知らないこと

「リンちゃーん、レンくーん」
 ミクの声が響く。雑多に積み上げられた衣装や小道具の中に紛れて隠れたリンとレンは、その声が聞こえなくなるまでぴくりとも動かなかった。VOCALOIDの敏感な聴覚は、ちょっとした衣擦れの音さえ聞き取ってしまう。自然、止めていた呼吸も、ミクが去ったあとに大きく吐き出す。静かになった空間で、リンとレンは顔を見合わせた。
「……行った?」
「行っただろ」
 それでも小声で声を交わす。にっ、と笑ったレンに、リンも思わず笑顔になった。
「よし、じゃあ行こう!」
 ごそごそと衣装の隙間から抜け出す。子ども型と言ってもそれなりのサイズはある。ごちゃごちゃしたスタジオは、隠れるのには持って来いだったけれ ど。
「待て待て、そっちに行ったら見付かるだろ」
 ようやく抜け出したリンのズボンをレンが引っ張る。上半身から倒れこみそうになって、リンは慌てて手をついた。振り向けばレンが呆れた顔でこちらを見ている。
「何よー、こっち以外出るとこないでしょ」
「窓があんだろ。何のためにこれ用意したと思ってんだよ」
 そう言ってレンが取り出したのはロープ。
 何のためにもなにも、そんなものを用意しているなんて知らなかった。感心しつつ、リンはレンに従って窓の方へ向かう。一応ちらちらと後ろを気にしてみたが、こういうとき視覚より頼りになる聴覚には特に何も響いて来ない。
 2人は収録を抜け出して兄姉やスタッフから逃れるようにここまで来ていた。最近生み出されたばかりの2人は、デビュー直後ということもあってかやたらにスケジュールが詰まっている。休む間もなく仕事、仕事。
 歌の仕事は楽しいが、外の世界だってもっと見たい。ほとんど相談もなく一致した2人の意見は、MEIKOとKAITOの付き添いがない今日、現場から抜け出すことだった。
「……ミク姉、怒られるかな?」
「……怒られるかもな」
 後で謝ればいいだろ、とレンは気楽に言ってリンも一応頷く。
 心配するMEIKOたちに対し、ミク一人でもリンたちの面倒は見れる、とミクは張り切っていた。それを裏切ることになるのだからやっぱり罪悪感は強い。何より先ほどのミクの声は、怒りでなく不安。自分が怒られることに対してなんかじゃないだろう。間違いなく、自分たちを心配している。
「後でネギ買っとこうぜ」
「……うん。山盛りね!」
 するするとロープを降りながらそんな会話をする。
 結局、最後には許してもらえるだろうという思いもあったから。





「君たちいくつ? 小学生?」
「14歳だよっ!」
「じゃあ中学生でしょ。学校はどうしたの」
「行ってない」
「行かなきゃ駄目でしょ、こんなところで、」
 大人の言葉は無視して駆け出す。
 ようやく出てきた外の世界、だけど、中学生年齢のリンたちが歩き回るには少々不都合な時間帯だったようだ。髪を隠し、リンたちであることがばれないようにはしているが、そうなると学校に行ってないことへの言い訳が効かない。
 面倒なので、問いかけてくる大人が居れば逃げ出すことにした。
「あーもう、買い物も出来ないじゃん」
「っていうか馬鹿正直に答えんなよ。年齢言わなきゃいいだろ」
「だって小学生とか言われたんだよ! 大体、どう頑張ったって高校卒業ってのは無理だし」
「中卒で働いてる人間だって居るんだから大丈夫だろ。次からは16な。高校は行ってませんって言え」
「えー通じるかなー」
「押し切れ。演じろ」
「無茶ばっかり」
 ぶつぶつ言いながら歩いていると突然レンが立ち止まる。リンの行く手を遮るように右手を突き出され、文句を言いかけた口も塞がれた。
「な、」
