姿を変えられる呪いというのは、ある。
　九龍自身が見たり体験したことはないが、叔父が聞いたという話や、知り合いのハンターが体験したという話の中に、信憑性はともかくとしてそういったものは数多くあった。
　動物に変えられた、植物に変えられた、老人にされた子どもにされた。……性別が変わった、なんてのも。
　解決法も様々だったし、解決しないまま終わった話もあった。
　これは遺跡の呪い……なのだろうか。
　何気なくポケットに手を入れたとき、九龍はそこに書庫室と司書室の鍵があるのを見付けている。九龍は、七瀬の姿に変えられたというよりも……七瀬と入れ替わったのではないかと思っている。ぶつかって体が入れ替わる……まあ、フィクションとしては馴染みやすい話だし、呪いは結構何でもありだし。
　なので九龍はとりあえず先ほどの場所──図書室に向かって階段を下りていた。５時間目が始まって随分経っている。廊下のざわめきももう消えていた。
　ちらりと覗き込むが、やはり誰の姿も見えない。
　……教室に戻ったか？
　もし七瀬が九龍になっているなら──側には八千穂が居たことだし、そのまま教室に引きずられているだろうか。いや、待て、九龍は鴉室を追いかけてる途中で……。
　とにかく確認だけでも、と教室に向かおうとしたときだった。
　図書室の方から声が聞こえてきた。
「葉佩さん、葉佩さん」
「……あっ、七瀬？」
　聞き覚えのない男の声。それも葉佩さん、なんて呼ぶのは誰だ、などとぼんやり思い、次の瞬間声を上げた。
　あれ……ひょっとしておれの声か！
「な、なぁ、七瀬だよな？」
「はい……。葉佩さんとぶつかって、目が覚めたらこんな風に体が入れ替わってて……」
「あー、やっぱり入れ替わってるんだ。大丈夫だった？　誰にも会わなかったか？」
「慌ててこの中に飛び込んで鍵をかけたので……。何でこんなことになってしまったんでしょう……」
　途方に暮れる七瀬の声。
　自分のせいかもしれない、とはさすがに言えなかった。
　このまま元に戻らなかったら……か。それは確かに考えたくもない。
「さすがにそれはないだろ。こういうのは絶対何か、解く方法あるって。案外一晩寝たら治ってたりな」
　ちょっと軽すぎたかと思ったが、七瀬にはそれで良かったようだ。つい悪い方に考えてしまって、と反省している。多分九龍はいい方に考え過ぎるので、それぐらいでちょうどいいと思うのだが。
「そうよ──。このままじっとしてても解決法は見付からないわ。何とか元に戻す方法を探し出さないと……」
「おう。頑張ってくれ」
　そういう調べ物は七瀬の分野だろうと思う。
「はいっ。葉佩さんも頑張ってください」
「……あ、やっぱおれもか」
　とりあえず自分は……遺跡にでも行ってみるべきか。
　ロゼッタに聞いてもわかんないかなぁ。
「あ、そういえば七瀬ちゃん携帯とかは？　ポケットに入ってないみたいだけど……」
「携帯はカバンに……ここにありますので大丈夫です。葉佩さんも持ち物の方は」
「あー、ごめん、財布だけ出してくれる？」
　さすがにないと困る。夕食も取れないし。あー、でも夕食は部屋で食べた方がいいかな。……って部屋に戻れるのか、これ。
　司書室の扉がゆっくりと開き、七瀬が顔を出す。
　ああ、そうか、おれの方が背が高いんだ。
　自分の顔を見上げる、というのは妙な感じだ。しかも鏡では決して見たことのない表情だ。
「…………」
「…………」
「……何だか変な感じですね」
　お互い同じことを思っているのだろう。何となく視線を逸らす。
　七瀬から財布を渡されて、九龍はとりあえずポケットに……って、入れ辛いな、これ……！
　どうも男子のポケットより小さいようだ。無理矢理押し込んで、もう１度七瀬を見る。
「七瀬ちゃんは……図書館？」
「はい。とりあえずここで書物を調べてみます。何かわかったら連絡しますから」
「うん、おれもそうする」
