、皆守に影響がないのも頷ける。
彼はいつも別の香りを纏っている。
「……今度は、執行委員じゃないのかな」
「ああ。執行委員はトトで最後だったらしいし……。おれ、誰かを執行委員だと思ったことがある気がするんだけどな……誰だっけ……」
それも忘れている。
何なんだ、このもやもや。
「でもやっぱり生徒会には関係あるのかな」
「……他にこんな現象ねぇだろ」
生徒会が関わっている限り、何が起こっても不思議じゃない気がする。これも墓守の能力か。この場合……香りで、人の記憶を操っている?
九龍の頭に双樹の顔が浮かぶ。
……ああ、多分間違いない。
「取手は双樹のことどれくらい知ってる?」
「双樹さん? 同じクラスだけど、あんまり話したことはないな。いつも阿門くんと居るし、あんまり授業にも出てこないから……」
「そっか……」
きれいな人だよね、というつけたしを聞いて九龍は何となく笑う。
ああ、取手でもそんな風に思うんだな。
「ありがと。それじゃ──」
「あ、はっちゃん」
「ん?」
立ち去ろうとした九龍を取手が止める。
取手は少し躊躇うように口を閉ざした。
「どうした?」
「あの……まだ、時間あるかな」
「へ? いや、そりゃ昼休みはまだ……うん、残ってるだろ」
途中で時間を確認しながら取手に頷く。
これから皆守のところに行こうと思っていたが、まあ同じクラスだ。別に今じゃなくてもいい。
そう言うと取手は少し微笑んで、それでも躊躇いながら言った。
「それじゃあ……ちょっと、ぼくの曲、聴いてくれるかな」
「お? マジで。何だよ、最近お前聴くなとか言ってたのに」
「まだ練習中だったから……。やっと完成したんだ」
「ま、そうだとは思ってたけどな」
途切れ途切れのピアノの音を聞いたことはある。この音楽室は完全な防音にはなっていないので校舎内に居ると聞こえることが多いのだ。一応取手は、放課後の僅かな時間とか、なるべく人気の少ないときに弾いていたようだが。
九龍は仕舞いかけた椅子を引いて、もう1度座り直す。
取手の肩に、少し緊張気味に力が入ったのがわかった。
それから、次の瞬間には流れるような旋律が九龍の耳に響いてくる。
その取手の指の動きに、見惚れる。
テンポの速い曲はそういえば、珍しい。だが、九龍好みでもあった。
ああ、いいな、これ。
音楽の良さとか正直理解出来ない九龍は、凄いなとか上手いなとしか取手に言えてない。でもこの曲に関しては言える。
好きだな、これ。
楽しい。
笑顔になっている九龍に、取手がふと気付いたようにこちらを見て、取手もまた楽しそうに笑った。
「将来の夢か〜」
先ほどのリズムが頭の中に残ったまま、とんとん、と九龍は軽い足取りで屋上への階段を上っていく。
あのあと取手が語った将来の夢。
それは、世界的なピアニストになること。
スケールのでかさに一瞬驚いた。取手の腕がどれほどのレベルなのか、九龍にはわからない。だからそれが、どれだけ現実的な夢なのかもわからない。だが取手はそれを具体的な目標として捉えているようだった。学園の中で閉じこもっているようだった取手が、外に夢を見ている。何だか九龍まで勝手に嬉しくなった。
「甲太郎ー」
屋上の扉を開ける。
取手には九龍自身の夢についても聞かれたが、九龍には答えられなかった。
トレジャーハンターになること。
そんな子どもの頃からの夢は、既に叶えられている。
なのに九龍は、仕事を放ってでも、しばらくここに居たいと思っている。
勿論、トレジャーハンターを止めたいというわけではないのだが。やっぱり中卒でこの世界に飛び込むのは、早すぎたのかもしれない。
味わえなかった青春が、今更惜しい。
「九龍か……」
いつものように給水塔にもたれかかっていた皆守がこちらを見る。そして九龍の姿を確認すると目を閉じた。
「おいこら、寝んな」
「昼休みは昼寝の時間だ」
「お前午後の授業出るんだな? そういうことだな?」
「…………」
「返事なしかよ、おい」
九龍は皆守の隣に座り、その口元に手を伸ばすと勝手にアロマパイプを抜き取る。さすがに皆守が驚いたように目を開いた。
「おいっ」
「あれ、火付けてないのか?」
「ん? ああ、消えたんだな」
ここは風が強い、と言って皆守はパイプを奪い返すと再び火をつける。
アロマの匂いが、濃く漂ってきた。
「……あー、初めてこの匂いで落ち着いた」
「は? ……ああ。例の香りか」
「何か学園中に充満してんだもんな。頭がぼうっとしてくるし。……やっぱ、あれのせいでみんなおかしくなってんだよな?」
「ああ……そうだろうな」
皆守が深くアロマを吸い込んで吐き出す。そして九龍と視線を合わせてきた。
「お前は自分を見失うなよ? ま、お前なら大丈夫だとは思うが」
「そうか……? おれ、何か自分が情けなくなってきたとこなんだけど」
