思い3
「お姉ちゃーん、髪、からまったー」
「何ー? 何やってるのよミク」
ミクが右手を後ろにやったままばたばたと駆けて来る。袖のボタンに髪がからまってしまったらしい。朝、寝ぼけ眼で着替えをするミクはたまにこういうことがあった。
台所でミクの髪を丁寧にといてやっていると、KAITOが入ってくる。廊下に居たのは気付いていた。ずっと、入るタイミングを窺っていたのだろう。
そのまま冷蔵庫に向かいアイスを取り出す。これが、KAITOの朝食らしい。気付けば毎朝のように食べていた。KAITOがアイスを好むという話は聞いていたので最初から大量に用意はしてあったが、そろそろ底が尽きそうだ。
「あれ? 姉さん、スプーンは?」
「あ、ごめん、全部洗っちゃったかも。そっちの棚の、出していいわよ」
棚を指すと、素直に背を向けて漁り始めた。
あの夜以来、KAITOはMEIKOを姉さんと呼ぶようになった。元々ここにいるVOCALOIDは家族だ。それでいい。僅か一日限りの名前呼びがなくなったことは、誰も気にはしなかった。今はもう、その呼び名に慣れている。
「はい、出来たわよ」
「ありがとうーお姉ちゃん」
ミクと同時にKAITOも部屋を出て行く。
KAITOがスプーンを見つけるまで少し時間稼ぎをした。多分、正しかったと思う。
KAITOは、決してMEIKOと2人きりになろうとはしない。
みんな、理解してしまっているのだ。マスターの暴走の原因が何なのか。KAITOが来たことではっきりと。
MEIKO自身も自覚して、あれ以来大きなトラブルはない。
マスター自身から「そういった用件」で呼ばれることもなかった。
マスターが後悔しているのか、それともあれでひとまず満足したのか。それはわからない。マスターはあの後一日部屋に閉じこもっていて、その後はいつも通りの姿を見
せた。
マスターが自分で自分を傷つけたりしないよう、MEIKOとKAITO交代で見張っていたが、それは杞憂だったようだ。
KAITO……。
あの日、明け方近くになってMEIKOが部屋を出たとき、KAITOは廊下に立っていた。一晩中居たのか、とは聞けなかった。多分そうなのだ。MEIKOはKAITOの顔が見れなくて、一言終わった、としか言えなかった。あのとき、きちんと会話をかわしていたかった。
おそらくもう、2人きりになることは、ない。
「MEIKO」
はっと顔を上げるといつの間にか台所にマスターの姿があった。マスターは黙って席に座る。きちんとした食事を必要とするのは人間であるマスターだけなので、MEIKOが作った料理は一人分だ。朝食は食べないことの多いマスターだが、いつでも出せるよう準備はしている。
これは、特にそう言われたわけではなかったか。
食事を出し、マスターが食べる姿をじっと見つめながら考える。
初めてこの家に来たとき、自ら買ったにも関わらずMEIKOに対して戸惑いを見せていた。どう扱っていいかわからない──おそらく、そういう様子だった。
自分はそのときどうしただろう。そうだ、歌をうたった。
そのときのマスターの顔は今でもはっきり覚えている。
驚きと喜びと、どこか熱に浮かされたような興奮した表情。その感情の名はわからない。だけど自分がそれを与えたことがこの上もなく嬉しかったことも、MEIKOははっきりと覚えている。
そのとき、恋に落ちたと言えるのだろう。
人との交流を避け、友達らしい友達も作らず、親とすら必要最低限の会話しかし
ない。
その原因が何であったのか、今では思い出せない。原因があったのかどうかもわからない。
ただ、人間が嫌いだった。
それさえわかっていれば良かった。
アンドロイドは人間ではない。
だけど、何が違ったのだろう。MEIKOたちと接することに不安はなかった。現に生まれて初めて「楽しい」という感覚を持って過ごしていたと思う。ただ、感情が揺れることは多くなった。暴れる、物を壊す、そんな経験はアンドロイドを買うまで一度もなかったのだ。
そしてそれが、自分が人を避けてきた原因なのかとも思った。
