試合結果

「レンー、レン、待ってってばー」
 後ろから小走りに着いて来るリンは多分そう叫んでいる。だけどレンの耳には届かない。
 ……良し。
 限界まで下げた聴覚機能。残念ながら聴覚ゼロ、という設定は出来ないが、帰るまでならこれで十分だろう。思い切り意識して集中して、ようやくリンの声がかすかに聞こえるぐらいだ。ほぼ無音の世界。自分自身が出す音も聞こえない。
「レンー!」
 脇目も降らず早足で歩いていると突然後ろから肩を捕まれた。
「レン! 聞いてんの?」
 リンだ。音がないと気配も感じないのか、少し驚いた。だけどまだ聴覚を戻すわけにはいかない。
 リンが何を言っているかはわからないが、とりあえず首を横に振っておいた。リンの顔が引きつる。
「聞こえないんだよ、言っただろ」
 怒ったらしいリンにとりあえず説明する。今日は収録終わった直後から家に帰るまで、何も見ない耳に入れないと言っていたはずだ。
 そしてボーカロイドは物理的にそれが出来る。
 さすがに何も見ないわけには行かないが、出来るだけ人の顔は目に入れない。持っているものも目に入れない。
 今日行われた日本の試合は、しっかり録画しているのだ。延長したって大丈夫なように、時間はかなり余裕を持たせてある。だが何せ日本中話題持ち切りの試合。帰るまでに結果を耳に入れてしまえば台無しだ。
 リンはようやくレンの本気に気付いたのか、諦めたようにため息をつくと、突然レンの右手を取って歩き出した。
「? 何だよ」
「聞こえないなら危ないでしょー。これで帰ろ」
 手を握ったままリンがレンの言葉に答える。だけど、やっぱり聞こえない。
 引きずられながらも、レンはとりあえず大人しく従った。これからタクシーに乗る。話題にされる可能性が非常に高い。ラジオもつけているかもしれない。だけど、大丈夫。乗っても聞こえないはずだ。対応はリンがやってくれる。ついでに運転手の顔も見ないよう、乗車寸前にレンは目を閉じた。





「ただいまー」
「お帰りー、ねえ今日の」
「ミク姉ストーップ!」
「へ?」
 2階に上がろうとしてたところ、ちょうど帰ってきた双子に出くわした。試合を見た興奮そのままに話しかけようとすると突然リンがミクの前に手を突き出し大声を上げた。
 よく見ればレンはリンの後ろで目を瞑って俯いている。おまけにリンの左手はレンの右手をしっかり握ったままだ。
「……ど、どうしたの?」
 異様な光景、としか言いようがない。何かあったのかと慌てるミクに、リンはきっ、と睨みつけるように表情を引き締めた。
「とりあえずその話題はなしで! 今リビング空いてる?」
「え? 空いてるって……」
「誰も居ない?」
「お兄ちゃんが居るよ」
「追い出して!」
「は?」
 リンはきっぱりそう言うと、握ったままだったレンの右手を玄関の段差に誘導した。レンが薄っすら目を開ける。
「着いたよー。ほらミク姉、お兄ちゃん連れ出してってば」
「どういうこと?」
「後で説明する!」
 レンがのそのそと靴を脱ぐ。目は開いているようだが、顔を全く上げようとしない。さすがに不安になる。リンの表情も厳しい。いつの間にか廊下に上がっていたリンは、そんなミクを気にすることもなくもう1度「追い出して」と言った。戸惑いながらも、ミクはリビングへと向かう。ソファに座った兄はテレビでニュースを見ているようだった。
「あ、今日の?」
「うん、今日はやっぱりこの話題一色だよね、おれ勝ったとこ見れなかったんだよなー」
「じゃあこれからそれ見るの?」
「ん? うん、多分ニュースでやるよ。あ、ほら始まった」
 KAITOはミクに顔を向けてこない。ミクの申し訳なさそうな顔は、目に入ってないだろう。
「あの……リンちゃんがね」
「リン? 帰ったの?」
 言いながらもミクもついニュースに目が行く。ミクは一度見た試合だが、やっぱりまだ見たい。ソファの後ろから顔を出した姿勢でミクは続ける。
「……お兄ちゃん追い出して来いって」
「……え?」
 テレビに集中していた兄の返事はワンテンポ遅い。
 そしてそれから更に遅れて言った。
「……どういうこと?」
「わかんない」
 2人して会話に集中出来ず生返事のような状態になる。やっぱりもう1度聞いてこようか、と思いつつニュースから目が離せない。
「レンくんが何かずっと俯いてるの」
「レンが? 何かあったの?」
「それもわかんない…」
 それも、聞かなきゃならない。
 とりあえずこのニュースが終わったら……。
「あーっ、駄目! テレビ消して!」
 そう思っている内に、リビングに突然リンの大声が響いた。
 さすがにKAITOが振り向いたとき、ニュースでは勝ち越しの瞬間が流れていた。





