蜃気楼の少年─2

 女生徒が音楽室の前に座り込んでいた。
 中を指差し、声を震わせる女性に、皆守が声をかける。彼女が示した方向に目をやれば、別の女生徒が倒れているのが見える。
 九龍は中に飛び込んだ。
「助けて……」
 か細い声は、その女性のものだった。
「だ、大丈夫か!」
 慌てて助け起こす。皆守も中に入ってきた。
「手……あたしの手が……」
 女性の体は震えている。呟くような言葉に思わず目をやれば、そこには干からびたような女生徒の手があった。ぎょっとして一瞬固まる。
「こいつは……」
「うう……」
「何があった?」
「……誰かが音楽室に居て……私に飛びかかってきて……」
 問い詰める皆守と、必死に説明をする女性。九龍はそれを呆然として見ていた。
 手が……干からびた、のか? 何者かに襲われて? 日本の、高校の、音楽室で?
 襲ってきた者の姿が思い出せない女生徒が頭を抱える。皆守がそれを強い口調で問い詰めた。女性が怯えるように身を震わせ、ついには叫びだしたとき、ようやく九龍も我に返る。
「お、おいっ、今それを聞いてる場合じゃないだろ。えっと、こ、この子を……」
「ああ、そうだな。とりあえず保健室に運ぶぞっ」
「お、おうっ」
 抱き抱えていいものか迷っていると、皆守が女性の体を後ろから支えて九龍の背に乗せた。ありがたいが、自分でやる気はないのか。
 女性の体を背負い上げ、皆守について走る。
 保健室に運んで……それから病院、だろうか。これ、病院で治るんだろうか。
 そう思いながら保健室のドアをくぐる。鍵は開いていたが、人の姿は見えない。
「おいっ、カウンセラー居ないのか!」
 急患だ、と叫ぶ皆守から目を逸らし、九龍は室内を見渡す。とりあえず女性をベッドにでも……。
 そう思っていたとき、横のカーテンが開き、くぐもった声が聞こえてきた。
「そこをどいてくれ……」
「ん? あ、ああ」
 青白い顔をした男子生徒がそこには立っていた。女生徒を背負ったまま動こうとした九龍に、男は僅かに目を瞬かせて聞く。
「君は……誰だ?」
 いきなり何だ。聞くならまず自分から名乗れ。
 など頭には浮かぶが、こんなところで喧嘩してても仕方ない。
 九龍が素直に名前を名乗ると、どうやら聞き覚えはあったようだ。
「そうか、君が転校してきたという」
「え、知ってんの」
 ……クラスメイトじゃ、ないよな?
 だがC組は空席も多かったし、いまだ知らないクラスメイトが居ても不思議じゃない気はする。何だか体が弱そうだし。だが、その疑問は皆守がすぐ打ち破ってくれた。
「何だ、A組の取手じゃないか。また保健室でサボってたのか?」
「ぼくは別にサボってたわけじゃないよ。最近割れるように頭が痛くなるんだ。気を失うぐらいに激しい痛みがして」
「おいおい、大丈夫かよ」
 まあ顔色が悪いのは確かだった。これをサボりというのは酷いと思う。そして取手はようやく九龍に対して名乗った。
「ぼくはA組の取手鎌治。皆守くんとは保健室で会う内によく話すようになって」
「皆守が保健室……? ああ、こっちはサボりか」
 皆守は案の定反論はしなかった。
「それより、さっきから気になってたんだけど……その女性は」
「ああっ、そうだ、ちょ、ええと、取手? どいてくれ。ベッドに運ぶから」
 女性はいつの間にかすっかり気を失っている。この状態を放って立ち話はさすがに酷かった。慌ててベッドに乗せている間に皆守が取手に説明をしている。新たな犠牲者、と。
「誰だか知らないが酷いことするぜ」
 ……くそ、スカートめくれそうで気になるな。
 ……じゃなくて。
 新たな犠牲者とか普通に話されることなのか。普通に個人がやれることだと思うものなのか。
 取手も特に口を挟まない。それじゃ、とこちらを気にすることもなく去っていく。
「お前もたまには屋上で太陽にでも当たれよ? 顔色悪いぜ」
 皆守の言葉に取手は少しだけ振り返り、そのまま去って行った。
 ……ああ、取手とは友達なのかやっぱ。
「っと、それより、その女のことがあったな。おいっ、カウンセラー、居ないのか!」
 皆守がそこで再び声を張り上げる。そこでようやくその人物が九龍たちの方へと歩いてきた。パイプを持っている。煙まで上がってるということは……煙草を吸ってたのか?