アンドロイドは死なない。怪我は全て完璧に修理できる。取り返しの付かないことなどない。
───これだ。
自分の言動が、誰かに取り返しの付かない傷を負わせることが怖かった。自分の言動が、拒絶されることが怖かった。
これに気付いたのは、あの夜。全てが終わって目覚めた後だった。MEIKOの姿は既になく、それには少しほっとした。何と言っていいかわからない。どんな顔をしていいかもわからない。
ただ。
もう取り返しがつかないのだと思った。
なかったことには出来ない。
じゃあこれから自分はどうすればいい。
丸一日考えても答えは出ず、罪悪感を持ちつつも、MEIKOの顔が見たくて階下に下りた。
どことなく、気を遣うように見てくる視線。自分を避ける行動は、KAITOが一番顕著だった。
やはり、取り返しがつかないのだと思った。
「お兄ちゃんー!」
「姉ちゃん! 姉ちゃん、どこだよ!」
がちゃがちゃと扉を開けて回る音にMEIKOは驚いて家の中へ向かう。庭で草花の手入れをしているところだった。
「リン、レン、どうしたの」
「あ、お姉ちゃん!」
リンがKAITOの手を引いてやってくる。それより先にレンがMEIKOの目の前まで駆けて来た。
「これ! ミク姉が」
「何……」
レンが差し出したのは何かの紙の切れ端。広告か。
裏側に何やら鉛筆で文字が書いてある。レンの手からをそれをもぎとり、MEIKOは内容を読む。いつの間にかKAITOも上からそれを覗き込んでいた。
『マスター外出る 追いかける ミク』
慌てたような殴り書きだが、確かにミクの字。MEIKOは思わずレンに目をやった。問われていることに気付いたのか、レンが一呼吸して声を抑えて話す。
「……起きたら、ミク姉居なくて。姉ちゃんのとこ帰ってるのかと思ったけど、誰も居なかったし。で、探してたら廊下にそれが落ちてて……」
昨日ミクはリンとレンの部屋に泊まった。ゲームをやっていたり話したいことがあったりした日は、珍しいことでもない。起きる時間はみんなまちまちだ。マスターも、夜更かしが多いため特に起こそうとはしない。起きたときに、食事を出せるようにしているだけだ。
「……買い物、ってわけじゃないわよね」
「だって、夜だろ、これ! マスター、買い物だって、ネットだし」
「マスターが行く場所に心当たりはないの?」
そこでKAITOが口を挟む。まだやってきて日が浅い──おまけにマスターを避けているKAITOにはわからないだろう。いや、MEIKOたちにだってわからない。簡単な買い物でさえ、マスターはネットか、MEIKOたちを頼る。家を出ることすら滅多になかったのだ。
「……どうしよう」
泣きそうな声はリンのものだった。いつの間にか紙はリンの手に渡っている。
「マスター…最近、おかしかったし。…ミク姉いるから大丈夫だよね? 帰ってくるよね?」
リンは自分の不安の原因が何かはわかっていない。ただ漠然と、帰って来ないかもしれないと感じている。
そんなはずはない。
もしMEIKOたちと暮らしているのが嫌になったのなら、MEIKOたちを追い出せばすむことだ。
「……そんな単純じゃないか」
「え?」
「手分けして探しましょう。一人にしとくわけにいかないし、もう昼近いのよ。リン、あなたは留守番。ミクから連絡ないか待ってて」
「うん!」
それからばたばたとリンは電話のあるリビングへと入って行った。自分たちには準備はない。ただお互い無言で玄関へ向かい、外へと出る。KAITOがぼそりと呟いた。
「……何で追ったんだろ」
「え?」
「ミクは、マスターを止めないで後をつけたんだよね」
何でだろ。
「…………」
KAITOの言葉にMEIKOは答えられない。考えられる理由はいくつかあるけれど、どれも確信はない。
「姉ちゃん、おれこっち行く!」
「あ、私も行くわ、KAITOそっちお願い」
言って走り出そうとしたとき、突然腕を捕まれた。驚いていると、向こうも驚いたのか、慌てたように手を離す。
「……KAITO?」
「あ、ごめん、今しか言えないかもしれないから。あの…あのとき、ごめん、おれ
何も、」
「待って」