「目瞑ってて正解ー。じゃ、ゆっくりどうぞ!」
「……おう」
 リンがにこにこしながらそう言ってテレビを指す。ようやく、聴覚を戻し、ソファに座り、目の前にはテレビ。ご丁寧に再生した瞬間でポーズをかけてある。
「私は2階行ってるからー。あ、お姉ちゃんたちにも入らないよう言っとくからね!」
「……ああ」
「それじゃ!」
 リンが去っていく。普段は滅多に閉められない台所や廊下へのドアが閉められていた。まさに至れり尽くせり。本当に、情報を全く得ないままここまで来れるとは思っていなかった。リンはこういうときとても頼りになるのだと思う。
 けど。
「……笑顔だったなぁ……」
 多分リンは既に結果を知っている。
 負けていたら……あんなに笑顔で勧めるだろうか。
 いや、あれはきっと、上手くレンを案内出来たことへの喜びだ。そうに違い ない。
 レンは納得してリモコンを手に取り、再生を開始する。
 そうだ、礼を言いそびれた。後でちゃんと言おう。
 レンはこれまた用意されていたバナナを握り締め、試合に集中し始めた。





「……録画してるなら言ってくれたらいいのに」
 おれも見たかったなー、とKAITOが呟く。
「駄目、お兄ちゃん結果知ってるじゃん。知ってる人が横に居たらレンだって集中出来ないよ」
「まあね、レンは気付きそうだし」
「そっかー。レンくんたちは仕事だったんだねー」
「スタッフも文句言ってたよー、よりによってこの時間じゃなくてもって」
「そういや姉さんも仕事だなぁ…」
「お姉ちゃんは見ないの?」
「……どうだろ、さっき電話しても出なかったから情報遮断してる可能性はあるけど」
「え、お姉ちゃん電話に出なかったの?」
「うん、あ、でも家帰って来たらわかるから。多分もうすぐ帰るし。止めときゃいいんでしょ?」
「えー…でも…私、やっぱり玄関に居る!」
 リンはそう宣言するとばたばたと階下へ降りていった。ここはリンとレンの部屋。残されたKAITOとミクは顔を見合わせる。
「何か張り切ってるねリン」
「レンくんの役に立てるのが嬉しいんだよ」
 レンくん、自分で何でもやっちゃうもんねー。
 ミクが笑って言った言葉に、KAITOは首を傾げた。
「何でも自分でやれた方が良いでしょ」
「そうだけど、そうじゃないときもあるの!」
 たまには頼って欲しいっていうの、わかるなー。
 あまり頼られる経験のないミクがしみじみと言う。
「……ふうん……」
 ここでアイスとってきて、なんて言うのは頼ってるのとは違うんだよな?
 ミクの顔を見ながらKAITOはそんなことを考える。
「あ、電話」
「姉さんかな?」
 電話本体はリビングにあるが、2階KAITOとMEIKOの部屋に子機も置いてある。リンとレンの部屋にはないが、KAITOが自分の部屋から持ってきていた。
「もしもし?」
『KAITO? ちょっとお願いがあるんだけど』
 電話の相手は予想通りMEIKO。
 そして次に言われた言葉に、KAITOは苦笑いを浮かべた。





「……ミク?」
「うんっ」
「……KAITOはどうしたの? これないの?」
「ううん。私でもいいでしょ?」
 何だかやたらにこにこと嬉しそうなミクが、MEIKOの手を取る。
「な、何?」
「お姉ちゃん目瞑って! で、聴覚機能を最小にするの! そしたら家帰るまでわかんないでしょ!」
「…………」
 MEIKOの仕事は長引いて、ついさっき終わったところだった。終わってすぐ携帯を取り出して試合の結果を確認しようとするスタッフたちから目を逸らし、逃げてきた。そして携帯に家からの着信があったのに気付き、思いついた。
 何の情報も仕入れないよう、KAITOに運んでもらえばいいかと。
「……なるほど…それならわからないわね」
「でしょ! 大丈夫だよ、私だってやれるんだから!」
 KAITOに頼んだはずなのに何故かミクがやってきた。押し付けたのか、とも思ったがミクはやたらに嬉しそうだ。
 やはり試合に勝ったのだろうか。ミクはそういう点、嘘がつけない。入り込めばどんな役柄だってこなしてしまうのに。
 苦笑するMEIKOをミクが下から覗き込んで首を傾げる。
「あの、ね」
「ん? 何?」
「……私がやれることは、私を頼ったっていいんだからね!」
 ああ……。
 嬉しそうなのは、これか。
 確かに、何も考えずKAITOに頼んでいたが、情報遮断しての誘導ぐらいミクにだって出来るだろう。
「わかったわ。じゃ、よろしくお願いね」
 握られた手を、ぎゅっと握り返す。
 同時に、聴覚を遮断したのでミクの言葉は聞こえなかったが、その笑顔だけで十分だった。
 日本が勝ってればいい。
 見終わったあと、家族みんなで盛り上がれるといい。


 

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