皆守の香りを分けてもらおうかと思って九龍はここに来たのだった。
だがその香りをしっかり吸い込んでも、やはり思い出せない少女が居る。
……こいつみたいに一日中吸ってなきゃ駄目かなぁ。
やっぱりパイプ買っとくんだった、と九龍は思う。
「やぁ……葉佩」
「ん?」
そのときふっ、と九龍たちの居るところに影が出来た。
顔を上げると、そこにはにやにや笑いながら男が一人立っている。
「……喪部」
「……知り合いか?」
「お前……ああ、お前朝から居なかったもんな。ウチのクラスの転校生だよ」
「へえ……」
皆守が喪部を見上げる。
入ってきた気配はなかったので最初から居たのだろう。
この屋上に一般の生徒はあまり入ってこない。この屋上の支配者が居るせいだ。
喪部はそれを知らず、一人でここに……。……ああ、こいつ友達出来ないんじゃないかな、これ……。
もっとも、本人に作る気はなさそうだったが。
「よろしく。葉佩の友達かい?」
「……まぁな……」
面白がるような視線がどうにも居心地が悪い。
こいつは多分ハンターだと。皆守にも早く言いたいのだが、さすがにここではまずいだろう。
この男が、どういう立場を取りたいのかまだわからないが。
「お前は……ええと、お前は何やってたんだ?」
喪部が立ち去らないので何か言わなければ、と九龍はそんな言葉を口に出す。
喪部はそれにふ、と屋上の向こうに目をやった。
「いや……人を見ていただけさ。なあ葉佩……餌を抱えて巣へと戻ろうとする蟻の行列を見ると、思わず踏みにじってやりたくならないか……?」
ガキかお前は。
言葉通りにとって一瞬そんな感想が浮かぶ。
……違うな。蟻って比喩だな、これ。
「……まあ、お前が危険な奴だってのは理解した」
寄んな、と片足を上げて蹴る真似をしてみれば何がおかしいのか、喪部は笑って去って行く。そんな態度を取れるのも今の内、か。……やっぱ敵になんのか。面倒くせぇ。
「……何だ、あいつは?」
「多分ハンター……」
「……だろうな」
皆守は納得したように頷く。
いやいや、納得されるのも複雑なんだけど。あんなハンター滅多に……多分そんなに、居ない。
「何かな。ファントムに続く要注意人物って感じだな。油断してると横から獲物かっさらわれそう」
「油断するなよ」
「一日中か? きついだろー……。あいつ、寮の部屋どこなんだろ」
「さあな……もう3階に空き室はなかったと思うが」
「マジで! 別の階ならいいな。あいつ絶対1〜2年に怖がられるぜ。……まあ気にしなさそうだけど」
「ハンターってことは……目当ては遺跡か」
「ん? あー、だろうな。この学園で面白いとこはないかとか聞かれたよ。答えなかったけど。でもここ、あの墓結構あからさまに怪しいからなぁ」
「お前は初日で向かってたな」
「あー、あれは八千穂ちゃんの誘いもあったし……。っていうかハンターじゃなくても気になるだろ!? あの墓地は!」
「普通の生徒は入らないがな……」
皆守はため息をついてアロマを吹かす。そのままごろりと横になった。
「あ、マジで寝んの?」
「眠ぃ。お前はとっとと帰れ」
もう5時間目始まるだろ、と言われ思わず時計を見る。あー、ホントだ……。
「温室も行こうと思ってたのに……。まあ放課後かなぁ」
放課後開いてるだろうか、と呟くように言えば皆守が僅かに顔をこちらに向けてくる。
「温室?」
「ああ。何かありそうだな、と。この香りの正体も突き止めたいし」
お前も協力しろ、と言えば面倒くせぇと返された。
まあそんなこと言っても引っ張っては行くんだけどな。
6時間目は自習になった。
これ幸いと複数の生徒が勝手に帰ってしまう。
九龍もその流れに乗って温室に行こうかと思ったとき、八千穂に止められた。
また説教か、と思うが八千穂は少し俯いて相談に乗って欲しいと言う。
元気のない八千穂に驚きつつも、九龍は頷いて、2人でマミーズへと向かった。
「いらっしゃいませ〜。って九龍くんに明日香ちゃんじゃないですか。2人揃って授業をサボリだなんて珍しいですね〜」
いつも通り明るく迎えてくれる奈々子に苦笑して返す。
九龍は言い訳をするつもりもなかったが、普段真面目な八千穂は違ったようだ。自習だ、ときっちり言い返す。
まあ皆守も普段から自習だとか言うから残念ながら説得力はないんだけどな。
「あのっ、無理矢理引っ張ってきてごめんね、九ちゃん。その代わり、ここは私が奢るからっ」
席に着いた八千穂は明るく笑ってそう言った。
お勧め、として出されたのはデザート類とハンバーガー。……そういや八千穂、ハンバーガー好きだよな。
とりあえずプリンと言ってみると可愛いとか返されてしまった。いや、そんなに凄く好きってわけじゃないけど、ほら、たまに無性に食べたくなるというか?
