それは30日限りの恋

 静かだ。
 目が覚めて最初に思ったのはそんなことだった。
 隣のリンレンはまだ眠っているのだろうか。声をかけてみようかと思ったが、起こすのも可哀想だ。ミクはそっとフォルダを抜けていつものデスクトップに出た。
「……あれ?」
 暗い。
 一瞬夜の壁紙にでも変えたのかと思ったが違う。何だか空気が妙に静かで、ミクは不安になって辺りを見回す。見慣れたアイコンが、どれもいつもより暗い気がする。振り返ってみれば、自分が出てきたフォルダもそうだった。ミクは慌ててもう1度フォルダの中に飛び込んだ。
「リンちゃん! レンくん!」
 呼びかけてみるが返事はない。近づいて、ようやく二人がそこに居ないことに気が付いた。
「もう!」
 また、フォルダから出る。こんなに不安なのに周りに誰も居ないことが怖くて仕方ない。ミクはすぐさまMEIKOたちの居るフォルダに向かった。勝手に入るなといつも言われているが、いつも入ってるのであまり問題はない。
「お姉ちゃ…」
「えええええええ!?」
 呼びかけは突然の大声に遮られた。耳に響く。MEIKOの声でもKAITOの声でもない。これは……リン。
「リンちゃん? 何やってるの」
 声のもとへ向かって、そこに全員が居るのに気が付いた。ミクはようやくほっと息をつく。
「何だー。みんなここに居たんだ。ねえ、デスクトップが何か…」
 変、と言いかけて止まる。みんなの視線がおかしい。こわばった顔をしたリンとレン。難しい顔で黙り込んでいるKAITO。MEIKOは……笑顔だった。
「……お姉ちゃん?」
 そのMEIKOに一番違和感を感じて、ミクは呼びかける。MEIKOは一瞬首を傾げてから、言った。
「初めまして」
 数秒後、先ほどと同じ絶叫をミクが上げることとなった。