早口に伝えようとするKAITOの言葉を遮る。
何も出来なかった。
それはKAITOが言う言葉じゃない。
謝らせる行為でも、全くない。
「お願いだから気にしないで。そんなことじゃないの、あなたが謝ることは何もな
いの。むしろ、私の…私たちの方がごめんなさい。あんな、」
ああ、駄目だ。慌てていると全く言葉にならない。何で言葉を用意しておかなかったのだ。KAITOと2人きりになることはないと、諦めきっていたのか。
「……避けられる方が、辛いから」
何とか搾り出した言葉を口にした途端、前方からMEIKOを呼ぶ声が聞こえた。レン
だ。
向かいかけて、また立ち止まる。駄目だ、ここで切ってしまったら誤解されるかもしれない。
更に言葉を重ねようとしたとき、KAITOが言った。
「わかった」
「え?」
「……ごめん。ありがとう。だから、おれのことも」
気にしないで。
KAITOはそう言って少し微笑むと、くるりと背を向けて走り出してしまった。
「KAITO……?」
呆然とそれを見ながら、何故か、心が少し軽くなったのを感じる。
「姉ちゃん? もう行くぜ!」
レンの言葉に慌てて振り向く。走り出したレンを追ってMEIKOも足を速める。ちらりと後ろを見ると、既にKAITOの背も遠くなっていた。
私たちは、どうしたらいいのだろう。
マスターに、何を言えばいいのだろう。
「……姉ちゃん?」
MEIKOの足がまた止まった。
ミクも迷ったのだろう。
ただひたすらマスターの都合に合わせて。マスターのやりたいようにやらせて。
それがアンドロイドの本分だけど。
本当に、それでいいのか?
「おれ、先行くよ!」
答えないMEIKOに痺れを切らしたのか、レンはまた走り出した。
その後姿をMEIKOはじっと見つめる。
考えなければならない。判断しなければならない。
私たちには、その機能が備わっているのだから。
「マスター、駄目ー!」
「はっ? うわっ!」
同時刻、川の側で行われたそれは、とてもお約束の光景だった。
「……お前、いつから居たんだ!」
「マスターが……家出てったときから……」
無闇に歩き回り、本屋が開くのを待ってそこに飛び込み、立ち読みをして、またふらふら歩いていたその全てを、ミクに見られていた。頭痛がして思わず頭を押さえる。
飛び出してきた理由は聞かずともわかる。川をぼんやり眺め始めた姿に、自殺を連想したのだろう。そんなに深い川でも、流れの速い川でもないのに。
目の前で心配げに見上げてくるミクから目を逸らしながら、「あ、そう」と小さな言葉だけ返す。
「マスター、あの、ね」
「何だよ」
「私たち、家族だよね。家族だから。みんな心配してるし、マスター居ないと私たち何も出来ないし」
「出来るだろ。おれなんか居なくたって。普通に家族やってるだろ」
むしろ自分が邪魔者だ。
ただ一人の人間。食事を取るのは自分一人。風呂もトイレも、アンドロイドは使用しない。違いは至るところで見せ付けられる。
KAITOがくるまで、そんなこと考えもしなかったのに。
「……男手って言うならKAITOがいるしな。おれはマスター、であいつは兄ちゃんなんだろ」
家族だなどと言われて納得できるはずがない。
ミクが一瞬悲しそうな顔をしたが見なかった振りをした。
しばらくの沈黙。
「マスターね、お姉ちゃん好き?」
俯いていたミクが唐突に言ったのはそんなことだった。思わず驚きの声だけがも
れる。
ばれてなかったとは思わない。MEIKOが直接言わずとも、自分のKAITOに対する罵倒は覚えている。ミクもリンもレンも、あれを聞いていた。
今度は、自分が俯く番だった。
「……あれは、アンドロイドだろ」
「うん」
「好きとか可愛いってのは、そりゃあっても、おれは……」
言葉が続かなかった。
否定したくないのだと気付いた。自分の思いを。
「……ミク」
「……はい」
「……MEIKOを……いや」
いい、と言いかけたとき、見慣れた姿をミクの背後に見た。全力で駆けていたのか、髪が乱れている。必死の表情が、目が合って少し和らいだ。
「お姉ちゃん!」
