迫る

 部屋に閉じこもっていたリンが、どたどたと階段を駆け下りてきたのは、そろそろ子どもは眠ろうかという午後9時を過ぎた頃。テレビを見ているMEIKOと、その正面で半分寝ぼけ眼のミク。レンの座ったソファの後ろをKAITOが通り過ぎたとき、リンが部屋に入ってきた。反射的に目をやって、妙に真剣な表情をしているのが気になり声をかける。だがリンは耳に入ってないかのように何も言わず、そのまま真っ直ぐKAITOの元へと向かった。
 何だ?
 レンが振り返ると同時、リンの叫びと共にばたん、と大きな音がした。振り返ったレンの目に、二人の姿が映らない。慌てて立ち上がって、ソファの影に倒れたKAITOと、その上にのしかかるリンの姿を確認した。
「り、リン、どうしたの」
 アンドロイドなので痛みはないが。咄嗟のことで受身を取れなかったらしくまともに床に倒れこんだKAITOは衝撃に目を瞬いている。リンは思いつめた表情のまま、KAITOのマフラーを握り締めた。
「お兄ちゃん!」
「は、はい」
「お願いがあるの!」
「何……?」
 練習してきたかのような台詞をはきはきと言い放つリン。そのときには既に全員が次のリンの言葉に注目していた。
「私を……女にして!」
「…………へ?」
「は………?」
「え………」
 どれが誰の呟きかはわからなかった。
 だが、最後に入ったのは確かにミクの声。
「リンちゃん元々女の子だよねー?」
 だよな。そうだよな。何寝ぼけたこと言ってるんだよリン。
 突っ込みが喉元まで出かかったとき、リンが更に言葉を紡いだ。
「私を抱いて!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 その後の絶叫は、やはりどれが誰のものだかわからなかった。