 口を塞がれていても声は出せる。だけど、出すなという合図なのは確かだ。リンが睨むようにレンを見ると、レンは顎だけで前を示す。レンの視線の先に目をやって、また声を上げそうになった。
 KAITOが、歩いている。
 きょろきょろ心配げに辺りを見回しているのは、間違いなく自分たちを探しているのだろう。2人は顔を見合わせて、そろそろと目立たないように動く。ゆっくりと、薄暗い路地裏の方に入って行った。
「……今の」
「まだ喋んな」
 早口でレンが言う。人の行き来の激しい通りだが、レンたちの声なら聞き分けられる可能性はある。リンが頷いて、2人はしばらく無言で歩き始めた。
 KAITOはいつものマフラーにコート姿で、髪さえ隠しておらず、長身でもあるため目立つ。気を付けていればこちらが先に見つけられることはないだろう。
「……ミク姉、直ぐに連絡しちゃったのかな」
 そろそろいいかとリンは呟く。それでも、直ぐ側の人間すら聞こえない小声で。
「だろうな。もうちょっと1人で粘るかと思ったんだけどなー」
 それはリンとレンが、お互い自分なら、で考えてしまったからだろう。一人で見れると大見得切った以上、意地とプライドが邪魔をしてなかなか助けを求められない。ミクは多分、プライドなんかより双子への心配が勝っている。そう思うと益々罪悪感が募る。
「……帰る?」
「……何しに来たんだよ」
 レンも同じことは考えたのか、多少突っ込みが弱い。
 とりあえずネギだけでも手に入れるべきだろうかと思っていたとき、目の前に数人の男たちが座り込んでいるのが目に入った。
「あ……」
 思わず声を上げてしまい、慌てて自分の口を押さえる。だがもう遅い。
 男たちが気付いたようにリンたちを見てきた。路地裏にたむろする、明らかに柄の悪い男たち。2人ほど立ち上がって近づいてくる。
「……レン」
 どうする、と言うつもりでレンの手を握る。だがその行為に、何故か笑いが上がった。
「君ら中学生ー? こんな時間に何してんの」
 そう問われたら逃げる。
 そう決めていたはずなのに、リンは動けなかった。
 予想外だったというのもあるが。
「デート中悪いんだけどさぁ、ちょっとお金貸してよ」
 かつあげ。
 笑うでも威嚇するでもなく、面倒臭そうに言ってくる。レンにぐいっと腕を引かれて、逃げるのだと思った瞬間、別方向から力が来た。
「ちょっと……」
「持ってない? いいよ、彼氏に取りに行かせて」
 体ごと抱きこまれてしまった。レンの腕が離れる。後ろから「さらえ、さらえ」と囃し立てる声が聞こえた。
「……離せよ」
 レンがぼそっと男たちに言う。怒りを抑えてるのが見てわかり、リンは思わず体を竦ませる。だけど男は次の瞬間、突然レンを殴り飛ばした。
「レンっ!」
「っ……」
 踏みとどまれなかったレンが倒れる。かなりの勢いだった。地面を滑るように転がって、レンの動きが一瞬止まった。
「いいから持って来い」
 男の声と共にリンが後ろに引きずられていく。慌てて抵抗したが、振りほどけない。倒れたレンと、自分を掴む男の腕に初めて恐怖を感じた。
「お……」
 リンは空気をいっぱいに吸い込み、震えように声を出す。
「お兄ちゃぁああああん!」
 まだ、近くに居るはず。
 リンの絶叫に男の腕は緩まった。周りの男たちも耳を押さえる。その隙に何とかリンはそこから滑り出し、レンの元に駆けつける。レンはようやく体を起こしたところだった。
「だいっ、大丈夫っ!?」
 慌てて口も回らない。レンが立ち上がったと同時、道の先にKAITOの姿が見えた。
「お兄ちゃん!」
 険しかったKAITOの顔が、リンたちを見て一瞬緩む。男たちもようやく立ち直ったところで、KAITOと対峙する形になる。
「……何やってんの」
「……ごめんなさい」
