セミ

 じりじりと焼け付くような日差しにじめっとした空気。パラソルの下の日陰でもじんわり染み出てくる汗にナミはうんざりとしたため息をついた。
「あーもう、まだあの島の海域抜けないの?」
 2日前まで滞在していた島は夏島で、ちょうど夏真っ盛り。暑さ対策は進んでいたのか涼を取る施設は充実していて、島にいる間はほとんど感じなかった気温と湿気が今になって正面から襲ってくる。この小さな船では日陰に入るか水をかぶるかぐらいしか涼を取る手段はない。
「船止めてちょっと泳ごっかな…」
 ナミは海を見つめながら呟く。特に危険な生物がいるという話は聞いていなかった。水着は買ったばかりのものがいくつかある。あの島は水着の種類も豊富だった。
「そうね、この暑さじゃ読書も進まないわ」
 同じパラソルのもと、いつもの通り本を開いているロビンが言う。そのロビンの元にはテーブルから生えた腕が団扇を持ってロビンを扇いでいた。ナミの方にも風をくれているが団扇が一つしかないのであまり効率は良くない。これもこの前の島でロビンが入手したものだ。もっと買っておけば良かったとナミは再びため息をつく。
「あんた、どうせ泳げないじゃない」
「少し浸るだけでも気持ちいいわよ」
 ロビンの笑みを見て段々その気になってくる。とにかく暑い。よし、とナミが立ち上がった瞬間、セミの声が激しく響いてきた。
「わっ…何?」
「セミね」
「何でセミがこんなところに…」
 かなりの音量の鳴き声に思わずナミの声も大きくなる。遠くで聞く分には夏の風情だが間近で鳴かれるとうるさいことこの上ない。
「前の島から付いてきちゃったのかしら」
「冗談じゃないわよ、こんなところで…」
 狭い船の中。暑さが余計に増しそうだ。
「一週間もすれば静かになるんじゃないかしら」
「そのフォローは微妙だわロビン…」
 ナミが呆れた声を返していると突然男部屋の入口が開いた。最初に見えたのは虫取り網。すぐさまそれを持ったルフィが飛び出してくる。
「セミ! セミはどこだ!」
 セミの声を聞きつけて出てきたのか。この暑い中男部屋で何をやっていたのか。
 特に突っ込む気にもなれずナミは黙って声の方角を指した。実際にこの目で見ていない。どこに居るのかはわからないが勝手に探すだろう。
 鳴き声に向かって駆け出すルフィのあとにチョッパーが顔を出した。ルフィの後を追っていくのを見てふと思う。
「そういえばドラムにはセミって居たの?」
 あそこは確か冬島だ。一年のほとんどは雪に覆われているとも聞いた。チョッパーは思った通りその問いに首を振る。
「生きてるのは見たことない。多分ドラムにセミは住めないんだ」
「生きてるのは…ってセミが住んでないのに死骸は見たことあるの?」
「そういえばセミの抜け殻が薬になるって話は聞いたことがあるわ」
 ロビンが口を出す。チョッパーはそれに頷いた。
「ドクトリーヌは使ったことないけど…ドクターがすり潰して飲ませるといいんだって言ってた」
「…私が聞いたのはそういう話じゃなかったけど」
「セミって食えるのか?」
 いつの間にかルフィが戻ってきていた。手元の虫かごには何も入っていない。
「あれ、まだ捕まえてないの?」
 鳴き声は先ほどから定期的に繰り返されている。ルフィはどこにいるかわかんねぇんだ、と言ったあと「なあ、セミって食えるのか?」と繰り返した。
 ナミはロビンに目をやる。
「どうかしら…薬に使うのだから食べられないこともないと思うけど」
「やめとけー。腹壊すぜー」
 間延びした声はウソップだった。ナミとロビンがパラソルの元にいるので階段脇の僅かな日陰にうずくまるようにして座っている。目の前にあるのはいつもの実験用具のようだが。
「ウソップ、食ったことあるのか?」
「あー、あれはまだ10歳ぐらいの頃だったかなー。見たこともない七色に光るセミがいて…」
「嘘でしょ」
 ルフィやチョッパーが反応する前にナミが切り捨てる。ウソップが不満気な顔を向けてきた。
「セミ食ったのはほんとだぜ。ぱさぱさしてるわ苦いわで、結局腹壊して、」
「生で食べたの?」
「何か焼いたら食うとこなくなりそうな気がしてさ」
「わざわざセミ食べようって気持ちがわかんないけどね」
「何だー。まずいのかー。でもよ、サンジが料理したらうめェんじゃねぇか?」
 諦めきれないのかルフィがもう1度ナミに顔を向ける。ナミはさあね、と肩をすくめる。それを見てルフィはすぐさまキッチンにとんでいった。キッチンは現在夕食の準備中だ。前回の島で買った涼しくなる食べ物を、とは言っていたが一度覗いたキッチンでは大きな鍋に湯を沸かしていて熱気が凄かった。なので誰も近づいてなかったのだが…。
「あ」
 ルフィがそこに近づいた瞬間、勢いよく扉が開いた。がつん、と大きな音がしてルフィがその場から後退する。ゴムだからダメージはないだろうが。