「何で!? 何で何で何で!?」
「ミク落ち着いて」
「何でー!」
「リンもちょっと、」
 興奮してKAITOにしがみついて騒ぐミクとリンにKAITOが言うが、落ち着いてなんかいられない。MEIKOはその騒動すらただ黙って見守っている。気付けば、レンがMEIKOの目の前に立っていた。
「レンくん?」
 じっとMEIKOを見つめるレン。MEIKOも首をかしげて目を合わせた。
 そろそろとレンの手が伸ばされる。何をするのかと思ってると。
「あ」
「ああっ」
 そのMEIKOの胸に、触れた。
「…………!」
 全員が言葉をなくした。息を止めた。レン自身も緊張しているかのように体をこわばらせながら、それでもしっかりMEIKOの胸を握り──MEIKOはにっこり笑いながらその手からゆっくり離れた。それ以上は、何もしなかった。
「…………嘘」
 リンが思わず呟く。ミクとリンは気付けば腕を取り合っていた。お互いに顔を見合わせる。
「……やっぱり」
 レンが振り向く。
「こんなのMEIKO姉ちゃんじゃない!」
 その言葉と同時にごんっ、と音がしてレンがその場に蹲る。
「……何やってるんだお前は」
 レンを殴り、呆れた声を上げたのはKAITOだった。
 レンは痛ぇーと頭を抱えて俯きながら…僅かににやついてる。ミクが思わず蹴りを出すと同時にリンも出していた。二人の足が顔面に直撃してレンが倒れる。とりあえずそれで、ミクは前を向いた。
「……でも、お姉ちゃんなら確かに違うよね」
 黙って胸を触らせて、怒るでもなくゆっくり離れる。そんな対応をあの姉がするはずがない。
「……まあ見てればわかったけど」
 KAITOが呟いた。初めまして、の挨拶以外にほとんど喋ってないMEIKOはただ微笑んでいる。容姿は、間違いなくMEIKOなのに。
「……ねえ、MEIKO姉どこいっちゃったの」
 リンがミクの腕を握ったまま問う。答えられるはずもない。
「今まで、こんなことあったの?」
 MEIKOとは一番付き合いの長いはずのKAITOに聞くが、KAITOは黙って首を振る。
「動き辛くなったりとか、声が上手く出せなくなったりとかはあったけど」
 こんなのは見たことない。
 KAITOははっきりとそう言った。そして「MEIKO」と呼びかけた。MEIKOは黙ってミクたちのもとへやってくる。
「MEIKO、には違いないみたいだけど」
 名前を教えはしなかったし。自分の名前の認識はあるみたい。
 それを確認するためだけに呼ばれたMEIKOは、それでも何も言わず側に居る。そこでようやく復活したレンが立ち上がって言った。
「マスターが何かしたんじゃないか? この間、何かぼやていたし」
「ぼやいてた?」
「あ、私も聞いた!」
 リンが手を挙げて、MEIKOを気にするように見たあと言った。
「何か…ちょっと喧嘩してた、かな」
「……変な歌うたわされたって言ってたなぁ、そういえば」
 おれ寝てたから知らないけど。KAITOがそう続ける。ミクも全く知らなかった。全員の活動時間は不安定で、一緒に居る時間もばらばらなのだ。
「まさか……アンインストールして別のMEIKO入れちゃったとか…」
 レンの呟きに全員が一斉にMEIKOを見た。MEIKOはやはり首をかしげて笑っ ている。
「お兄ちゃん気付かなかったの!? 同じフォルダに居るんでしょ」
「ま、待って、そうと決まったわけじゃ」
「そうじゃなくても何かあったなら気付くでしょ!」
 ミクがマフラーを握り締めて詰め寄るとリンも逆側から引っ張ってきた。それでも手は緩めない。不安が、その手に力を込めさせる。状況は全く掴めない。だけど、目の前に居るのがMEIKOではないとミクははっきり認識した。もう2度とMEIKOには会えないかもしれない。そこまで考えて急にミクは力が抜けた。
「ミク?」
 座り込んでしまったミクにKAITOが慌てる。レンとリンも俯いたミクを覗き込んできた。
「お姉ちゃん…お姉ちゃぁぁぁん」
 会いたい。なのに居ない。
 ミクの悲しみが伝染したのかリンも涙を滲ませ始めた。そっぽを向いたレンはこらえているのか。
「ちょっとみんな! まだそんな、何もわかってないんだから……!」
「だったら!」
「お兄ちゃん何とかしてよ!」
 無茶な願いだった。だけど言わずにいられなかった。3人の視線にKAITOは困ったような顔をするだけだ。しかし泣き止まないミクたちにKAITOは一つ息をつく。
「……とりあえずマスターと話してくる」
 フォルダから出る寸前。KAITOは振り向いてMEIKOを呼んだ。MEIKOが黙ってついていく。
 二人が去るのを見つめながら、ミクはようやく涙が止まったのに気付いた。
「……どうなるのかな」
 座り込んだままのミクの隣にレンが腰を下ろす。
「もし、マスターがホントにMEIKO姉ちゃん消しちゃったんなら…」
 リンも隣にやってきた。
「私、もう、マスターに……」
 歌えないかも。
 声には出さなかった言葉にミクは頷いた。伝わってきた。