「騒々しいな。そんな大声を出さなくても聞こえる」
 なら早く出てこようよ。
 思うが、言い出せない。九龍はその女性を見つめたまま固まっていた。
 おお、ホントに美人だ。チャイナ服に白衣。少しきつめの目つき。……いいな、これは。
「カウンセリングをお望みかい?」
「はい……いや、そうじゃなくて、こっちの」
「居るなら返事ぐらいしろよ」
「うるさい坊やだな。こいつを吸い終わったら見てやるから、そこに寝かせておけ」
 カウンセラーは九龍の方を見て言った。九龍の側のベッドには女生徒が寝ている。そんな、落ち着いていられる事態でもないのだ。
「いやいや、すぐ見てくださいよ! 異常事態ですって!」
 貧血で倒れたとか、その程度のことしか考えてないのだろう。
 九龍の慌てたような声にも、カウンセラーはやれやれ、と面倒そうな反応をする。
 こちらに向かってからふと気付いたように顔を上げた。
「っと、誰だ? 君は?」
「え……」
「うちのクラスの転校生だ。職員会議で聞いてないのかよ?」
 ああ、見慣れない生徒だから聞かれたのか? 全校生徒把握してるのかな、この先生。
 女性はああ、と納得したように頷く。
「そういえばそのようなことを言っていたな。確か名前は──」
「あ、葉佩九龍です」
「そうそう。誰かと違って目上の者に対する口の利き方が出来てるじゃないか」
 女性があからさまに誰かを指して言う。
 保健室でサボるのが日常なら、皆守はこのカウンセラーとも親しいのかもしれない。
 思わず皆守に視線を移したとき、ふと妙な顔をしているのに気付く。
 ……あれ?
 九龍はそのときになって初めて気が付いた。
 ……おれ、皆守に対して名乗ったか?
 最初の自己紹介のときはクラスに居なかった。
 皆守からは「転校生」と呼ばれた覚えしかない。
 ……あれ?
 何とか思い返そうとしている間に、カウンセラーの方が自己紹介を始める。劉瑞麗。流暢な日本語だが、中国人だったらしい。優しく手ほどき、などこんな美人に言われたら男子生徒は大変なことになるぞ。まあからかっているような口調は好みが分かれるだろうが。
 九龍は大好きだ。
 そんなことを思っていると、ようやく皆守がそんな場合じゃないと声を上げた。
 ……そうだ! 女の子!
 手が干からびた女生徒をようやく瑞麗が診察する。さすがに驚くかと思ったら、随分平然としている。実は普通に有りうる事例なのか?
 後は任せておけと言われて九龍たちは大人しく保健室を後にする。面倒ごとに自ら首を突っ込んだ皆守は、これ以上はごめんだと言っていた。お前の基準はどこにある。
「さてと……そろそろ昼休みだな」
「あっ」
 気付けば4時間目をさぼっていたらしい。
 ……まあ、いいか。今から教室入るのも嫌だしな。
 皆守は当然の如く授業に出る気はないらしく、屋上で昼寝などと言っている。九龍も行くか、と思っていたとき皆守が振り返った。
「じゃあな転校生──いや、葉佩九龍」
 そこで突然名前を呼ばれる。
 あああっ、やっぱり、こいつ、おれの名前知らなかったんじゃ……!
