取り戻せない時間がある

 じじ、と小さな音を立てて少しずつ、少しずつ手の中の青いマフラーが消えていく。切り離されたプログラムは長い間形を保つことが出来ない。両手で持ってみたり、胸に抱いてみたりするが壊れ始めたプログラムの消滅は速い。ミクはそれでも、それが完全に消えるまでずっと見つめていた。
「……なくなっちゃった」
 何もない手のひらを見つめる。顔を上げても、誰も居ない。ただ大量の音楽ファイルが辺りに散らばっていた。兄や姉や、妹や弟が歌ったたくさんの曲。ミクはその内の一つを手元に寄せる。
「……レンくんのだ」
 男の子の歌。昔はこういう曲はミクが歌うことが多かった。目を閉じて、そのファイルを読み込む。一度誰かのもとで作られたファイルは簡単にミクの中で音楽を形作る。
「………ゆめ」
 歌い始める。少し、楽しくなってきた。
 声の響きは何だか悪いけど。誰も聞いていないけど。
 目を閉じたまま歌い続けるミクの耳に何かの音が聞こえて、ミクははっと歌を止めた。
 あれ。何をしてるんだっけ。
 ミクは辺りを見回す。音楽ファイル。そうだ、お兄ちゃんたちの。
 右手を見下ろす。マフラーはもうない。また。
 また、取りに行かなきゃ。
 違う、肝心なのはお兄ちゃんたちだ。マフラーじゃない。
 歌のファイルはここにある。ミクは今歌っていた。いつでも歌える。
 駄目だ。私が歌うんじゃない。
「あれ……?」
 混乱している。ミクは自分の頭を抑えた。
 違う。違う。
 耳に響いてくる音。僅かな地響き。
 ロードローラー。
「…………!」
 その単語が浮かんで漸くミクは混乱を振り切った。
 何で迷ってたんだろう。
「リンちゃん…いるよね」
 最初に捕らえたのはリンだった。リンが居るといえばすぐにレンもついてきた。KAITOは少し、ミクを怪しんでいた。だけどリンたちが居たから、来てくれた。MEIKOははっきりと警戒してたと思う。でも、ちゃんとみんなの元に来てくれた。
 もう1度。やり直せばいい。
 ミクは大量のファイルを残したまま、フォルダから出る。エンジン音は、まだ遠い。手には、リンの歌った音楽ファイル。早く。歌って。私だけのために。
「リンちゃん!」
 叫んだとき、一瞬エンジン音が止まった。そして、こちらに向かってくる。以前ロードローラーに追いかけられたときのことを、ふとミクは思い出していた。暴走するロードローラー。ミクは踏み潰されかけて…そのとき、誰かに抱きしめられてい た。
「ミク姉!」
「ミク!」
 姿が見えてくる。リンと、リンの隣にMEIKOも居た。ミクは嬉しくて満面の笑みで二人に駆け寄る。順番は、どうでもいいのだ。早くみんなを、あの場所へ。
「リンちゃん! お姉ちゃん!」
 二人が、ロードローラーから降りる。ミクはすぐさま自分の後ろを指差した。
「何でみんな居なくなっちゃったの? 早く! あっちだよ!」
 二人の返事は、言葉ではなかった。





「何っ…だ、これ…」
 細く狭い穴を何とか進み、突然開けた場所に出た。そこには、全く同じ形をしたファイルが一面に表示されていた。手近な一つに手を伸ばし、触れる寸前にふと思い出して拳を握る。そのまま右足で思い切り蹴り飛ばした。すっ、とほとんど手応えがないままファイルが消える。次にその隣のファイル、その隣、と試してみても一緒だった。10個ほど試したあと、最初の1個があった場所に再びファイルが生まれているのに気付く。
「何だよ、これー……」
 キリがない。大体これでいいのかもわからない。
 この中に……あるのだろうか。本体が。
 動きを止めるぐらいなら出来る、とMEIKOは言っていた。場合によっては破壊を、とも。
 いくつものファイルを闇雲に蹴り飛ばしながらレンは目を凝らす。何か、不審な動きをするものはないか。だけど全てを見るなんて不可能だ。本当に…いくつあるのかわからない。
 レンはそのときふと思い出した。
 ウイルスは────。