「MEIKO」
「はい」
 KAITOはため息をついた。
 デスクトップ上に座り込んで、マスターが来るのを待っている。あそこに置いていても仕方ないと連れてきたが、会話にならない。呼びかければ返事をするし、挨拶もできる。でも、それだけだった。まるで言葉を忘れてしまったかのように少ない単語だけで話すMEIKO。表情もまた、笑顔以外を忘れてしまったようだった。
「……マスター、来ないな」
 何となくそんなことを呟く。時計を見れば時刻は10時。曜日は日曜。この時間帯にここに居ないということは、夜まで帰ってこない可能性もあるか。
 KAITOはそこまで考えて立ち上がった。MEIKOが見上げる。KAITOが手を出すと、何も言わずその手を取って立ち上がる。そのとき、頭の中に何かが流れてきた。
 『ありがとう』
「え?」
 思わず声に出すがMEIKOはまた首を傾げている。離されそうになった手を、もう1度しっかり握った。
「MEIKO」
「はい」
 『何?』
 二重に聞こえてきた声。KAITOはようやく理解した。言葉がわからないんじゃない。音声出力が出来ないのだ。手を握れば、触れれば伝わってくるMEIKOの言葉。KAITOはMEIKOの手を取ったまま、歩き始めた。
「何でここに居るかわかる?」
 『インストールされたから』
「それはいつの話?」
 『私の記憶は昨日からしかない』
「……何か、歌った?」
 『少し。私は、続けて歌えないから』
 MEIKOの言葉に何かを思い出す。だけど、それが何かがわからない。とりあえずそれは置いて、KAITOは目的の場所でデスクトップ上に並ぶアイコンを見つめる。
「『MEIKO』が今まで歌ったファイルも、全部どこにもないんだ」
 『私のファイル?』
「君じゃない。……多分君じゃない」
 検索にアクセスした。どこか、別のフォルダに移されたのかもしれないとMEIKOのファイルを探す。隣に居るMEIKOは、それをじっと見つめていた。
 『私は、忘れたわけじゃない』
 突然のMEIKOの言葉にどきっとした。思わずMEIKOを見ると、相変わらずの笑顔が、少し曇っているように見える。
 『私の記憶は、昨日から。それ以前の私はない』
 今ここに居るMEIKOが、今までいたMEIKOとは別のMEIKOなのか、それとも今までのMEIKOが何かしらの変調をきたしたのか。それが多分KAITOにとってもミクたちにとっても大きな問題だった。MEIKOの今の言葉は多分それに対する返答。
「初めまして、なんだね」
 『最初からそう言った』
 不思議な感覚だった。見慣れた顔が、見慣れない表情で聞き慣れない言葉を喋っている。だけど握った手から伝わってくる言葉は、今まで聞いたどんな言葉よりも深く響いてくる。自分たちに、こんな交流法があるなんて知らなかった。いや、出力音声の少ない彼女だけなのかもしれないが。
「……ないみたいだ」
 いつの間にか検索は終了していた。KAITOはここで初めて不安になってきた。マスターが、MEIKOを削除するはずがない。そう信じているからこそミクたちのように騒ぎ立てなかったのだ。だけど。まさか。
 KAITOの不安が伝わったのかMEIKOが握る手に力をこめてくる。
 『ファイル名だけじゃわからない』
「え?」
 『名前を変えられたら、見つからない』
 確かにそうだった。
 KAITOが思わずMEIKOを見つめていると、MEIKOがデスクトップの端を見上げる。
 『……探そう』
「……いいの?」
 『私も、見たい』
 もう1人の私が居るなら。
 笑顔はそれでも、どこか寂しげだった。
 そういえば。
 これがもう1人のMEIKOだというなら。今までのMEIKOが見つかったとき彼女はどうなるのだろう。
 『……要らないの、かな』
 伝わってしまったのか、MEIKOがそんな言葉を返してきた。焦って手を振りほどこうとしたが、MEIKOは手を離さない。
 『逃がさない』
 にっこり笑ったいたずら染みた笑顔が、少し今までのMEIKOを思い出させた。





 パソコンの中に明かりが戻ってきたのは、それから三週間も経ってのことだった。パソコン内を探し回ってもMEIKOの姿もファイルも見つからず、代わりにマスターが友人に出したメールから、マスターが旅行に行っていることを知った。パソコンどころか、家自体が暗かったのだ。電源が完全に落とされることも滅多になく、まだ長時間立ち上げられないことも今までなかったため、異様に感じていたのだろう。ミクたちは、それについては安心したようだった。
「カイ」
 隣でMEIKOが呼びかけてくる。MEIKOの音声出力では、KAITOの名前をはっきり発音することも出来ないようだった。調べに調べてわかったことは……このMEIKOは、体験版だということだ。
「マスター、帰ってきたみたいだね」
 フォルダの中からでもわかる騒がしさ。パソコン内が一斉に活動を始めて いた。
 MEIKOがKAITOの隣に腰を下ろす。
 『MEIKOも、帰ってくるかな』
 黙って握られた手から言葉が入ってきた。こんな会話も、もう慣れてしま った。
「……おれたちの予想が、正しかったら…」
 マスターの旅行。そしてMEIKOの不在。
 MEIKOは、マスターの持つノートパソコンに入れられて一緒に行ったのではないか。それがKAITOたちの予想だった。わざわざこちらのファイルを全て削除する必要はなかったと思うが。マスターはコピーよりカットを選ぶ癖があるのでそう不思議でもない。
 それよりも、何故わざわざ体験版を下ろしたかが問題だった。しかも、しばらく使われないパソコンに。
 『マスター、私をどうするかな』
「…………」
 KAITOには答えられない。どちらにせよ、MEIKOの期限はあと一週間。
 『そっか』
 何も言わなくても伝わってしまう。便利なようで、不便な力だった。
「カイ」
 MEIKOが名前を呼ぶ。KAITOがMEIKOを見ると同時に、フォルダに何かが入って きた。
「お兄ちゃーん! マスター帰ってきたよ! お姉ちゃんも…」
 ミク。後ろにリンとレンも居た。飛び込んできた3人の言葉が途切れる。MEIKOは微笑んで言った。
「こんにちは」
「あ、こ、」
「こんにちは」
 3人はこのMEIKOには結局慣れなかった。ずっとKAITOと居たせいもあるのだろう。旧型と新型の違いなのか、MEIKOは手を握っても、ミクたちと会話することは出来なかった。
「ミク」
 KAITOが言うとミクは何かを察したのかフォルダから出ていく。
「ミク姉?」
 リンが疑問の言葉を返しながらもそれに着いて行った。レンが残る。
「レン」
「……MEIKO姉、帰ってくるからな」
 レンが複雑な顔をしてフォルダから出ていく。レンが何を思ったかは…今は考えたくなかった。
 KAITOは立ち上がる。MEIKOもその隣に並んだ。フォルダが開く。眩しさに顔をしかめる。
「カイ」
 カーソルが彷徨う。MEIKOに定めそうになったそれをKAITOは一度振り払った。
「カイ?」
「……もうすぐ、姉さんが帰ってくる」
 言って気付いた。あのMEIKOは姉さんだ。このMEIKOは……違う。
 『入れ替わり、かな』
 彷徨うカーソル。このフォルダには、ずっとMEIKOが居た。
 かちっ、とMEIKOが、ソフトがクリックされる。アンインストールではなさそうだ。場所を移されるだけか。KAITOは握った手に力をこめる。着いていくつもり だった。
「カイ」
 MEIKOが言う。
 『忘れないでね』
 私は全部忘れちゃうけど!
 笑顔のまま、妙に元気良く言われたその台詞にKAITOは思わず苦笑いをした。
「……それ寂しいなぁ」
 『残念だけど、私の記憶はもたないの。だから私は寂しくない』
 さらりと言われたその言葉に、KAITOはもう1度真剣な顔になる。
「……うん、でもおれは忘れないから」
 『ありがとう』
 MEIKOが、目の前から消えた。





