牛乳
冷蔵庫を開ける。
押し込まれたスーパーの袋をリンは引きずり出した。
みかんやバナナは、冷蔵庫に入れるものではないが。
マスターは買い物をしてくると中身をそのまま冷蔵庫に押し込むことがよくある。この前は財布も一緒によく冷えていた。
冷蔵庫を閉めて中の物を取り出す。みかんは、入ってなかった。
ネギもアイスもない。何だ、と思い再び出したものを中に戻す。ふと、最初に取り出して今最後に手を取ったものを見つめた。
「牛乳……」
飲むと、胸が大きくなるらしい。
そんな歌をうたったことがある。
まあ、アンドロイドである自分たちには関係ない話なのだけど。
冷蔵庫を閉じたあと、リンは手にしたままの牛乳を見つめた。
牛乳は、白い。
フルーツとかコーヒーとかいろいろ種類がある。
乾くと臭い。
飲むと胸が大きくなる。
飲むと背が伸びる。
そんな知識をつらつらと思い出す。全部、歌で得た知識だ。
そういえば。
KAITOが最初にアイスを口にした理由は、アイスの歌を歌ったからだと聞いた。どんなものなのか、知りたくなったらしい。
リンはパックを開く。
経験は、大事だ。
知らないものを歌うのと、知って理解しているものを歌うのと、歌の深みが全然違
う。
リンはきょろきょろと辺りを見回し、食器棚からコップを取り出す。
まあ、一杯ぐらい飲んでみてもいいだろう。
中に注いでコップを傾けた瞬間、突然叫び声が響いた。
「あーーーー! 牛乳!」
ミク。思わず口に含んだ牛乳を噴出しかけて、慌てて飲み込む。思ったよりも大量のそれが一気に体内に入りこんでリンは思わず咳き込んだ。ミクが少し心配気な視線になったが、台所に入ってきたミクはリンではなくテーブルに置かれた牛乳の方に目をやっ
た。
口の端から垂れる牛乳をこっそり拭いつつ、リンはミクに言う。
「脅かさないでよー、こぼすとこだったじゃん」
「だ、だって! リンちゃんが牛乳飲んでるから!」
「牛乳ぐらい飲んだっていいじゃん。私飲んだことなかったし」
リンがもう1度コップを手に取る。置いた勢いで少し当たりにこぼれてしまってい
た。
「でも、それ、私の……」
「え?」
俯き気味に言ったミクに少し驚いて、リンは牛乳とミクを交互に見る。ネギ、ならミクのものだと理解しているし誰も手を出そうとはしないが。
「……ミクちゃんって牛乳好きだった?」
「好きだよ。当たり前じゃん!」
当たり前なのか。
ミクはそれほど牛乳を飲んでるイメージではなかったので意外に思う。そういえば、そもそも誰かが飲んでいるところを見たことがない。リンも今日初めて意識したようなものだ。
考えている内にいつの間にか手の中のコップをミクに取られていた。
「だからこれは私の!」
ミクがそう言い切ってコップの中身を飲み干す。それを見てさすがに少しカチンと来た。
「ミクちゃんがお金出してるわけじゃないでしょー! いいじゃん、ちょっとぐらい飲んだって!」
「駄目ー! リンちゃんが牛乳飲んじゃ駄目ー!」
「だから何でよ! 私だって牛乳の歌うたうんだから!」
まだテーブルの上に置きっぱなしだった牛乳パックを手に取れば、ミクが奪い返そうとしてくる。手を上に上げてみてもミクの方が背が高い。揉みあっている内にパックは手から離れ……
「あ」
「あー!」
床に落ちた。完全に開いていた口から白い液体が広がっていく。
リンが呆然とそれを眺めていると、ミクが慌ててそれを拾う。大半は床に広がったが、まだ少しは残っているようだった。
「……飲むの、それ?」
「飲むよ! 飲めるもん!」
ミクはパックに直接口をつけると中をごくごくと飲み干していく。中身はともかく、パックの口は一度床についたような気がするが。
「ちょっとあんたら何してんのよ!」
妙に感心しながらそんなミクを眺めていると、いつの間に帰ってきたのか、台所入り口で呆然としているMEIKOの姿。リンははっとして床を見下ろす。牛乳にまみれた床。怒っているMEIKO。
「ご、ごめんなさい!」
ようやく今の状況を理解して、とりあえず手近にあったタオルを床に投げつけた。牛乳を飲み干したミクもしばらくして慌て始める。
「服は汚さないようにね」
MEIKOはそれだけ言って台所を後にした。あまり怒られなかったことにほっと息をついて、床にもう1度目を落とす。タオルが牛乳を吸い取っていく。床のゴミが少し混じって浮いている。勿体無いことをしたなぁ、と思ったがミクはそれほど気にしている様子はない。リンが飲もうとしたら止めたのに。
それが少し不満で、リンは掃除の間ミクとは言葉を交さなかった。
「どうせあれだろ。リンに牛乳飲まして自分より胸大きくなったら困るとかそんなんだろ」
「へ……?」
「あー、まあミクらしいっちゃらしいかなぁ」
レンの言葉に目を丸くしているとKAITOが苦笑いで頷いた。思わずMEIKOに目をやると、テレビを見ていたはずのMEIKOもほとんど同時に視線を返してくる。