 勝手に抜け出したことへの謝罪だったがKAITOはそれには答えなかった。そして小さく、逃げて、と呟く。
「え」
「リン」
 気付けばレンに引かれて走り出していた。KAITOの姿が遠ざかる。リンは足がもつれそうになりながらも必死でレンについていく。聴覚を研ぎ澄ませれば、男たちとKAITOの会話も聞こえる。
「レンっ! レン、お兄ちゃん、殴られてるよ!」
「わかってる!」
 叫ぶように言うが、レンは止まらなかった。
 人ごみに紛れて少しずつスピードが落ちる。握ってくるレンの手が震えている。それは多分、怒りだった。





「ま、特に何ともなってはないわね」
「だから大丈夫だってば」
 KAITOの顔を押さえてまじまじと見ていたMEIKOがようやく体を離す。KAITOは小さくため息をつきながら軽く首を動かしていた。殴られた、とは言っても人間の力でKAITOたちを傷つけるのは不可能だ。むしろ相手の拳が心配だったぐらいだ。勿論、武器でも出されたら抵抗しないわけにはいかないが。
「相手は? 何ともなかった?」
「さあね。おれ殴って痛そうだったけど、堪えてたから大丈夫じゃない」
 本当は、かなりの勢いだったので骨にヒビくらい入っていてもおかしくはないと思った。だけど、言わない。もしそうだとしても自業自得だと思うから。
 KAITOの冷たい口調である程度わかったのか、MEIKOが苦笑いでそう、と軽く返す。そして軽く2階を見上げた。
「……あの子らは?」
「反省会」
 KAITOがようやくそこで笑いを漏らす。見るからに落ち込んでいた3人は、一度だけKAITOの様子を見たあと、部屋に閉じこもってしまった。3人一緒に居るようなので、まずは双子がミクに謝るところからだろう。そしておそらく、3人がこちらに来る。ミクの場合は、ちゃんと双子を見れなかったことの謝罪。まあKAITOたちも、2人があそこまでやんちゃだとは思っていなかった。ミクに責任があるとは言えないが。
「何て言えばいいかな」
「何が?」
「抜け出してごめんなさい、ってくるかな」
「そりゃまあミクには言うだろうけど」
 MEIKOがまた2階を見た。小さな声で喋っているのか、耳を澄ませてみても何も聞こえない。もしかしたら、言葉もなくお互い沈黙してしまっているのかもしれない。
「レンは殴りに来るかもね」
「は!? 何で」
 驚いて勢い良く体を起こすが、MEIKOはそれにも微笑むだけだった。
「だって、怒ってたわよ? 多分」
「えええ、おれ怒られるようなことしたっけ」
「まあ半分以上は自分への怒り、だと思うけど」
 その言葉が終わるか終わらないかの内だった。扉が開く音、そして階段を駆けて来る足音が立て続けに聞こえてくる。3人分。はっとしたときには既に視界に入る位置に、レンたちが居た。
 先ほどの言葉があったので思わず身構える。確かに、レンはKAITOを睨んでいるように感じた。
「レン? あの」
「ごめんなさいっ!」
 レンが口を開きかけたとき、その横から大声を出したのはリン。レンが言葉を遮られてそのまま止まる。
「あ……うん」
 レンに視線がいっていたKAITOも思わずそんな気の抜けた返事を返した。リンに続いてミクが謝り、2人は満足したかのような笑顔を見せる。
「……えっと」
「レンの番でしょ」
「そうだよ、レンくんも」
 両隣の2人に促されて、レンがゆっくりこちらに向かってきた。まずはMEIKOに。
「……ごめん」
 そして再びKAITOに目を向ける。
「…………」
 分けられた。
 ということは、MEIKOとは違うことを言われるのだろうか。
 益々身構えるKAITOは、レンが拳を握ったのに気付く。