 今更聞くに聞けず、取手や瑞麗への名乗りで知ったのかもしれない。何だか妙に悪いことをした気分になる。
「お前となら上手くやっていけそうな気がするぜ。……そうだ、お前生徒手帳は」
「へ? あ、これか」
 渡せば、朝の八千穂と同じようにめくって何やら書き込んでいく。どうやらこの学校では友達同士でこれをやるのが普通らしい。……正直男子生徒、それも皆守がやるとは思わなかったが。
「気が向けばおれもお前の夜遊びに付き合ってやるよ」
 チャイムの音が聞こえる。
「墓地に行くときは教えてくれ」
 じゃあな、と皆守は去って行った。九龍は改めて、返ってきた手帳を眺める。八千穂と、皆守。
 ……とりあえずアドレスは登録しておこう。
 皆守まで夜遊びに興味を示すとは思わなかったが、あれも毎日退屈しているのかもしれない。
「……さて」
 直ぐに皆守を追いかけるのは何となく気まずい。
 とりあえず売店でパンを買って……プリクラも撮っておこう。
 授業が終わったばかりで空いている今がチャンス!
 九龍は売店へと駆け出して行った。










 放課後。
 女生徒が襲われた話は既に広まっていた。噂にはなるが、やはりこの学園ではそれほど珍しいことではないらしい。
 呪いという言葉はどれほど真剣に語られているのかわからないが。そういえば昼休みに白岐から墓地に近付くなと忠告を受けていた。白岐もやっぱり呪い派だろうか。
 ぼんやり教室の噂話を聞いていると、外から声をかけられる。
「あ、七瀬ちゃん」
「こんにちは……。あの、送ったメールのことは気にしないでください。突然すみませんでした」
「いやいや、別にいいよ。それより何の用?」
「実は……書庫に埋もれている古い文献をずっと調べているんですが」
「おお」
 そういった作業の苦手な九龍は、思わず感心の声を上げる。七瀬はこの学園の秘密を何か掴んだのか?
「葉佩さんは、天香山というのを知ってますか?」
「あー聞いたことはある」
 何で聞いたんだっけ、と思ったが知ってると解釈されたようだ。
 簡単な説明はされるが、おお、覚えられそうにない。
 古事記とか日本書紀とか、書物の名前ぐらいしか知らない九龍に対し、七瀬はすらすらと調べたこと、そして推論を述べていく。
 すげぇ。
 言ってることの半分も理解出来ずに九龍は思う。
 だが、わかったような顔で頷いていた。ここでかっこつけても仕方ない、むしろ聞かなければならないのはわかっているのに。
 というか七瀬にまで只者じゃない雰囲気がとか言われてしまった。
 嬉しいんだか悲しいんだかわからない。正直嬉しいが、喜んじゃいけないのだろう。今は潜入任務の最中だ。
「私で良ければ力になりますから、いつでも図書館に来てください」
「うん。マジでありがと。いろいろ参考になった」
 わからないということがわかった。
 ……と言ったら怒られるか。
 いや、単語はいろいろ耳に残っている。後で調べてもいい。
 去りかけた七瀬は、そこで思い出したように振り返る。
「そうだ、ひとつ言い忘れてました」
 それは七瀬の考えた天香山のもう一つの意味。
 何となく、そちらの方が九龍には興味深い話だった。単に話が理解しやすかったというのもあるが。
 天を欠く山、か。確かに何かしら意味はある気はする。それはどういうことか。
 七瀬と一緒に考え込んでしまったが、結局結論は出ないまま七瀬は去る。
 自分も教室を出ようとしたとき、声をかけてきたのは皆守だった。
「あれ? お前居たのか」
「今屋上から戻ってきたところだ」
「お前、今日3時間目しか出てねぇじゃん……」
 何て羨ましい学生生活だ。おれはともかく、お前はそれでいいのか。
 皆守は気にした風もなく歩き出す。九龍も隣に並んだ。
「ぁ〜あ。何か今日は動き回ったんで疲れたな」
「あれでか! どんだけ体力ないんだお前!」
 しかも女生徒を運んだのは九龍なのに。
