発表会前に

 真夜中にふと、部屋の中の気配が動いた。
 ミクは目を閉じたまま誰だろう、とぼんやり考える。開きっぱなしの窓から流れてくる匂いに気付いたとき思わず声を上げそうになった。
「メイ……」
「しっ」
 出かかった声は、隣のKAITOに制される。口を塞がれて苦しい。睨みつけようとしたとき、突如響き渡った歌声に、ミクは動きを止めた。
 ゆっくりと視線を移動する。
 窓に向かって歌うMEIKO。いつものだらしない様子とは違う。月の光を受け、逆光気味の体は影にしか見えないが、背筋を伸ばし、ぴんと指先まで力が入っている姿がよくわかる。震えるようなその声は歓喜に満ちていた。
 MEIKO……。
 声には出さずミクは呟く。
 窓の外から漂ってくるのは酒の匂い。この棟の中で誰かが飲んでいるのか、それとも敷地外からの匂いが風に乗ってやってきたのか。
 それはわからない。それよりもただ、ミクはMEIKOの歌に聞き惚れた。
 初めて聞いたMEIKOの歌は、今までに聞いたどんな歌よりも、素敵だと思った。





「発表会?」
「みたいなもん」
 一週間後に開催されると言われたその行事について問えば、レンは簡潔に肯定だけを返してきた。それ以上続ける気がなさそうだったので、ミクはレンの服を引っ張り続きを促 す。
「発表会って……歌の?」
「他に何やるんだよ」
「いや、だって……いいの?」
「何が? おれたち別に歌うことは制限されてないだろ。というかまあ、忘れないようにってことかな。ここに居ると歌う機会があんまりないし。定期的にそういうとこで他のVOCALOIDの歌聞いて、自分も歌う」
「歌…えるんだ…」
 意識しないまま満面の笑みを浮かべるミクにレンもつられたように笑った。
「練習期間もないし、指導者も居ないから、声出してみるだけって感じだけどな」
「何の歌でもいいの?」
「駄目。曲が被らないよう指定が入る。それが楽譜」
「それ?」
「それ」
 レンが目を向けた先には、床に座り込んで真剣に楽譜を眺めるリンの姿。気付かなかった。いつの間に受け取っていたのか。
 ミクはリンに近寄って後ろからそれを覗き込む。何枚か分けてくれればいいのに、リンは全てを一緒に握りこんでいた。
「何の歌? えーと……」
 首元で声を出してもリンはぴくりとも動かない。ミクの声は聞こえていないようだった。その集中力に、ちょっと意外なものを見たな、と驚く。ここに来てからミクの見ていたリンといえば、率直に言えば「子ども」だった。テンション高く遊んでいるかと思えば直ぐに興味をなくして次の遊びに移る。そうかと思えば同じことを延々と繰り返していたりもする。人見知りは激しく、初めて見たもの会ったものにはおどおどとした態度でレンの後ろに隠れてしまう。
 そういえば、人前で歌えないという話もあった。
 ミクもここに来てから1度も歌っていないためあまり不思議にも思わなかったが。
 そこまで考えてふと、ミクは顔を上げる。
「リンも歌うの? 歌えるの?」
 ずっと2人を見ていたらしいレンは苦笑いを返す。
「さあな。リンはまだ発表会一度も出てないから。MEIKOも。おれとKAITOが一番古いんだ、ここ。おれとKAITOも1回出たきりだけど」
 あのときは大変だった、とレンは今この場には居ないKAITOを思い出してため息を つく。
「何かあったの?」
「……途中で入れ替わりやがった」
「……ああ、人格」
 KAITOの人格は何のきっかけもなく唐突に入れ替わることがある。そして入れ替わった人格は、記憶を共有していないことが多い。
「歌えなくなったの?」