「あ? 何やってんだてめェ」
 出てきたサンジはそのまま扉を閉めず目の前の手すりにもたれかかる。いつもの上着を脱ぎ腕をまくった服装だがシャツは汗でぐっしょりと濡れている。
「あー涼しい…」
 キッチンにこもっていたサンジにすればまだ外の方がマシだったのだろう。ほっと息をつきながらもキッチンに入ろうとしていたルフィを蹴り飛ばすことは忘れない。
「そんなに暑ぃならドア開けてやればいいだろ」
 サンジの下からウソップが口を出した。揺れる船の上では開いたままの扉はいつ閉じてしまうかわからないが、キッチンからの持ち運びに便利なように扉のストッパーがウソップの手によって作られている。あまり使われることはないが。
「…開けてると何が入ってくるかわかんねェからな」
 目線はルフィにあった。つまみ食いのことを指しているのだろうか。しかしそれを言うならルフィたちがキッチンに居る中で料理することも多い。サンジの視線はすぐにみかん畑の方に移る。
「やっぱりセミか。さっきからうるせェと思ったら」
「そうだ! サンジ、セミ!」
「ああ?」
 蹴られて沈んでいたルフィががばっと身を起こした。そしていまだ姿の見えぬセミを指し示す。
「あれを料理しろ!」
「…あれ食いたいのかお前」
「サンジくん、セミなんて食べられるの?」
 低い声で呟いていたサンジはナミの声に一気にテンションを上げる。
「あ、ナミさん。もっちろん、おれに料理できないものなんてありませんよ!」
「マジか? じゃおれも一つ…」
「駄目だ! 一匹しか居ないんだぞ!」
 ウソップの声にルフィが胸を張る。
「だからってお前のもんでもねぇだろ! よし、早いもの勝ちでどうだ!」
「負けねぇぞ!」
 ウソップが立ち上がると同時にルフィがみかん畑に乗りあがった。どさくさにみかんを取らないかナミが顔を上げたがサンジが見てるので大丈夫だろう。
「セミ〜。どこだー」
 ウソップと、ついでにチョッパーも上に上がった。食べたいのかどうかは知らないが興味はあるらしい。
「さっきから鳴かなくなってるぞ」
「死んだのかな?」
「何でだよ、まだ何もしてねぇぞ」
「逃げたんじゃねぇか?」
「この大海原のどこに逃げるってんだ」
 この中には必ず居るはずだ!
 ウソップの叫びにルフィたちは真剣な顔をしてセミの居場所を探り出す。その頃になるとさすがにナミも飽きてきた。どうなるにせよ騒音のもとが居なくなるのであればそれでいい。
 しばらくして、再びセミの鳴き声が聞こえてきた。先ほどより声が小さい。
「あっちだ!」
 どうやらいつの間にか船の後部に移動していたらしい。確か後ろにはゾロが居たはずだ。寝ているのか修行をしているのかは定かではないが。
「ゾロー! それ捕まえてくれ!」
「ああ?」
「馬鹿っ、ゾロが捕まえたらゾロのもんだぞ!」
「あっ、そうか。ゾロ、やっぱり捕まえるな!」
 後部でのルフィたちの声が聞こえた瞬間、じじじじじじじ、と今までにない音がした。
「ああーーー!」
 ルフィとウソップの悲痛な叫び。ナミは現場を見ずに大体の状況を理解する。ゾロがセミを捕まえたのだ。あの音はつかまったセミが慌てて出した悲鳴なのだろう。
「何でこんなとこにセミがいんだ?」
 あれだけうるさく鳴いていたのに今まで気付いてなかったのだろうか。声の調子からしておそらく起きたばかりだ。ルフィの静止の声が頭に届く前に反射的に捕まえてしまったのだろう。
「サンジくん」
 ナミはいまだキッチン前にとどまっているサンジを見上げて問いかける。
「サンジくん、セミ料理ってしたことあるの?」
 おれに料理できないものはない、と言ってはいたが。セミを食べるという話は少なくともナミは聞いたことはない。
「いや? でも話には聞いたことあるよ。あっ、ひょっとして食べたかった?」
「…それは遠慮したいわ」
 後半部でテンションをあげたサンジにナミは苦笑いを返す。ロビンは興味あるわね、と小さく呟いたがサンジの耳には届かなかったようだ。いまだにセミの鳴き声は続いている。
「…ただ焼くってのもあるし、ゆでるとかすり潰すとか…」
 あー、でも一匹しか居ないんだよなー。
 考え始めると料理人魂を刺激されたのかサンジがぶつぶつと呟いている。いろいろ試したいのかもしれない。ナミとしてはそんなゲテモノにしか思えない料理は勘弁して欲しいのだが。
 それでも…サンジが作るのなら美味いのだろうか。
 思わずそう考えてしまい、ルフィたちの気持ちも少しはわかるな、とナミは笑った。
「サンジくん、今日のご飯何?」
 セミが結局誰の手に渡るかは興味はない。ナミとしては確実に美味しいものがいい。
 笑顔で答えるサンジを見ながら思考が完全にそちらに行ってくれるといいと思った。


 

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