「……元に戻るまでは、私として行動してくださいね」
「……も、勿論、ちゃんとやるから」
　おれ、なんて論外だよな。
　大丈夫、七瀬ちゃん基本敬語だから何とかなるはず。公の場では男だって私、って言うしな。言ったことないけど。
「それじゃあ、お互い元に戻れるまで頑張りましょう」
「おうっ、それじゃ」
　七瀬に手を振ってその場を後にする。
　この姿で教室に戻る気はない。瑞麗にでも、会ってみようか。










　私は七瀬、私は七瀬……。
　自分に言い聞かせながら、保健室の前で深呼吸する。いつもは躊躇いなく開いている扉だが、七瀬ならきっとノックぐらいするんじゃないだろうか。
　右手を上げたとき、中から声がした。
「入りたまえ。葉佩だろ？」
「！？」
　驚きに顔を上げる。慌てて中に飛び込むと、椅子に座ってこちらに体を向けていた瑞麗が少し驚いた顔をするのが見えた。
「なんだ、七瀬ではないか。間違えてすまなかった。おかしいな……葉佩の気を確かに感じたのだが」
　気。気って。
　どうしよう、これは、聞いた方がいいのか。
「あ、あの、瑞麗先生」
「ん？」
「ちょっとご相談があるのですがよろしいでしょうか」
　やたら早口になってしまった。
　瑞麗が妙な目をしたのに気付き、焦る。
「ああ。とりあえず座りたまえ」
　瑞麗の前の椅子に腰かける。よく、九龍が勝手にベッドの間に引っ張っていって座っている椅子だ。ああ、女子のスカートって座るときどうしたらいいんだ。皺にならないように……。
　座る動作一つにもたもたしている九龍に、瑞麗の視線が痛い。
　沈黙が辛く、座りながらとっとと話しかけることにした。
「先生は、あの、呪いとか信じていらっしゃいますか？」
　七瀬はこういう話が好きだ。この発言に違和感はないはずだ。
　瑞麗の表情を見る限り、怪しいが。
「……例えばその、誰かと誰かの体が入れ替わるとか」
「…………」
　瑞麗はしばらく沈黙したまま九龍を見ていたが、やがて煙草の煙を吐き出し、魂魄の話を始めた。霊と肉体と、気の関係。憑依、霊媒、生まれ変わり。霊が肉体を離れることはありえる──そう、言っているのだろうか。
　言われてみると、確かにそういう話は多くある。
「君の身に起こっていることは興味深い現象ではあるが、理解不能な現象ではない」
　そして瑞麗は九龍に向けてそう言った。
「……あれ、ばれてます？」
「私には君が七瀬にはどうしても見えんな。見た目以外は」
　一応演じたつもりだったのに。何がいけなかったんだろうか。やっぱり古人曰くとか言うべきだったか。だが知識が足りない。
「……ええと、それじゃどうやって戻るかとかは」
「さあな。だが元に戻ることが不可能ということはないだろう。入れ替わったときと同じことを試すか──七瀬は今どうしている？」
「図書館で調べ物です」
「なるほどな、あちらはあちらで動いているわけか」
「おれにはあっちは無理なんで」
　同じことを試す……ってのもなぁ。かなりの勢いでぶつかったわけだし、正直あれは無防備だったからこその衝撃だ。ぶつかることがわかっていてはどうしても体が身構えてしまう。
　九龍が考えていると、更に瑞麗からは別の注意を与えられる。
　入れ替わったことは他言しない方がいい。
　九龍は狙われているから、と。
「…………」
　おれ、狙われてたんですか。
　いや、よく考えれば当然なのか。今まで何もなかったのは単純に──九龍が強いから？　なんだかんだで執行委員は倒しているし、正直少々の相手なら喧嘩で負ける気もしない。
「……肝に命じときます」
　八千穂ちゃんにも言えない。彼女に悪気はなくても、彼女に言ったらどこからもれるかわからない。
　そもそも信じて貰えそうにないしな……。七瀬が変な子扱いされてしまう。
「おや、５時間目が終わったな」
「あ……」
　いつの間にかチャイムの音。九龍は慌てて立ち上がる。
「それじゃ、失礼します。あの、七瀬ちゃんには先生のこと伝えとくんで」