「おっ、陸上部が練習中だ、あいつらもよくやるよな。ぐるぐる同じ場所走って何が楽しいんだか」
 綺麗に流して皆守は運動場に目を向けた。
 ああ、こいつ練習とか努力とか無縁そうだ。
「そうだ、帰る前にマミーズに寄っていくか。さすがに腹が減ってきたしな」
「お、いいな」
 昨日は一人で寂しく食べたが。やっぱああいう場だと誰かと一緒の方がいい。
 同意してそちらに向かおうとしたとき、何やら叫び声が聞こえてきた。
「ん?」
「何だ?」
 やめろ、と聞こえた気がする。
 喧嘩か? と思ったとき、誰かがこちらに駆けて来る。
 取手だった。
 砂だ、黒い砂だ、とぶつぶつ呟きながらも悲鳴を上げて取手は何かから逃げるように走っている。九龍たちを見て、漸く足を止めた。
「と、取手? 大丈夫か?」
「何かあったのか?」
「何がだい?」
「いや、何がだい、じゃねぇだろ!」
 思わず九龍は怒鳴る。明らかに異常だった。やめろとか黒い砂とか。何なんだ。
 だが取手は平然とした顔で何でもないと言う。多少息が切れているが、後ろを振り返りもしない。
「本当に何でもないよ。心配してくれてありがとう」
 問い詰める皆守にも取手はそう言った。皆守は少し顔をしかめて視線を逸らす。
「まぁ、お前の事情だ。お前が何でもないって言うならそれでいいさ」
 それはそうなんだろうけど……いいのかな。
 思っていると今度は八千穂の声が聞こえてきた。隣に瑞麗も居る。組合せに首を傾げたが、偶然会っただけらしい。
「授業が終わったら真っ直ぐ家に帰ったほうがいいぞ。どうやら化物が出るらしいからな」
 瑞麗は面白がる口調でそう言う。反応したのは八千穂の方だった。
「化物って2年の子を襲ったって言う?」
 さすがにその情報は既に仕入れていたらしい。くだらない、と吐き捨てるのは皆守だ。
「でも、襲われた子が見たって」
「どうせ錯覚さ」
「えー」
 化物……ってのはどこまでを指すんだろうなぁ、とそれを聞きながら九龍は考える。
 皆守の最初の反応からすると、普通の個人の仕業と考えているようだった。だから錯覚、なのか?
 襲ったものが居ること自体は否定できないだろう。現象自体は、皆守も見ていることだし。
「それよりお前、部活じゃないのかよ」
「今日は早く上がったんだー。墓地探索に備えていろいろ準備があるじゃない?」
 ああ、部活終わったらって言ってたから早めに上がったのか。
 皆守が少し呆れた顔をした。
「本気で行くつもりかよ」
「あったり前でしょ。こんな面白いこと見逃す手はないし」
 まあなぁ。あんなもの見たら興奮はするよな。入ってみたいと思うよな。
 それは仕方ない、と九龍はトレジャーハンター視点で考える。
 そのとき取手がぼそりと言った。
「君たち、墓地に行くつもりかい?」
「あっ……」
 そうだ! 取手が居るところで何を話してんだ!
 いや、取手はまだいいとして、先生が居るのに!
 取手は純粋に墓地に入る危険を心配していた。ああ、そうだ。校則違反ってのも危険だから、なんだろうな。九龍が返答に困っていると、取手は突然頭を押さえだした。言っていた頭痛、らしい。
 かなり苦しそうだったが、すぐ治まったのか保健室に行くことは拒否した。
「取手くん、どこか具合でも悪いの? そういうときはいつでも遠慮なく私たちに言ってよ?」
 ああ、八千穂も優しい。皆守といい、心配の言葉がすんなり出るのは素晴らしいと思う。
 だが取手はその手を取らない。
「君たちではぼくを救うことは出来ないよ」
「え……」
 淡々と言われたその言葉に、八千穂が詰まる。九龍も驚いて何も言えなかった。
 取手は自分の病気のことは瑞麗に聞けばわかると言って去って行った。
 ……知れば、関わろうという気もなくなるという言葉と共に。


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