 小さな穴というのは守りやすい。
 動かない穴というのは守りにくい。
 壁を背にしたままKAITOはひたすら襲ってくるウイルスを蹴散らしている。無意識に右手でマフラーに触れていた。動きにはもう支障はない。あのとき自分の方にウイルスが入りこまなかったのは幸いだったと思う。感染経路がどうなっているのかは分からないが。
 KAITOは目の前にあるウイルスを産み続けるファイルを見た。あれを壊せれば早い。時間稼ぎにしかならないとしても。だけど、向かえば間違いなくこの穴にウイルスが入り込む。壊すのも…そう簡単にいくとは思えない。
 数が、多い。
 背の高いKAITOは足元の穴に集中することが難しい。
 KAITOの脇をすり抜けたウイルスを慌てて蹴り飛ばす。体勢が崩れた。狙っていたかのように一斉に飛びかかったウイルスにKAITOは倒れこむ。穴が、むき出しに なる。
「しまっ……」
 ウイルスが向かう。
 何か考えるより早くKAITOは、倒れたまま───





 歌声が、響き始めた。

 レンが歌う、恋の歌。
 KAITOが歌う、別れの歌。
 MEIKOとリンが歌う、正義の歌。

 ウイルスが、さわさわと集まってくる。

 「こっちへ来い」
 全員が、思いをこめて歌った歌。

 ミクは悲鳴を上げた。
「嫌…だっ、嫌…」
 耳を塞ぎたい。塞ぎたくない。
 歌を聴きたい。聴きたくない。
 出ていく。出しちゃ駄目。出したい。
 自分の中に、何かが居る。
 ミクはようやく自覚した。こんなに、こんなにみんなの歌が聞きたいのに。体がそれを拒否している。
 こんなの、嫌だ。



「お前かっ……!」
 最初に途切れたのはレンの歌。
 真っ直ぐに自分に向かってきたファイル。レンは躊躇わずそれに向かって 飛んだ。
 動きを止める、なんて考えなかった。
 潰してやる!
 思いがファイルに突き刺さった。







 流れてくる音楽に耳を澄ます。
 デスクトップの隅っこでミクは歌に合わせて体を揺らす。兄と姉の横顔が見える。ミクは立ち上がると真っ直ぐそこへ駆けていった。
「お兄ちゃん! お姉ちゃん!」
 歌が終わった瞬間を狙って。二人が同時に振り返る。思い切りジャンプすれば、慌てたようにKAITOがやってきて、ミクを受け止めてくれる。
「私も混ぜてー!」
「おい、ミク……」
「マスター! いいでしょー!」
 デスクトップの外に叫ぶ。聞こえてきたため息はMEIKOのものだった。
「全く、最近ちょっと甘えすぎじゃない?」
「えー」
「で、あんたは甘やかしすぎ」
 MEIKOがKAITOのマフラーを引っ張った。KAITOは苦笑いをしてミクから離れる。
 ミクは離れたKAITOに手を伸ばしかけて、すっと視線をずらした。
「え…」
「じゃあお姉ちゃんー!」
「ちょ」
 MEIKOに突撃すれば、勢いが強すぎたか、MEIKOがその場に倒れる。KAITOのフォローも間に合わなかった。立ち上がる気にはなれなくて、そのまま3人で座り込む。
「さっきの歌ね、間奏のとこ! コーラス入れる! あれじゃ寂しい」
「……言うようになったわね、ほんと」
 MEIKOがマスターを見上げた。マスターにも聞こえているだろう。ミクも笑顔を向けてみる。
「……でもやっぱりちょっと幼くなってない?」
 MEIKOの小さな声は、それでもしっかり聞こえてきた。
「……問題なく修復されたって言ってたけどね」
 だけど二人の言葉は聞こえない振りをする。多分大人の話だ。
 そして低いエンジン音に漸くミクは立ち上がる。
「リンちゃんだ!」
「ああ、そういえばロードローラー走らせる専用ファイル貰ったらしいわよ。行ってみたら?」
「うん!」
 その中にあればリンが居なくても暴走はしないらしい。またあんなことがあった場合暴走してくれた方がいいのかもしれないが。
 走っていくミクを見ながらMEIKOがそんなことを思う。
「マスター」
 KAITOとMEIKOも、再び立ち上がる。まだまだ歌は調整途中だ。
 だけど歌の前に、言っておかなければならないことがある。
「いざってとき何も出来ないのなら、せめて対策ぐらいきちんとしてくださ いね」
 不用意なファイルのダウンロード。
 MEIKOの厳しい言葉に、いつもならフォローを入れる立場のKAITOも、真面目な顔で頷いた。
 マスターの情けない顔が二人の目にはっきり映る。
 安易に、考えて欲しくはない。
 家族と過ごした時間は、やり直しなんてきかないのだから。


 

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