知らなかった
「ミクちゃんミクちゃん」
出番が終わりスタジオの隅で休憩しているとき、こそこそとやってきたのは何度か一緒に仕事をしたことのあるスタッフの一人。振り向いたミクが笑顔を返せば、にやけた笑みを向けてくる。すぐに男はきょろきょろと辺りを見回した。
「どうしたんですか?」
「いやいや。今日は君のお兄さんは?」
「今日はお仕事別なんで」
「あー、そうかそうか。いや、ミクちゃん、この間のPVね。凄い評判良かった
よ」
ほっとしたように息をついた男が更にミクに近寄って小声で言ってくる。ミクは笑顔のまま元気に返した。
「ありがとうございます! あの、仮面のですよね」
「そうそう! 色っぽいなーってね。ミクちゃんももう大人の女なんだなぁ」
言いながら肩に腕を回してくる。胸まで伸びそうになった手は一応軽く叩いておいた。
男が笑って手を引く。
「特にお兄さんとの演技がねー。もう演技とは思えないって評判だよ」
後半に行くほど声がどんどん小さくなる。これでは近くに人が居ても聞こえないレベルだろう。勿論ミクはこれほど側に居なくても十分聞き取れるが。
「ちょっと噂出たぐらいだよ。……ミクちゃん、ホントにああいうことして
る?」
「……へ?」
ああいうこと?
思わず男を見ると、男はにやりと笑って更に顔を近づけてくる。
「まあお兄さんって言っても本当の兄妹じゃないしね。でもあれは絶対何かあるだろうって噂で」
潜められた声。
ミクはようやく男の言いたいことを理解する。
あのPVで、ミクとKAITOは「恋人同士」を演じた。それも兄と妹、という設定のままで。ミクもKAITOも、演技には異常に入れ込むとよく言われる。だから、演じた役についてあれは演技ではなく本当なのではないか、と言われたことも初めてではなかった。
ミクは笑って男の言葉を否定する。
「ないですよー。お兄ちゃんはお兄ちゃんだし」
「そう? でも男は知ってるんじゃないの?」
ああ、ここまで行くとセクハラだ。
本当はもっと前段階からそうだろうが。ミクはそこでするりと男の手から離れる。少しだけ怒ったように唇を尖らせた。
「ないです。そういうこと言うと怒りますよ」
まだ本気の怒りは込めなかった。だから逆効果だったようで、男の顔は更に緩む。
「それであの演技? 凄いねー、どこで知ったのかな」
男がまた近づいてくる。背後ではまだスタッフのざわめきが聞こえる。そちらに飛び込んでしまおうかと思っていたとき、聞き慣れた声がすぐ近くで響いた。
「ミク」
「あ、お兄ちゃん!」
ぱっと笑顔を向けてミクはKAITOに飛びつく。KAITOも笑みを浮かべたままミクを抱きとめた。
「いつ来たの?」
「さっき。仕事終わっちゃった?」
「最後にもう一回出番」
「じゃ、そのあと一緒に帰ろうか」
「うん!」
KAITOを見上げて会話していたミクは、抱きついた姿勢のまま、はっとして男を振り向く。男は苦笑いのような笑みを浮かべて静かに離れて行った。挨拶も何もない。
「……どうしたの?」
「ん? 何でもないよ?」
兄の言葉は笑って流して、お兄ちゃん仕事どうだった、とミクはKAITOを引っ張って隅に移動しながら話す。KAITOに背を向けたため、そのときのKAITOの表情までは気付かなかった。
「KAITOさん」
ノックの音の次にその呼びかけが聞こえてMEIKOは目を覚ました。
楽屋の畳に横になっていたMEIKOは体を起こすと少し頭を振って聴覚に集中する。声は隣の部屋からだった。MEIKOと同じ部屋に居るリンが読んでいた本から顔を上げてMEIKOに近寄ってくる。
「お兄ちゃんとこ、誰か来た?」
「みたいね」
MEIKOはそのまま壁に背をついた。この後ろがKAITOたちの居る楽屋。この壁だと意識せずともその声が響いてくる。リンはあからさまに聞き耳を立てるように壁に耳をつけた。
「どうしたんですか? まだ時間じゃないですよね」
「ああ、そっちじゃなくて。ちょっといいですかね」
「? はい」
ごそごそと動く音。楽屋を訪ねてきた男が入ってきたのだろう。声に聞き覚えはなかった。
「どうしました?」
「いや、あの……」
「おれ居るとまずい? 出てようか?」
割り込んだのはレンの声だった。微かに聞こえていたゲーム音が同時に消える。しばらく悶着があったが、やがてドアが開く音がした。レンが出て行った
のだ。
「どうぞーレン」
「……聞いてたな、お前」
「いやでも聞こえるって」