「まあ、そうなんじゃない? あの子は結構負けず嫌いなとこあるから。……でも他人の努力を邪魔する子じゃないわよねぇ」
「胸に関しちゃ別なんじゃね」
ミクは現在防音室でマスターと共に歌の練習中。自分の番を待っている間に昼間の出来事を語ってみれば、全員ほぼ同じ方向への解釈だった。リンは思わず自分の胸を見下ろす。
「……牛乳飲んだら大きくなるの?」
「さあ」
確かに、そんな歌はあったけれど。所詮迷信というオチが付いてなかっただろうか。いや、そもそもボーカロイドにそれが関係あるのか。
リンが顔を上げると、KAITOはMEIKOを見ていた。
「姉さん、飲んで大きくなった?」
「私は最初っからこのサイズよ。あんたも知ってるでしょうが」
「だよなぁ」
平然と言い放ったMEIKOに、今度は思わずそちらに視線がいく。羨ましい。自分たちはいくら努力しても変わらないかもしれないのに。
「まあ少なくともミクはそう信じてるんだろ。歌でも多いもんな。牛乳飲めとか」
「飲んでも変わらないなら早めに言ってあげるべきだよね」
「そう? 希望を持ってる間の方がむしろ幸せだったりするわよ」
「姉さんが言うと説得力ない」
「胸の話だけじゃないでしょ、そういうのは」
「でも駄目なら駄目って言って欲しいなぁ、私は……。っていうか私最初から諦めてるよ!? ミクちゃん超えようとか思ったわけじゃないのに!」
いきなり手の中の牛乳を取られたことに関しては、やはり思うところがある。憤るリンの肩をレンが軽く叩いた。
「まあまあ。姉としてのプライドを考えてやれよ。あいつだって多分大きくなればお姉ちゃんみたいになるよ、とか無責任に言われて信じちゃってるんだろうしさ」
「あれ、おれそれ言ったことあるような」
「おいこら」
「なるわけないでしょ。なりたいなら手術でもしてもらえばいいのよ」
「ううん、でもミクは胸大きくしようと頑張ってる姿が一番いいと思うな」
「KAITO兄ィ、引いていいか?」
「いや、おれじゃなくてファンがそう望むっていうか」
「お兄ちゃんはさ……お兄ちゃんだけじゃなくて、レンもだけど。男の子は胸の大きい方がいいわけ? 小さくても頑張ってればいいわけ?」
「………」
「………」
KAITOとレンは揃って沈黙した。お互い顔を見合わせて作ったような無表情。リンは自分の胸を抑える。
「私は子どもタイプだから胸が小っちゃいとかあんまり意識しないけどさ。ミク姉がそれが嫌で、頑張ってるんだったら、小っちゃい方がいいとか酷いと思う……」
「ああ……うん」
KAITOが何だか目を泳がせながら頷く。レンもリンの目を見ない。
「だよ…な……。いや、おれは別に胸とかどうでもいいんだけど」
「そうなの?」
「あ? いや、だって、そりゃ巨乳とかすげーって思うけど、小さい胸には別に『小せえな、こいつ』とかいちいち思わないっていうか」
「つまり巨乳には反応するけど貧乳はどうでもいいと」
「待て! KAITO待て! その解釈は何か違う!」
焦ったようなレンの声は何だかおかしくて笑ってしまう。これも、リンがそれほど気にしてはいないからだろうか。確かに、胸が大きいのはいいなぁとは思うのだけど。
「まあミクもね……頑張ってる内は何か言うことないんじゃない? 牛乳ぐらい譲ってあげたらいいわよ。目的もないならあんなものいちいち飲むことないでしょ」
「あれ、姉さん牛乳嫌い?」
「だって臭いじゃない」
「いや、牛乳そのものは臭くないでしょ?」
「……そうなの?」
「うん、臭くなかったしおいしかったよ?」
リンがフォローすると、MEIKOは目をぱちくりさせて言う。
「ええー、でも私が歌った歌では……」
「MEIKO姉も歌知識かよ」
レンが呆れたように言うとMEIKOが唇を尖らせてそっぽ向く。
それ以外で仕入れる機会があまりないのだから仕方ない。
……やっぱり今度牛乳飲もう。
リンはそう決意して、リビングから台所の方に目を向けた。
「マスター」
薄く開けた扉から聞こえてくる声に耳を澄まし、ミクは呟くように背後のマスターに話しかける。
「……手術したら胸大きくなるよね」
マスターは何も言わない。聞こえない振りをしているのかもしれない。
胸は、大きい方がいいのだ。
そうに決まっている。
ミクが歌った歌は、全てそうだったのだから。
女の子は、胸が大きくなるように努力しないといけないのだ。
ミクがぶつぶつ呟いていると後ろでため息が聞こえた。
むっとして振り向くが、マスターはこちらを向いてはいない。
カタカタとパソコンに打ち込んだ文字だけがちらりと見えた。
『貧乳讃歌』
次回曲のタイトルらしい。
………騙されるもんか。
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