重力

 目覚めた瞬間、嫌な浮遊感が体を包んだ。
「え……」
 落下していく。風が下から突き上げる。髪が、服が揺れる。ぐるん、と頭が下を向いた。地面が間近に迫る。
「うわあああああ」
「ぃやああああああ」
 目の前で響いた悲鳴にMEIKOは逆さになった頭を必死で起こす。リンとレン。お互い手を取ったまま、MEIKOより少し後を落下している。
 何が起こった、と考える間もなくMEIKOの体はとん、と軽く着地した。僅かに体が弾んで、気付けば地面に尻を付いた格好で上を見上げている。
「MEIKO姉えええええ」
 リンとレンは同時にMEIKOの目の前に。同じように軽く弾んで、数瞬後には二人して正座のような格好で座り込んでいた。
「え……?」
「あれ……?」
 2人が首を傾げる。落下の衝撃もなく、きょとんとしているとリンが再び大声を上げ た。
「れ、レン! レン! 上!」
「うわあっ」
 ばらばらとファイルが、ソフトが降ってくる。MEIKOも慌てて立ち上がってそれを避けた。リンはうずくまって頭を抱えてしまっている。レンがその側で落ちてくるファイルを弾いていた。
 MEIKOはそれを見ながら辺りを見回す。
「ミクとKAITOは!?」
「え……あれ?」
 リンが僅かに頭を起こした。リンたちと同じフォルダに居るはずのミク。リンが這いずりながらきょろきょろとファイルを探り、自分たちのフォルダを見つけ出す。同時にMEIKOも、自分のフォルダを探していた。開きっぱなしのフォルダからKAITOのマフラーが見える。
「KAITO!」
 他のファイルに埋もれそうなフォルダに必死で手を伸ばし、そのマフラーを手に取る。引っ張ればKAITOの顔が見えてきた。
「……あれ……? 姉さん……?」
 あくびをしながら目をこすり、ぱちぱちと目を瞬かせるKAITO。
「ミク姉、寝てたのかよ!」
 背後でレンの突っ込みが聞こえた。MEIKOは心の中で同じ言葉を叫びながら、何となくKAITOの頭をはたいた。





「で、これは何……?」
 足の踏み場もない地面の中、ファイルの上に腰かけてMEIKOはデスクトップを見渡す。整然と並んでいたファイルやソフトがなくなって、やけに空間が広い。そこにあったものは全てMEIKOたちの足元に散乱していた。
「ウイルス……かなぁ?」
 リンは最後に落ちてきたロードローラーの上で呟く。それを聞いた瞬間全員がウイルスバスターへ目をやったが、相変わらず何の動きもなかった。
「……あいつ、やる気あんのか?」
 レンが知る限り、あのバスターが定期健診以外で動いたことはないからこその発言だろう。しかしそれは単に、ウイルスがこのパソコンに入り込むことが滅多にないというだ けだ。そして今回は、
「……動いてないってことは、ウイルスじゃないのかなぁ」
「また新種とか」
「でも…これ、どうなるの?」
 ミクが足元のファイルを軽く持ち上げた。ふわっと浮いて、また落ちる。このままでは、マスターの作業に支障をきたすのは間違いなかった。
「とりあえずマスター来るまでどうしようもないかな。今何時?」
 KAITOはもっと豪快にファイルを蹴り飛ばしていたが、数個のファイルが浮いて、やはり元に戻った。この状況では時刻の確認も困難だ。KAITOは聞きながらも時計のある場所を探してファイルの中に潜っていく。
「多分まだ昼じゃねぇ? マスター帰ってくるまで…あれ、今日何曜日だっけ…」
「見たら嘆くわね、これは」
「前のときより酷いよねー」
 リンが笑いながら言う。前のとき、とはロードローラーが暴走したときだろうか。ならば、あのときの方が間違いなく酷いはずだが。何せあのときはいくつものファイルが壊れて……。
 そこでMEIKOははっとして自分の体を見下ろした。
「みんな、体に異常はないの? 見た目何ともなくても障害が出てるかも知れないわ」
 MEIKOの言葉にみんな慌てて自分の体を確認する。しかし、見える場所には確かに何もなく、痛みや倦怠感といったものもない。MEIKOは腕を回しながらすっと息を吸い込んだ。
「あーーーーーー!」
 発声練習のように大きな声を出す。続いてド、レ、ミ、と順番に音を追っていく。レンたちも、それに習って声を出し始めた。タイミングよく出される音が気持ちよく重なっていく。
 何となく顔を見合わせると、ミクが指を一本立てた。指が軽くリズムを取る。自然と、5人で歌いだす。5人が一緒に歌ったことのある曲は少ない。一緒に調教は出来ないから5人であわせて歌う機会となると更に少ない。
 機能の確認のために声を出していたのに、いつの間にかそれを忘れて歌に浸って いた。
 音に紛れて、背後で動く何かには気付かなかった。