部屋を出たレンはその足で隣のMEIKOたちの楽屋へやってきた。空気を読むように出て行ったレンだが、こっちに居ても話は十分聞こえる。
「で、何ですか? レンにも聞かせられない話ってのは」
「いやー、ただ今度の仕事の話なんですがね。あまり他のVOCALOIDの前でするもんでもないかなと」
「…………」
そんな馬鹿な話はないだろう。別のVOCALOIDに仕事が来ると嫉妬するとでも言うのか。そもそも全員それぞれ仕事の土俵が違い過ぎる。
KAITOはそれには何も言わなかった。
「で、KAITOさん、これ、こういうのどうですか? ほらたまには男の色気を出す感じで」
「たまには……」
KAITOの呟きに思わず吹きそうになったが、何とか堪える。リンとレンも肩を震わせていた。
そういう仕事はないわけではないのだが、どうしてもネタ曲の方がインパクトが強く印象に残りやすい。まあアイドルと同じことをやっていてもしょうがないのかもしれないが。
「そうそう、こういう感じで」
ぱらぱらと音がするのは資料をめくっている音だろうか。かなりの枚数があるようだ。
「どうです? やってくれませんか!」
最後はお願いの形で男は言う。懇願するような態度に、そこまでしなくてもいいだろうに、と思う。KAITOは基本どんな仕事も受ける。スケジュールがどうしても合わない場合ぐらいだろう。断るのは。
だが続いて出たKAITOの言葉は意外なものだった。
「……考えさせてください」
「えっ……」
男も直ぐに引き受けてもらえるものと思っていたのだろう。驚きの声が響く。男が声を出さなければMEIKOも思わず叫びそうだった。
KAITOのそんな答えは、聞いたことがない。
「もうちょっと見せてもらっていいですか?」
「え、あ、あの」
さっきぱらぱらとめくられた資料がKAITOの手に渡るのが音でわかる。一枚一枚、丁寧にめくられ、部屋の中は異様な沈黙に包まれていた。気付けばMEIKOも、リンもレンも、妙に緊張して隣の音に集中している。
「……これ」
やがてぽつりと、KAITOが言った。
「この子は、誰がやるんですか?」
「そっ、それは……その、まだ決まってなくて」
男の声があからさまに上擦る。
「……リンやミクにやらせる、って言うのじゃなければ引き受けます」
「…………」
男は答えなかった。
MEIKOは知らず息を止めていた。視線をずらせば、MEIKOを何だか不安げに見上げてくるリンと目が合う。
「は、はい……はい」
しばらくして、男はよくわからない返事だけ返し、もごもごと挨拶だけして帰って行った。ばさばさと資料が散らばるような音も聞こえる。
やがて扉が開き、廊下を走る音が遠ざかって、MEIKOはようやく息を吐いた。そしてそのまま立ち上がる。
「ん? 行くの?」
座り込んだレンが見上げて言う。MEIKOは当然だ、という顔で頷く。
「だって聞きたいじゃない」
「別に話すことないよー」
声は隣から聞こえた。
当然というか、KAITO側にもMEIKOたちの会話は聞こえていたのだろう。壁に寄ったのか、少し声が大きくなる。
「何かおれが色んな女に手出す男の役。遊ばれる女の子の絵がどう見てもリンっぽくてさー」
「えー、私いいよ? そんな役ぐらい」
「裸で泣いてる役だったけどいいの?」
『駄目!』
リンとMEIKOと、ついでにレンの声も重なった。KAITOが笑う声が聞こえる。
「……KAITO」
「何?」
「……やっぱりちょっと話があるわ」
立ち上がっていたMEIKOはそのまま楽屋へと向かう。一応部屋の中を振り向けば、レンは肩を竦めてゲームを再開し、リンもまたのそのそと読みかけの本のところに戻っていた。
『ごめん!』
KAITOとレンの楽屋。
机を挟んで向かい合ったMEIKOとKAITO。
MEIKOが来て、その位置に座り、ほぼ2人同時に声を出した。
「……え?」
「え、何で姉さんが『ごめん?』」
「そ、それはこっちの台詞よ。あんた私に謝るようなことしたの?」
「えー、だって……」
お互い顔を見合わせて首を傾げる。
KAITOが訝しげな顔をしたまま続けた。
「……喧嘩……しただろ、前」
「ああ、うん、私もそのことのつもりだったんだけど」
きっかけはミクとKAITOで演じたPVだったか。