「ちょ、ちょっと待てリン! 落ち着け!」
 慌てて飛び出したレンは、ソファを回りきる前に向かったため盛大にソファに躓き出遅れる。レンの上を飛び越えるようにして向かったのはミクだった。
「リンちゃんどうしたの? 何があったの?」
 ああ、ミクですら理解している。KAITOのマフラーを外し、コートにまで手をかけたリンをミクが慌てて止めている。というか抵抗しろ、KAITO。
「……コートの洗濯は面倒だけど水洗いで十分よね」
 ああ、後ろでMEIKOがわけのわからないことを呟いている。普段はとても冷静で頼りになる姉だが一旦パニくると思考が妙な方向に飛んでしばらく帰って来ない。レンはそこでようやく立ち上がった。
 とりあえず軽くKAITOの肩を蹴りつける。
「起きろよカイ兄ィ」
「あ、ああ……」
 KAITOも呆然としていたのか、リンの手を押さえてゆっくりと体を起こす。リンはそれが不満だったのかもう1度思い切りKAITOを押し倒した。だがさすがに今度は倒れる前にKAITOが肘をついて止める。リンが唇を尖らせた。
「ええとねリン。いろいろ言いたいことはあるんだけど……とりあえずどいてくれる?」
「やだ」
 きっぱり言い放ったリンにKAITOは困ったような顔をレンに向けてきた。
 レンはため息をつく。
「リン、そこどけ」
「いや」
「リンちゃん、まず話しよう! ね?」
 リンはそこでじっとミクを見つめる。ちらりとレンに目をやったあと、ぱっとそこから立ち上がった。突然の素直な反応に驚いていると、リンはマフラーを握り締めたままKAITOに言い放つ。
「私の部屋に行こう! ここじゃ駄目だよね!」
「……そういう問題じゃないよ」
 いつもならこういうときはしっかり言い放ってくれるはずのKAITOの突っ込みも弱い。本当に。何があったというのだ一体。
 レンは必死で今日の出来事を思い出そうとするが、今日はリンとは仕事が別だった。レンが帰ったときには既にリンは部屋に閉じこもっており……ああ、仕事で何かあったのだ。
 とりあえずリンが離れたことでKAITOが立ち上がる。そして少し迷うような表情をしたあと、ソファに座った。
「あーっ。何で座っちゃうの!」
「リン。話を聞かせてもらうよ」
「ソファの方がいいの?」
「リン!」
 これは何かのバグなのか。KAITOも漸く強い声を出すが、戸惑いが表情に表れていていまいち言い切れていない。ミクがそこでリンを抱きしめるようにして抱え込み、ソファまで引きずっていった。
「何ー。ミク姉じゃ駄目なのー」
 何が。
 問う気にもなれずレンはぐったりソファに腰を下ろす。
 全員が座って、最初に声を出したのはミクだった。
「リンちゃん、大人になりたいの?」
 リンが頷く。まさかこういう話題でミクが仕切るとは思わなかった。レンは何も言えない。MEIKOはとても冷静な表情をしているが、多分まだ帰ってきていない。
「今のままじゃ駄目だって言われたの」
「誰に」
「で、男を知らなきゃ駄目だって」
「だから誰にだ!」
 ミクの問いをスルーして続けたリンに思わず大声を出す。リンは何故か睨みつけるようにレンを見た。
 まあ言われなくても想像はつく。
 プロデューサーだ。
「……ええとねリン」
「うん」
「……いろんな意味で無理だから」
 KAITOの言葉にリンは一瞬言葉を詰まらせて、すぐにはっとしたようにKAITOに近づき、上目遣いにその顔を見上げた。
「……私じゃイヤ?」
 心細げな、小さな声。
「お前ホントどこで何聞いてきたんだ!」
 レンは突っ込みをあげつつ脱力する。誰かが変なことを吹き込んだのは間違いない。問題は、何故かリンがそれを信じ込んで実行しようとしていることだけど。
「リンちゃん。VOCALOIDはセックスできないよ?」
「えっ」
「ねえ、お兄ちゃん」
「…………………………………うん」
「ちょっと待て、何だその間」
 ミクが当然のように振ったのに、KAITOは即答しなかった。リンは立ち上がって拳を握り締める。
「出来るって言ってたもん! やったら大人になるって言われたし!」
「その理屈でいくとおれも姉さんも大人じゃないなぁ」
「何ぶっちゃけてんだよ。っていうかマジ? できるの?」
「無理だよ」
 今度は即答。さっきの間は何なんだ。
「ホントに?」
「無理だって聞いたから…」
「お前も聞いた知識かよ!」
 つまりは、わからないということだった。
 少し流れた沈黙に、うんっと大きくリンが頷く。
「じゃあ試してみよう!」
 やっぱり、そうなるか。
 少し好奇心が沸くと同時に、何がいけないのかわからなくなった。リンとKAITOは兄妹で、でも人間じゃないから血のつながりとかなくて。リンはまだ14歳で、でもそんなの設定年齢ってだけだし。こういうのは好き合ったもの同士がやるもので、いやでも人間だって結構軽い気持ちでやってたりとか、
 レンは頭を抱える。処理能力が限界を超えてしまった。
 反射で突っ込んでる内はいいが、真面目に考え出すと深いところまでいってしまう。実は、レンもMEIKOと同種だ。MEIKOは途中で道がそれていくだけで。
「リンちゃん」
 静かな声は、ミク。もうこうなったらミクに頼るしかない。
 レンは顔を上げた。
「何でお兄ちゃんなの?」
 ミクの言葉にリンが首を傾げた。
「他に居ないじゃん」
「レンくんは?」
「子どもだし」
「人間は?」
 リンの言葉が止まった。レンにとっては聞き逃せない言葉がそれ以前にあったが、とりあえず考えないことにする。リンは口元に手を当てて、しばらく黙って考え込んでいた。
 人間相手、は考えなかったのか。やがてリンの顔が僅かに嫌悪に歪む。
「……それは何か怖い」
 ぽつりと、リンはそれだけ言ってミクを見た。それを見ていたKAITOが突然リンの腕を掴む。
「な、何っ」
 先ほどまで迫っていたはずのリンが一瞬びくりとする。KAITOは真剣な表情でリンを見ていた。
「おれなら怖くないの?」
「怖くないよ、お兄ちゃんだし、」
「ほんとに?」
「…………」
 真剣な眼差しは、いい加減な答えを許さないとき。リンが瞬いた。
 レンも何も言えなくて、ただじっと見守る。リンは多分考えている。きちんと考えてなかったことを、猛烈な勢いで考えている。やがて、リンが俯いた。
「怖く……ない……」
 小さく、少しずつ。
「けど………ごめん」
 リンがつかまれた腕を下ろす。KAITOの手も自然に離れた。
 全員がほっと息をついた。
 リンがゆっくりとリビングの外へ向かう。部屋に戻るつもりか。レンは思わず立ち上がりかけたが、ミクがついて行ったのを見て再び腰を下ろす。どうせ何と言っていいかわからない。もっと聞かねばならないこともあるだろうけど、ミクが付いているなら、いいか。
 隣で、大きなため息が聞こえた。
「……カイ兄…」
「……焦った」
「ホントにな」
 そういったこととは何となく無縁に今まで来てたけど。そういう話題を振られてもおかしくない年ではあったのだ。
「……兄ちゃんたち、今までそういうのなかったわけ?」
「ないなぁ。誘われても無理です、で終わらしてたし」
「あるんじゃねぇか!」
 こっちも、深く考えてなかっただけか。
 レンはそこでいまだソファに座ったままのMEIKOに目をやった。MEIKOもちょうどこちらを向いたところで、ばっちりと目が合う。
「姉ちゃん、」
「とりあえず小さな桶なら全部飲み干せるわよね」
 姉はまだ帰ってきてなかった。
 いろいろ聞きたいことはあるけれど、明日以降になりそうだ。


 

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