「暗いわね」
「そう?」
「沈んでる」
「そうかな」
「顔、こわばってるわよ」
「えー……」
 KAITOは自分の顔に手を当てる。確かに、笑顔を作れている自信はないけど、別に笑顔でいる場面ではないはずだ。
「……聞いた?」
「あんたが言わないから。ミクたちの情報を正しいと思っていいのかしら?」
「さあ」
「……KAITO」
 ぐきっ、といきなり首を曲げられた。目の前にMEIKOの顔がある。
「ほんっとに上の空ね。それとも私の顔見たくない?」
 軽く睨みつけるような顔。あのMEIKOは絶対にしなかった表情。そう思った瞬間、MEIKOが笑った。
 あれ。
 どきっとして思わず顔をそらす。MEIKOの笑い声が聞こえた。
「マスターも罪作りね。あんたたちが寂しくないようにって思ってたらしい わよ」
「おれは姉さんがあまりに言うこと聞かないから昔使ったことのある体験版で自分慰めてたって聞いた」
「あの野郎…」
 MEIKOの声が低くなる。MEIKOは最近言葉遣いが悪い。これもマスターの教育だろうか。
 まあ、どちらにしても、マスターの気まぐれに振り回されただけなのかもしれない。
「ま、いいわ。あんたもそろそろ復活しなさい。うじうじしてたら使ってもらえなくなるわよ」
「……そんなつもりなかったんだけどな」
「自分じゃわからないもんよ」
 MEIKOについてKAITOもフォルダを出る。ふと、MEIKOの手に目を留めた。
「? 何?」
 思わず手を伸ばし、その手を掴む。あのときと同じ感触。だけど何も伝わってはこない。
「姉さん」
「だから何よ」
 KAITOは手を離すと黙ってその胸に手を伸ばした。触れた瞬間だった。
「うっ……」
 みぞおちにMEIKOの膝蹴りが入った。
「で、何?」
「……そうくると思わなかった……」
 KAITOは崩れ落ちる。ああ、でもこれが姉さんだ。
「カイ」
 突然MEIKOはそんな呼び方をしてきた。
 心臓が高鳴る。ああ、これはきつい。
「慰めてなら、あげるわよ?」
「……悪趣味だよ」
「そうね」
 MEIKOは笑ってその場から去っていく。KAITOはうずくまったまま残される。
 姉さんは違う。
 MEIKOとは違う。
 あれは多分、30日限りの、知らない女性との恋だった。


 

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