ミクも気付いて振り返る。駆け寄ってきたミクにMEIKOは軽く頭に手を置いて、何かを囁いた。自分には聞こえない音。ミクは頷いて、その場から去っていく。
先ほどミクに頼もうとしたこと。
MEIKOと2人きりの時間。
唐突に出来上がってしまった。
まだ、心の準備が出来てない。
「……マスター」
「……何だ」
「……話があるの」
真剣な表情に一瞬目を逸らしそうになる。だけど、しっかり前を向いた。
向き合うことに決めたから。
話があると言いながら、MEIKOは長い間沈黙したままだった。2人並んだまま、目も合わせず、やがて緊張感が途切れだらだらと余計なことを考え出す。
話。
MEIKOから自分にされる話とは何だ。
「マスター」
漸く口を開いたMEIKOに、一瞬びくっと体が震えた。自分は、恐れている。
「私、マスターが好きよ」
「は……」
口を開いたまま固まった。予想外の言葉に目をぱちくりと瞬かせる。MEIKOはそんな表情を見つめてにっこりと笑う。
「マスターが望むなら、何でも叶えたい。あなたがしたいことなら何でもさせてあげたい。でもね」
MEIKOの目は真っ直ぐで、逸らすことも忘れてただその瞳に見入る。どくどくと心臓が音を立てる。自分はまだ、恐れている。
「それがあなたのためにならないことなら、やらない。やりたくないの」
言った後、MEIKOが一つ息を吐く。自分は反応できなかった。MEIKOの言葉の意味を考える。
おれが、望むこと。
おれのためにはならないこと。
MEIKOは一瞬目を伏せると、突然右手を大きく振りかぶった。それが自分の頬に向かって振り下ろされるのを見ても、全く反応できなかった。
ぱちん、という小気味良い音で、少し我に返る。
「マスター」
「……ごめん」
呆然としたまま、自然と口をついて出たのは、謝罪。
「マスター」
「ごめん、MEIKOごめん。おれ、お前が好きなんだ。初めに、歌をきいたときから多分ずっと。どうしていいかわかんなかった。苛々して、苦しくて、それが何でかわかんなくて、KAITOが来てせっかく気付いたのに、間違えた。あんなこと、が、したかったわけじゃないんだ。ごめん……」
ごめん、ごめんと必死で繰り返す。涙がにじんできたが、泣いちゃいけないと言い聞かせる。MEIKOが力を抜いた気配がした。
「MEIKO……」
見上げると、微笑むMEIKOの姿。
ふっと、心が軽くなる。
「わかってるわよ」
もういいわ、と優しい声でMEIKOは言う。
ああ、MEIKOはおれを許しに来たんだと、それで気付いた。自己嫌悪と罪悪感でどうしようもなくなって、消えてしまいたいとすら思ってた自分を。おそらく、その気持ちを止めるために。
情けなくて、結局涙が出た。そういえば泣いたのも子どものとき以来じゃないだろうか。MEIKOたちと暮らし始めて、自分は驚くほど色々な感情を経験している。
「マスター」
MEIKOが少し離れて、右手を出す。おずおずと握るとそのまま引っ張られ、引きずられるように歩き出す。
「KAITOにも謝りなさいよ」
「……ああ」
「ミクもリンもレンも。心配してるわ」
「ああ」
「私たち、家族なのよ。あなたがそう望まなくても、私たちはそうしたい。誰かが特別なんじゃない、みんなが大切なの」
「ああ。……いや、おれも、そうしたい」
今、振られたのかな、と思うが深くは考えなかった。
最初から、やり直そう。
今日の朝、本屋で立ち読みした本をふと思い出す。
人間とアンドロイドの恋なんて、珍しいものじゃない。人間同士と、大して変わりもしない。思いを持ったからといって、応えてくれるとは限らない。
苦しい、けど、どこか心地良い。
人と触れ合うことも、きっと悪くないと思う。
「MEIKO」
「ん?」
「歌ってくれ」
頼めば、MEIKOは笑顔で歌い始めた。
それに、自分も自然と笑みが浮かぶ。
帰ったらどんな顔をしてみんなに会えばいいのだろう。
少し不安になったけれど、にやけだした顔はおさえられそうもなかった。
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