「そうだよ。歌覚えてなかった。しかもよりにもよってKAIKOでさ。涙目で口元に手を当てて『どうしよう』とか呟くんだぜ。内股で。おれがどうしようかと思った」
 レンの言葉には思わず噴出す。大変だったろうとは思うが、状況を想像すると笑い話だ。自分自身もKAITOの変化には痛い目を見ているので仲間が出来たようで少し嬉しいとも思 う。
 そのときちょうど話題の人物が帰ってきた。ノックの音がして、ミクたちは自然ドアから離れる。入ってきたのはKAITOとMEIKO。後ろに、人間の姿が見えた。
 2人が入ったと同時、施錠される部屋。時間帯によって開放されることもある鍵だが、やはり普段の行動の制限は強い。ミクはじっと扉を見つめていたが、MEIKOとKAITOは気にした風もなく部屋の中まで入ってきた。
「お帰り。いいのあった?」
「んー。まあとりあえず取れたのはこれ」
 KAITOが手にしていたのは楽譜。まだあったのか。ミクは思わず立ち上がって覗き込むが、そのときになって「あれ」と呟く。
「……楽譜って共同? 1人1曲?」
「部屋のメンバーで1曲だよ。そんなに時間もないしね。用意された楽譜の中から皆で取り合い。とりあえずリンのとあわせて3部だな。この中から選ぼう」
 どうやら今は普通のKAITOらしい。安心して頷くと、渡された一部を読み始める。出来れば恋の歌がいいと思ったが、それは春を歌った合唱曲だった。
「……春の歌かぁ」
「嫌だった?」
「私、恋の歌が好き」
 あのドキドキの表現には何とも言えない高揚感がある。経験も豊富なつもりだ。だから、得意分野だと自信を持って言える。
「私、これがいい」
 そのとき下の方で声が聞こえた。床に座り込んでいたリンが、楽譜を見終わったのかミクたちを見上げてくる。突然の宣言に戸惑いつつも、ミクはその楽譜を覗き込む。
「何なに? 恋の歌?」
「うん」
「あ、じゃあいいじゃん。どんなの? 私、片思いなら大得意よ」
「胸張って言うことか、それ」
「片思いの歌だよ。凄く好きなんだけど、言えなくて、ごまかして、でもやっぱり言いたくて……うん、凄くよくわかる」
 リンが一人頷く。ミクはそれに不満げな声を漏らした。
「えー。好きなのに言えないって私はわかんないなぁ。何で? そんなに自信ないの? あ、それとも相手に好きな人が居るとか?」
 それなら経験ある、と手を上げたがリンは首を振る。
「多分……恥ずかしい」
「恥ずかしい……」
「相手も多分自分のこと好き、だと思うけど、違うかもしれないし、そうだとしても……恥ずかしい」
「リンは恥ずかしい歌得意だよね」
「KAITO、その言い方やめろ」
 何か別の意味に聞こえるだろ、とのレンの突っ込みにKAITOは首を傾げたあと、驚いたような顔になった。
「あっ、ホントだ。……ごめん」
「真面目に謝るのもどうかと思うけど…」
 突っ込んでるのはレンだけで、リンは気にした様子もなかった。
「で、MEIKOのはどんなの?」
 そこでKAITOが話題を変えるようにMEIKOを向く。MEIKOは立ったままひたすら自分の持つ楽譜を眺めていた。ワンテンポ遅れて、顔を上げる。
「あなたのことは忘れない、って歌」
 KAITOと目を合わせたのは一瞬で、MEIKOはすぐ俯いてぽつりとそう言った。KAITOとレンが言葉に詰まるのがわかる。
「それも恋の歌?」
 ミクが近寄って聞くとMEIKOは首を傾げる。
「さあ…。恋とは書いてない。でも凄く大切な人に向けての歌」
「へー。それもいいなー。っていうか私はそっちの方がいいな」
 大切な人いっぱいいるし!