「ああ。何かあったらまたいつでも来るといい」
「ありがとうございましたっ」
　保健室を出て、九龍は寮の方へと向かった。部屋に帰るなら今の内だろう。ばれないためには、やはり誰にも会わないのが一番いい。七瀬への連絡はメールで何とかなる。寮に帰ったらまずパソコンで七瀬ちゃんの学園でのアドレスを調べて……。
　思いながら走っているとき、唐突に思い出した。
　真里野との約束。
　……ど、どうすりゃいいんだ！？
　九龍は自分の姿を見下ろす。
　この格好ではとてもいけない。だからといって今日は無理、とかメールして納得してくれるものだろうか。弱虫とか逃げるのか、とか言われるのは嫌だ。かといって事情を話しても無理だろうし……。九龍の姿の七瀬に来てもらっといて、七瀬姿の自分が「私がお相手します」とか言ってみるとか。私に勝てないようなら九龍さんにも勝てません！　とか。どうよ。
　想像としてはとても楽しいが、どう考えても無理だ。七瀬は探索のことを知っている様子ではあったし、話してしまえば付き合ってもらえるかもしれないが……そもそもこの体、どこまで動くのやら。
　走り辛いし、直ぐに息が切れる。七瀬の運動神経の問題なのか、体を使い慣れていないが故のものか。だってな。胸……あるんだもんな。
　寮まで近付いて、九龍はこっそり胸に触れる。制服の上からでは感触なんてのはほとんどないが、膨らみがあるのははっきりわかる。
　……着替え、とか。どうしよう。
　下着姿までは不可抗力か？　いや、だって、このまま戻らなかったらさぁ。風呂とかトイレとか……。
「…………やべぇ」
　真里野のことはともかくとして。
　とりあえず遺跡には行ってみよう。
　これが呪いなら、それを解く鍵もあそこにあるはずだ。
　知らない内に別の執行委員と遭遇していたのかもしれないし。
　このままの状態で長く耐えられそうになかった。
　九龍の理性が。










「どうしようかな……」
　九龍はマミーズ裏手で壁にもたれかかったまま呟いていた。
　七瀬はどうやら女子寮に戻ったらしい。先ほどメールが来ていた。頭にタオルをかぶっていけばばれない……とのことだが、九龍だとはわからなくても誰か男が入ったのは確実にばれるんじゃないだろうか。この時間、まだ人通りは多いはず。
　変な噂が立たなきゃいいけど。
　そう思いながらも、九龍が気にしているのはもう一通のメールの方だった。
　差出人は真里野。
　今日の約束のために……雛川を攫ったと。
　……マジか？
　最初はただ呆然とした。そして、嘘ではないだろうことはすぐにわかった。
　この学園内、雛川が居るか居ないかなどすぐわかる。学園から与えられるメールは教師の分もある。勿論時間が迫っていることを考えれば、慌てて九龍がろくな準備も出来ずに飛び込んでくることを想定してのメールかもしれないが……九龍は、その点の心配はあまりしていなかった。
　関係ない奴傷つけるタイプには思えないんだよなぁ。
　九龍は昼間会った男の顔を思い浮かべる。
　まだ、例えば皆守辺りを攫ったとかならともかく、雛川を痛めつけるとか……想像が出来ない。それは九龍が想像出来ないだけで、つまりはただの希望でしかないのだが、九龍はそれに気付かない。そんなはずない、と。雛川が傷つけられるはずがないと。そう思っている。
「あら？　そんなとこで何してるんですかぁ〜」
「へっ？　あっ、な、奈々子さ……」
　突然マミーズ裏手側にあった扉が開いて九龍は慌てて壁から離れる。奈々子が不思議そうな顔でこちらを見ていた。一瞬いつも通りに対応しようとして、何とかぎりぎりで今自分が七瀬であることを思い出す。
　七瀬が奈々子を何と呼ぶのかわからなかったため、それ以上は言えなかったが、奈々子は直ぐに笑顔で挨拶をしてきた。九龍も一つ深呼吸して答える。
「こんばんは。ちょっと、その……夜のお散歩に」