「あ……」
「マスター!」
 どれくらい時間が経ったのか。唐突に明るくなったデスクトップに、全員が一斉に外を見る。パソコンをつけっぱなしで出かけていたマスターが帰ってきたのだ。スタンバイ状態から回復したパソコン内から、マスターの呆けた顔がよく見える。
「マスターお帰りなさいー!」
 ミクが元気に叫ぶが、マスターは呆然としたままパソコンを見つめている。それはそうだ。MEIKOたちもつい忘れていたが、ファイルも何もかも、デスクトップ上にあったものが下に散乱しているのだ。何か言うべきかとも思ったが、何も言えることはないので、自然5人集まったままマスターの行動を待つ。
 カーソルが動いて、ファイルが一つ持ち上げられた。
「……カーソルには反応するのね」
「じゃあ使えないこともないのかな」
 KAITOがそのファイルを目で追って動いた。それに目ざとく気付いたマスターがKAITOを持ち上げる。起動の合図。
「わっ、と……。ん? 歌うの?」
 唐突に出された指示にKAITOが歌い始める。だが、それも直ぐに終了させられた。KAITOがまたふわりと下に落ちる。
「何やってんだマスター?」
「動くかどうかの確認じゃない?」
 レンの言葉にKAITOが肩を竦める。目に付いたから起動させたのだろう。機能に問題がないのは確認したばかりだった。マスターからの指示も受け取れる。ならばそれほど問題はないかと思ったが、目の前のマスターは頭を抱えてしまっていた。
「……ね、ねぇ、エクスプローラーどこかな!」
 ミクはそんなマスターを見て、おろおろとその辺りを歩き回る。ファイルが散る。
「あー…マスター、まずそれ見るもんね」
「ああ、見つからなくて頭抱えてんのかな?」
「デスクトップに物置き過ぎなんだよねー大体」
 好き勝手に言いながら全員がファイルを漁り始めた。MEIKOも従う。だが山と積まれたファイルの中から、それがなかなか見つからない。
「もー、ショートカットなんかいいじゃない、直接起動すれば!」
「姉さん飽きるの早い」
「飽きてるわけじゃないわよっ!」
 数個のファイルを蹴飛ばしたとき、ミクが見えた。
「あ、ミ……」
 いや、違う。ミクじゃない。ミクと同じ髪形、服装をしているがミクより等身が低く、ぬいぐるみのような体型でネギを持っていて……、
「え……?」
「え、何、この子…」
 それは素早く動くと、またファイルの影に隠れてしまう。そのときばっと、マスターが頭を起こした。
「な、何なになに?」
 ちょうどマスターの方を向いていたリンが驚いて声を上げる。次に出された指示に、慌てて振り向いた。
「今の奴! 捕まえてって!」
「い、今の何だよ? ミク姉?」
「私ここに居るよ!」
「そ、そうじゃなくて何かミク姉みたいな」
「とにかく探そう!」
「えええ、ど、どこ行ったっけ?」
 ミクがファイルを投げ飛ばす。また、落ちてくる。
「ここ居ない、そっちは!」
「この山の中…あ! 居た! って、うわっ」
 KAITOが数個のファイルをまとめて放るが、相手が動いている間にまたファイルが動いて埋もれていく。
「どこ行ったー!」
「お兄ちゃん、こっち…って、あれ、居ない」
「リン、こっちだ! くそ、おれが持ち上げてるからこの隙に……」
「どこよー! 見えない!」
「そっち……っていうかもう、ファイル消せよ! 一旦ゴミ箱にでも入れろ!」
 レンの叫びに一緒に動いていたカーソルが止まった。
「……あ、そうか」
 言葉はKAITOのものだったが、多分マスターも同じことを思ったようだった。





「またマスターの友達なのね?」
「何でもかんでも貰ってくるからこうなるんだよ」
 ほとんどのファイルが消されて、すっきりしたパソコン内で、ミクが小さなミクを抱えている。ゴミ箱だけがちょこんと隅に転がっていた。
「マスターの友達はいたずら好きだなぁ」
「いたずらですませていいのかしら、これ」
 呑気に笑うKAITOにMEIKOがため息をつく。ミクと似た姿に偽装されたソフトは、友人からのプレゼントだったらしい。あの、ファイルが落ちてしまう現象含めて。
「ねえねえ、この子一緒に居てもいいのかな?」
 ミクが不安げにしていると、その腕の中のミクも眉を下げ困ったような顔になる。何だかおかしい。
「……マスター次第ね。今お友達に事情聞いてるみたいだけど」
 友人とのメッセのやり取りを眺めながらMEIKOは言う。ちなみにメッセンジャーも下に落ちている。いまだ、自分たちはデスクトップの上には上がれない。
「自分そっくりの奴なんて居て欲しいのか?」
 レンが茶化すと反応したのはリンだった。
「何それ、私が居るのは嫌だってこと?」
「えっ、あ、いや」
 予想外だったのだろう。レンがあたふたと手を振って笑いが起こる。ちょうど小さなミクが振ったネギが、弁解するレンの頭に当たった。
「こいつ……」
「いじめちゃ駄目だよー。ね、ミクの妹みたいじゃない? この子」
「えー、妹なら私が居るじゃんー」
「そ、そうだけど! リンちゃんだって妹欲しくない? 小さいよ」
「小さけりゃいいのかよ…」
 小さなミクは嬉しそうにネギを振っている。リンが手を伸ばすと更に高速になった。
「っていうか…VOCALOIDじゃあないよね」
 KAITOが苦笑いで呟いている。
「まあ…ロードローラーみたいなもんじゃない?」
 MEIKOも頷きながらその様子を見守る。
「こいつ喋れんの? 名前は?」
「ミクだよ!」
「お前が答えんな! っていうか同じ名前じゃややこしいだろ!」
 メッセのやり取りは気付けば日常会話に移っている。この子の扱いはどうなるのだろうか。
 とりあえず、ミクたちが悲しむことがなければいいのだけれど。


 

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