 そう宣言したミクにレンもKAITOも苦笑いを返してくる。リンのみ座ったままミクを睨みつけてきた。
「いや! 私はこっちがいい!」
「そんな歌リンしか歌えないじゃん! ねー、KAITOだって無理だよね?」
「えっ、あ、ごめんなさい…何の話…?」
「何でKAIKOになってんのよっ!」
 いつの間に。
 KAIKOは入れ替わっても積極的に発言して来ないので話かけるまで気付かないことが多い。状況が読めてないので変わったばかりだろうが。ミクのため息に、KAIKOはおどおどと後退さる。
「あの…ごめんなさい」
「……いや、謝らなくてもいい…から…」
 直視したくない。
 声は高いし、言葉も仕草も完璧に女の子だとは思う。ただ、このでかい図体でやられても、反応に困る。こんな役まで真剣に役作りをこなしたのは凄いと思うが、どちらにせよ笑いものにしかなってないのではないだろうか。それとも体型が隠れる服でも着れば多少はマシなのか。
「今、発表会向けの曲探してんだよ。KAIKOも出てる内に覚えとけよ。…ってもまだ決まってないけど」
 レンは慣れているのか手早く説明をする。KAIKOは大げさに頷いて自分が手にしていた楽譜を眺め始めた。
「あ、それ多分却下」
「そうなの…? 私、これがいいな」
「えー、何か面白くないよー」
「みんなで歌えるじゃない。せっかく5人居るんだし、合唱曲っていいと思うな」
 笑顔で言われて言葉に詰まる。
 言われてみれば、そうかもしれない。
 片思いの歌を5人で一緒に歌ってもおかしな感じになるだろう。
 考えがぐらついてリンとMEIKOを順番に見るが、2人とも手持ちの楽譜に真剣だった。
「……じゃ、多数決にしよっか」
 リンの曲になることはないだろうと思ってそう言うと、レンが頷いた。
「だな。……けど、まあとりあえず全部歌ってみようぜ。どんな歌かって言われても聞いてみないとどうにもならないだろ」
「……まあ、そうね」
 リンもMEIKOも、自分の解釈を述べただけだ。
 聞いてみれば、印象が変わるかもしれない。
 だけど2人は揃って拒絶するように首を振った。
「え……や、やだ。恥ずかしい……」
 さっきまでの強気の視線はどこへやら。リンが俯いてしまう。
 そしてMEIKOは。
「じゃあ、お酒ちょうだい」
 やはりいつものままだった。





「う〜……」
 どれだけ楽譜を眺めても集中が出来ない。こんなことは初めてだった。いつも、新しい楽譜を見るときはわくわくして、どんな歌だろう、どんな風に歌おうと、そのことで頭がいっぱいになってしまうのに。
 ここに来て、VOCALOIDとしての自分は駄目になってしまったんじゃないだろうか。
 唸りながら、それでも何とか楽譜を読もうとしているミクを、寝転がっていたKAITOが不思議そうに見上げてくる。その隣ではMEIKOが寝息を立てていた。結局、酒がないなら歌わないとMEIKOは眠ってしまった。リンもリンで、一人で楽譜を何度も読み、口の中でぶつぶつ呟いたかと思えば「これがいい」とだけ言い残して、やはり部屋の隅に寝転がっている。レンは壁にもたれて目を閉じていたが、寝ているかどうかはわからなかった。
「……何で歌ってくれないの」
 他人の歌を聞きたいと思ったのは、ここに来てからが初めてだった。初めてMEIKOの歌を聴いたとき、ミクは確かに「感動」した。自分にこんな感情があったのかと驚いた。その歌は、お酒がないと聞けないという。匂いだけでもいいようだが、あいにくここではそんなものは手に入らない。
「めいちゃんが?」
 首を傾げるKAITOはいつものKAITOではない。呼び方で気付いたミクは、呆れた顔だけKAITOに向けて、一人呟くように言う。
「聞かせたくない人が居る、って言うなら少しはわかるんだけどな…。お酒がないと歌えないとか、人前で歌えないとか。VOCALOID失格でしょ」
「だからここに入ってるんだろ」
「あ、レン…」
 やはり起きていた。突っ込み気質な彼は、こういうとき口を出さずにいられない。
「みんな何かしら問題があるんだよ。大抵は歌に関する問題。お前みたいに素行不良で入る奴は少ないんだよ」
「何よ素行不良って!」
「KAITOだって、歌の記憶さえ繋がれば別に問題ないんじゃねーの?」
「……ぼく、歌、知ってるよ?」
 たどたどしい喋りのKAITO。多分子どものKAITOだ。レンが以前ショタイトでもコカイトでも適当に呼べと言ってたのを思い出す。
「お前の知ってる歌を、他のKAITOは知らなかったりするんだよ…って、ああ、面倒くせぇ。お前は寝てろ」