しなくてもいい言い訳をしながら九龍は注文する。八千穂はハンバーガーだった。まあそろそろお腹空く時間だよな。九龍も食べたいのだが、奢りと言われるとつい高いものは遠慮してしまう。いや、大して変わらないけど。
「……それで、やっちー」
「……うん」
八千穂が目を落として話し始める。
それは、忘れてしまった少女の話。
そうだ。八千穂が誰かと仲良くなりたいとずっと言っていて……段々話しかけられるようになって……その感覚は、九龍だって覚えている。夢でも見てたのか、と続けられた言葉には思わず首を振った。
違う。九龍だって覚えている。
「やっちー、これな」
「うん?」
「……多分、生徒会の仕業だ」
「えっ」
八千穂が驚いて顔を上げる。考えてもなかったのだろう。これまで不思議な力は散々見て来たとはいえ、やはりなかなか思いつくことではない。香りによって、人々の記憶が飛んでるだの。
「……おれも覚えてる。いや、ちゃんとは思い出せないけど、居たことはわかってるよ。やっちーがその子と仲良くなりたいと思ってたのも……仲良くしてたのも」
「そっか……。うん、じゃあ、やっぱり夢じゃないんだよねっ。ありがと九ちゃん。ちょっとすっきりした」
そう言って笑う八千穂は、それでもまだ無理をしているように見えた。
いくら生徒会の仕業だと言っても、いくら九龍が覚えてると言っても、思い出せないのは……不安だろうな。
「あ、授業終わっちゃったね。私、部活行かなくちゃ……」
ちょうどチャイムの音が聞こえてきて、八千穂がぽつりとそう言う。
九龍も一緒に立ち上がった。
「付き合ってくれてありがとうっ、九ちゃんまたね」
八千穂はやはり明るく声を張り上げてマミーズを去って行く。
明るいのに、笑顔なのに。……元気がない。
「……あんな明日香ちゃん初めて見ましたよ〜。何だか心配です〜」
横で一緒に見送っていた奈々子がそう言う。
奈々子からもそう見えるか。ああ、早く何とかしないとな。
思ったとき、またあの香りが漂ってきた。
……こんなところにまで。
だが思い返せば、この香りは朝から、それこそ寮を出るときから感じていたような気がする。
「あ、この香り──何だかわからないけどいい匂いですよね〜」
奈々子は鼻をひくつかせながらそう言う。だが直ぐに少し唇を尖らせた。
「でも、何ていうのかな〜。リラックスしすぎちゃって、私にはあまり好きになれないんですよね」
「おー、さすが奈々子さん。仕事の虫」
「えええっ。も〜褒めても何も出ませんよ〜?」
褒めてると受け取られるとは思わなかった。ああ、やっぱり仕事が好きなんだな。
九龍など、この香りを嗅ぐと何も考えたくない気分にさせられる。何度も自分に言い聞かせないと……香りに負けてしまいそうだ。
「それじゃー奈々子さん。この匂い、あんまり嗅がない方がいいよ」
「はいー。あんまり嗅ぎすぎるとお料理の匂いがわかんなくなっちゃいますしねっ」
奈々子が手を振りながら言う。
ああ、やっぱり仕事か。凄ぇよ奈々子ちゃん。
「九龍くんはこれからどうするんですか〜?」
「とりあえず……温室」
当初の予定通り。
本当は皆守も誘いたかったけど、屋上まで行くのは面倒だ。
屋上から降りて来いとかメールして……来ないだろうなぁ……。
「ではでは、また来てくださいねっ。ありがとうございました〜!」
奈々子の声に見送られながら、九龍はマミーズを後にする。温室はすぐそこだ。九龍は早足でそちらへと向かった。
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