KAITOはミクやMEIKOたち女性陣の受けるセクハラをあまり深く理解していない。レンが「エロい」と感想を持ったような男女の絡みのあるPVを引き受けたことに対して、MEIKOが怒ったのだ。その喧嘩は長引き、結局仕事後に喧嘩を始めて、スタッフがレンたちに連絡を取る事態になってしまった。レンからも説教されて随分気まずかったものだ。
まあ、MEIKOに絡んできた男たちを八つ当たり気味に2人で張り倒してすっきりしてしまい、翌朝にはほぼいつもと変わらない状態だったが。
「この間さ、ミクがあのPVのことでスタッフにいろいろ言われてるの見て……ちょっとびっくりした。おれが、いつも側に居られるわけじゃないし、居ないとこじゃあんなこと言われてるんだって初めて知ったんだよ」
KAITOはミクが声をかけられてからの一部始終を見ていた。MEIKOほどではないが、ミクもある程度はセクハラに対応出来る。だから、確かめようとしての行為だった。
「……ごめん。おれやっぱりわかってなかった」
「…………」
笑いの浮かばないKAITOの顔は珍しい。普段は謝っているときでも苦笑いをしているのに。心底反省しているのだろう。そんな顔をされるとこちらも何も言えなくなる。MEIKOも結局、何があってもへらへらしているKAITOが不満だったのだから。
「……私の方も」
「え?」
「……さっきあんた仕事断ったでしょ」
「断ったわけじゃないよ」
「断ったも同然じゃない。やりたかったんでしょ」
「……まあ歌とPVだけならねぇ。でもあれ、あからさまに」
「わかった、それ以上はいい。ああいうのよくあるの?」
「……うん、まあたまに」
考えなしに仕事を引き受けるKAITO。MEIKOはずっとそう思っていた。実際に何でそんな仕事を引き受けるんだ、と思うことが多い。
だけど違った。自分以外に負担やダメージの行く仕事は、ちゃんと断って
いた。
「……ごめん、全然知らなかった。そうよね、あんたが選ばなかった仕事、なんて知るはずないもんね」
そもそも話してくれない、というのもあるが。
MEIKOだって断った仕事についていちいち報告することなどない。
ならばやはり、ミクとのあのPVはちゃんと考えた上で大丈夫だと判断したのだろう。勿論それによるダメージに対しては理解が足りなかったようだが。
「さすがに本当にまずいものぐらいはわかってると思うけどなぁ。ああ、でもセクハラは理解足りなかったごめん」
「もーいいわよ、謝りあっててもしょうがないし。今度からちゃんと相談しましょ」
「だね。得意分野は違うしね元々」
KAITOがようやく笑顔を見せてMEIKOもほっとする。
以前は話がまとまらず、ぎすぎすした空気が嫌で結局そのままその話題に触れなくなってしまっていた。
KAITOの笑顔には苛つくこともあるが、ないと不安で仕方ない。
「終わったー?」
「ミク姉終わったぜ、そろそろだろ」
思わずこちらも笑顔になっていると、楽屋にリンとレンが入ってきた。先に収録をしていたミクも後ろから続く。
「ちょっと、向こう誰も居なくなっちゃったの? 呼びに来たらどうするの
よ」
「どうせこっちに来るだろ。おれらの楽屋は男と女で分けなくていいっつってんのに」
「……いや、一応分けた方がいいんだと思うよ」
言ったのはKAITOだった。レンが驚いたようにKAITOを見る。
「……ミク、ミクもごめんね」
「え? 何が?」
いくらなんでも前提がなさすぎる謝罪にミクがきょとんとした顔を向ける。だがKAITOはそれについては説明せずに、近寄ってきたミクの頭に黙って手を置
いた。
……まあ、ここで思い出させることでもないのだろう。
それに、正直KAITOがどう頑張ってもああいうのはなくならない。かわし方を覚えていくしかない。それはこっちの役目だ。
「すみませーん、もうすぐ本番です」
「はーい」
元気に返事をしたのはリン。スタッフはざっと部屋の中を見渡したあと、そのまま去っていった。もう隣に行く必要はないと思ったのだろう。
「さ、それじゃ行くわよ」
「行ってらっしゃーい」
「今日はみんなで帰るの?」
「そうね。ミク待っててね」
先に出番を追えてるミクが頷いて早速畳に寝転がる。
ああもう、この姿勢では入ってきた人に下着が丸見えだ。
「ミク姉、見えるぞ」
「あー……うーん……」
レンが軽くミクの足に蹴りを入れるとミクがごそごそと姿勢を直した。
それだけ見て全員で廊下に出る。
さあ切り替えよう。
これからは、仕事の始まりだ。
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