 説明を途中で放棄して、レンはひらひらと手を振る。子ども相手なら、そんな言い方はないだろう。案の定KAITOはむっと唇と尖らせて立ち上がる。
「レンのばかっ、あほっ、間抜け!」
 でかい図体で言い放ったのはそんな言葉。
 語彙の制限まで出来てしまうのは凄いなぁ、とミクは逃避気味に考える。レンも引きつったような苦笑いをしていた。
「何ー、うるさいー」
 いつもは物音に全く反応しないMEIKOがそこでごろごろと転がってミクの側までやってくる。手をふらふらさせて、そのままミクの腕を掴んだ。
「……お酒」
「ないよ」
「お酒があれば歌えるの」
「だから、ここにはないって」
「歌わせてください」
「だからー……」
 MEIKOの目が真剣で、ミクは言葉を紡げなくなる。思わず、聞いていた。
「……何で、お酒がないと歌えないの?」
 その言葉にMEIKOは驚いたように目を瞬かせる。そしてKAITOを見上げた。
「私、お酒がないと歌えないよね?」
「……知らないわよ、私は」
 KAITOは女言葉で答えた。ああ、また変わってる。
 強い口調はカマイトの方だ。子どもよりは扱いやすいかもしれないが、いい加減会話が面倒になる。
 ミクは頭を抱えながらもKAITOは無視してMEIKOを見る。
「何で人に聞くの。歌えないのはMEIKOでしょ」
「……私は、お酒があるところで歌うの」
「どういうこと?」
 全くわからない。
 少し苛々してきていると、レンがついにフォローを入れてくれた。この切れ切れの言葉の集まりから、既にレンたちはMEIKOの事情を聞いているらしい。それによると、MEIKOは元々居酒屋で歌うVOCALOIDとして働いていたということだった。店の主人が看板娘のような扱いにするために購入したのだろう。酒を飲み、酒の匂いに囲まれて、MEIKOは歌っていた のだ。
「で、主人が亡くなったんだ……」
「まあ…人間の方が早いのは仕方ないよな」
 店の仕込みを行っている途中倒れて、そのまま帰らぬ人となった。年齢や健康状態からは、いつそうなってもおかしくなかったらしい。だが、その後のことなどは何も考えていなかった。
 MEIKOはそのまま息子に引き取られたが、店は閉められ用途をなくす。
 MEIKOは眠っていることが多くなり、歌わせられないまま一年が過ぎる。やがて親戚に子どもが出来たとき、子守唄を歌わせようとして気付いた。MEIKOは、酒がないと歌わない。
「……それって前の主人にそう教えられてたから…?」
「さあな。MEIKOにとって歌は仕事で、仕事以外の場所で歌うもんじゃないのかもしれないけど。そもそも原因がわからないから、ずっとここに入ってるんじゃねぇの」
 ミクは何となくMEIKOを見た。自分のことが話されているのにMEIKOは無関心に、また眠りに入ろうとしている。その手がミクの持っていた楽譜にかかっていて、ふと思い出し た。
 「あなたのことは忘れない」
 MEIKOの選んだのは、そういう歌。死んでしまった主人に、操を立てているのだろうか。酒とセットになっているときは、主人への手向け。ならば、これは、MEIKOの歌だ。
「ねえ、レン」
「ん?」
「歌、やっぱ合唱曲でいいよね」
「……リンとMEIKOは反対するな」
「私もいやぁよ、そんなのつまんない」
「KAITOは黙ってて」
 まだ戻ってなかった。
「……リンとMEIKOには、普通に歌ってもらって、発表会では合唱曲」
「……それでも、リンは無理じゃないかな」
「……最悪、口だけ動かして歌ってる振りでもいいからって」
「それしかないかな…。ま、恥じらいのなくなったリンなんてリンじゃないしな」
「あれ、レン、ひょっとしてリンはあのままの方がいいと思ってるの?」
 VOCALOIDとして駄目じゃない?
 そう言うとレンはうろたえたように目を泳がせて、「そ、そうだな」と小さく答 えた。
 ミクは首を傾げる。
「ま、とりあえず話は明日だな。KAITO、どうせだから合唱曲覚えとけ、途中でお前に変わるかもしんないしな」
「何よ、相変わらず生意気な言い方するわね。……これ歌うのね?」
 言いながら楽譜を取り上げたKAITOはそのままアカペラで小さく歌う。
 ソプラノパートを。
『そこじゃない!』
 レンとミクの突っ込みがハモった。
 リンとMEIKOもそうだが…KAITOに歌わせるのも一苦労なんじゃないの、これ?
 改めて自分のチームの無秩序さを思い知った。


 

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