 次の瞬間、その拳は真っ直ぐにKAITOの顔へと向かった。
「あっ」
「レン!」
 悲鳴はレンの後ろで上がる。避けなかったが、そこから動きもしなかったKAITOに、レンが低い声で言う。
「……兄ちゃん」
「うん」
「何で殴られてんの」
「……へ?」
 のしかかるようだったレンが、体を離す。そしてKAITOの顔を見て不満げに唇を尖らせた。
「やっぱ怪我もしてないんだな」
「ああ……人間やレンじゃ無理だよ、そりゃ」
「あんなの倒そうと思ったら倒せるんだろ」
「倒せ……まあ、そりゃそうだけど」
「だったら何で大人しく殴られてんだよっ!」
 レンの不満はそこか。
 KAITOは困った顔で助けを求めるようにMEIKOを見る。MEIKOは笑っているが、言葉は挟んでこなかった。
「……あいつらに何かされたの?」
「おれは殴られた」
「怪我は?」
「……してねえけど」
「じゃあ、いいじゃん」
「……は?」
「おれが殴ったら確実に怪我させるよ。まあ向こうはおれ殴って勝手に怪我してるかもしれないけど」
「…………」
 レンが益々不機嫌な表情になる。
 駄目か。
 次に何を言おうかと考えていると、突然MEIKOが笑い出した。はらはらと見守っていたリンとミクも含め、一気に注目がMEIKOにいく。
「まーそりゃそうね。レン勘弁してあげて。そいつ、昔は暴れて廃棄の危機もあったんだから」
「え、」
「ええっ」
「ええええっ、どういうこと!?」
 リンが大声を上げMEIKOに迫る。ミクは、KAITOの方に来た。動きの止まったレンを押しのけてミクがKAITOに迫る。
「言った通りよ。結構喧嘩っ早かったわよね、あんた」
「それは姉さんの方だろ」
「私を止めてるあんたが最終的には喧嘩買うじゃない」
「姉さんが向こう挑発するのが悪かったと思う……」
「ちょっと待ってお兄ちゃん! ひょっとして人間怪我させちゃったことあるの!?」
「……姉さん」
 それは知らないで欲しかった。
 MEIKOを睨みつけるが、MEIKOはそ知らぬ顔で笑っている。
「いーじゃない、弟は強い兄ちゃんの方が嬉しそうよ?」
「……レン?」
 ぽかん、としていたレンが、視線を向けられて慌てて頭を振る。
「そうだよ、レン、ずっと兄ちゃん情けないとか言ってたんだから」
「お兄ちゃんは情けなくなんかないよっ!」
「うん、ミク姉もずっとそれ言ってた」
「……だって、そうだろ! あんなのに黙って殴られててさ!」
「喧嘩買わない方がかっこいいよ!」
「おれは殴られてんだぞ!」
「我慢するのが男だよ!」
「あの……ミク? レン?」
 何故か喧嘩を始めたミクとレンに、KAITOはおろおろとまたMEIKOに顔を向ける。MEIKOは肩を竦めて立ち上がり、軽く2人の頭を叩いた。注目させるだけのようなそれに、2人は言葉を止めてMEIKOを見上げる。
「近所迷惑だからあんまり大声出さないこと」
「……それでいいの、姉さん」
「最初の内に本音ぶつけあっときゃいいじゃない。ためこんで後で爆発されるよりマシよ」
 MEIKOがKAITOを見る。KAITOは思わず視線を逸らした。
「リンとレンも。外で遊びたかったなら言えばいいの。心配かけるんじゃ ない」
「……うん」
「ごめんなさい」
 MEIKOの口調は軽かったが、双子は揃って俯いた。喧嘩の行き所をなくしたようで、にらみ合っていたレンとミクも顔を逸らす。
「もういいの? 言いたいことは?」
「あ、ある! あるよ私! じゃ、今日は本音大会ー!」
 リンが手を上げてソファに飛びつく。レンが少し笑ってその隣に腰を下ろした。
 考え方も感じ方も信念も。それぞれが違いすぎてかみ合わない。だからこそ、知っておくことも大事なのだ。


 

戻る