「えぇ〜？　七瀬さんってそういうこともするんですねぇ〜。まさかぁ、これから逢引とか……」
「ち、違います！」
　そう見えても仕方ない状況だった。慌てて否定すると、奈々子が近付いて声を潜めてくる。
「ホントですか？　誰にも言いませんからこっそり教えてくださいよ〜。あの、葉佩くんと付き合ってるって噂……」
「はぁっ！？」
　思わず大声を出した。
　誰が、誰と！？
「わ、私が葉佩さんとですか」
「はい、結構噂なんですよぉ〜。どうなんですか？」
「な、ないですないです。葉佩さんなんて頭も良くないし気も利かないし、っていや、そうじゃなくて」
　自分の悪口言ってどうするおれ。
　しかも七瀬の印象が悪くなるだけだ。
「違うんですか〜？　すみません、他の子がよく話してるからてっきり……」
　どこで、そんな話が生まれたのだろう。
　噂になるなら絶対八千穂だと。そう思っていたのに。ホントに、怪しいという言葉何一つ聞かないよな、おれたち……！
　皆守が混じっていることが多いからか。そして、そういえば七瀬とは図書館で二人きりになることが多いことも思い出す。そうか……こっちだったか。
「でも良かったです〜。私、実は彼のことちょっと気になってて〜。あっ、やだ、これ内緒ですからねっ」
「は、はい……」
　笑顔ではしゃぐ奈々子に冷や汗をかきつつ頷く。
　マジか。マジかよ奈々子ちゃん。
　恋というよりは、やっぱりまだ憧れレベルの気がするが、声かけたらOKしてくれるんだろうか、これ……。
　思わずそんなことを考えつつ奈々子とは別れ、そのまま遺跡へ向かう。
　いい加減お腹が空いた。もうこの時間寮に帰れるとは思えないので遺跡の中でパンを食べる予定だった。幸い昼間に大量に買い込んだパンを、九龍はいまだに手に提げている。これを持ってぶらぶらするのも七瀬の名誉にはあまり良くなかったかもしれない。
　遺跡の中に入り、新しい区画が開いているのを確認しつつ、九龍はパンを齧る。
　ついでにHANTを開いた。
　とにかく九龍が行けないことだけでも何とか真里野に伝えなければならない。
　待ちぼうけさせるわけにはいかないし、雛川を解放してもらわなければ困る。
　話せばわかる相手……なのだろうか、本当に。
　九龍はここに来てようやく不安になってきた。
　正々堂々とした武士──確かにそう見えたが、彼も遺跡の呪いにかかっているのには違いない。ならば手段を選ばない可能性だって……。
　九龍は立ち上がるとそのまま井戸に向かった。
　残ったパンを部屋に放り込み、装備を整える。
　どちらにせよ、新しい区画には入ってみたい。あとはバディだが……。
　もう１度HANTを開き、アドレス帳を眺める。
　……皆守は、信じるだろうか。
　バディに来てくれ、とHANTからメールを送り、遺跡に入ってみればそこには七瀬が待っていて「おれは九龍だ」とか言い出す……。
「……わかんねぇ」
　どういう反応を示すか想像出来ない。
「七瀬と一緒に潜るけど、先に行くから七瀬の案内よろしく、とか？」
　ありえない。
　どうせ遺跡の謎を解くのは九龍だし。
　……送るだけ、送ってみるか。
「おれ、七瀬の姿になっちゃったけど、遺跡に入るからバディよろしく、と」
　七瀬の姿で下手なことは出来ないが、九龍のHANTからなら少々おかしなことをしても大丈夫だろう。
　半分冗談と思ってくれることも祈って九龍はメールを送った。
　皆守は来ない。
　そもそも返事すらなかった。
「あいつ、寝てやがるな……！」
　そもそもいつも遺跡に潜る時間より格段に早い。
　夕食後、バディに誘うまで眠ってることの多い皆守だ。むしろ当然のことと言えた。
「くそー。怪我したらお前のせいだからな……」
　勝手な責任転嫁をしつつ、九龍は新しい区画の扉へと向かう。
　なるようになるさ、と思いながらその扉を開けた。

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