道標

「………やばい」
 日が沈み始めた。
 暗視センサーなんて便利なものは付いていない。暗くなれば視界は利かない。そこは街灯一つない……森の中。
「………どうしよう」
 右も左も前も後ろも、見えるのは木ばかり。落ち葉に覆われたそこは日が落ちる前から薄暗く、自分の足跡すら見えない。
 空を見上げてみる。
 見えるのは葉っぱばかり。背の高い木が空を覆うように万遍なく枝を突き出している。
 ため息をついて歩き始める。
 とにかく、止まっていてもどうにもならない。
「……まずいなぁ……」
 KAITOは森の中で。
 道に迷っていた。





「なーんか雨降りそうねー」
 朝は雲一つないと言っていい青空だったはずなのに、昼近くから雲行きが怪しくなってきていた。MEIKOは手にしていた空のグラスを空にかざして呟く。以前撮影で来たことのある山の中。冬でも葉の生い茂る大きな森に、今度遊びに来ようと約束していた。なかなか予定が合わず伸び伸びになっていたが、ようやく取れた全員の休日だ。雨が降っても予定は実行されていたとは思うが。
「天気予報では曇りまでだよー。20パーセント」
 MEIKOの呟きを耳にしたのか、後ろからリンが顔を出す。MEIKOのグラスを手に取ると、勝手にテーブルの上のジュースを手に取った。
「もういいわよ、それー」
「だーめ、全部飲んじゃおう、持って帰るの重いし。ほら私のオレンジジュースが飲めないのかー!」
 わざとらしく声を上げながらリンが笑う。MEIKOも苦笑してそれを受け取った。
 本当は酒を持ってきたかったのだが、兄弟全員から反対されてしまった。ピクニックに酒は相応しくないと。そんなことはないと思うのだが。
「あーっ、私の野菜ジュースの方がいいよー!」
「ミク、一歩遅かったわね」
 少し離れていたミクが慌てて戻ってくるが、MEIKOはそれに苦笑して返す。
 なみなみと注がれたオレンジジュースは今にも溢れそうだった。口を付けつつ言うとミクが膨れる。
 手にした野菜ジュースは、ミクしか飲んでないためまだ随分と余っていた。
 ミクは本来ネギジュースを持ってきたかったらしいが、用意が間に合わなかったらしい。そういえばレンはきっちり前日からバナナジュースを作っていた。
「じゃあお兄ちゃんー! お兄ちゃん飲んでー! さあ飲め!」
 木の側で何やら話しているKAITOとレンの元へミクが駆ける。価格は200円〜などと歌いながら向かっているが金でも取るつもりだろうか。
 そういえば結局MEIKOは飲み物を何も用意していない。
 KAITOは飲み物の代わりにちゃっかりクーラーボックスを持ってきていた。アイス用だ。
「お兄ちゃんたち何やってるのー?」
「んー? あれ、ミク見える?」
「え? あっ、何今の!」
「何なにー」
 KAITOが木の上の方を指す。ミクが叫びを上げ、気になったリンがそちらに向 かう。
 MEIKOもジュースを一気に飲み干すと、グラスはその場に置いてリンの後を追っ た。
「どうしたの?」
「あ、MEIKO姉。いや、何か動物が居るんだけど速くて見えねぇんだよ」
「何かね、これぐらい」
 ミクが両手を何かを抱えるような形にする。大きさを表しているのだろう。犬や 猫……よりはかなり小さい。
「えーなになに、捕まえてよ」
「気楽に言うな」
「捕まえてみたいんだけどねー」
 何せ目で追うのも辛い、と言うKAITOは右手にアイスを持っていた。捕まえる気があるとは思えない。
「あっ、見えた! 今あれ! ほら!」
「ちょっ、ミク……!」
 ミクが騒いでKAITOのマフラーを思い切り引っ張る。KAITOは後ろからの力で顔が空を向いてしまっている。
「何だろうな……森の中に居る動物って何だ?」
「何食べるの? 餌で誘き寄せよう!」
「餌なら多分森の中だよね」
 しばらく観察していたリンたちだが、結局それ以上の動きはなかった。
「ねー、森の中探検していい?」
「そうだな、もっと何か居るだろ」
「あ、私も行くー!」
 リンの提案にレンとミクが乗る。
 躊躇いもせず森に入っていくリンとレン。MEIKOはKAITOに目を向けた。
「……危なくない?」
「……ううん、あんまり奥入らなきゃ大丈夫じゃない?」
 おれも行くよ、と声をかけてKAITOが向かう。MEIKOはちらりと後ろを振り返った。寄せ集めのキャンプ用品。簡易テーブルと椅子は先日MEIKOが買ったものだ。VOCALOIDには全く必要ない虫避けスプレーはいつのまにか袋に入れられていた。とりあえずは取られて困るものもないだろう。
 MEIKOはそれだけ確認すると全員の後を追って森へと入った。





「森のねー、奥の奥にあるんだーそのサーカス♪」
「……ミク、その歌はちょっと」
「え、何でー」
 ざくざくと落ち葉を踏みしめながら歩いていると前方でミクが元気な歌声を上げる。音に驚いたのか、森の中が少しざわついた気がした。
「あれって森の奥にサーカスがあるんだよね。そのサーカスでは、」
「ちょっと待ってお兄ちゃんっ、怖い話になるなら駄目だよ!」
 リンはホラー系の歌を歌うことも多いのだが、やはりこういう場の話は苦手らしい。シチュエーションの問題だろうか。森の中は日陰になっていて少し暗い。ただでさえ雲が多く、太陽は隠れ気味だ。
「じゃあ何の歌にするー? 森の歌っていっぱいあるよね」
「でも何か暗いの多いよな」
「あっ、ちょっと待って静かに!」
 ぴたり、と全員の足が止まった。
 叫んだのはリンだ。静まり返った空間に、小さな音が聞こえる。
「……鳥?」
「何だろ、鳴いてるね」
「あっ、また鳴いた」
 元気良く喋っていたリンたちだったが、途端に口を閉ざしてそろそろと移動する。MEIKOも思わず耳を済ませた。森の中の動物の声など、滅多に聞く機会はない。
 やがて奥に行った3人が、MEIKOたちに手招きをしてくる。声を発しないため、ついこちらも慎重に歩く。何か見つけたらしい。
「何か寝てる」
 辿り着く前にミクが小さな声で言う。動物か。昼間に寝ているということは夜行性だろうか。
 ゆっくり近づいたとき、突然リンが叫び声を上げた。
「いやぁっ、何!?」
「何だ!?」
「どうしたのリンちゃん!」
「首! 首になんか!」
 リンが恐怖の表情でMEIKOたちに向かう。手をばたばたさせて首筋に持って行っていた。
「虫でも居た?」
 KAITOがリンに近づいた。次の瞬間、ばたばたばたっ、と大きな音がする。
「いやぁあああ!」
「うわっ!」
 リンの首元から何かが飛び立った。大きな虫。羽音が激しい。パニックになったリンが目の前のKAITOに飛びつく。
 次の瞬間、KAITOが消えた。
「え」
「やっ……」
 続いてリンが飛び込むように前方に向かう。MEIKOは慌ててその服を引っ張っ た。
「お兄ちゃん!」
 ざざざざざ、と激しい音、MEIKOはリンの服を掴んだまま必死で引っ張り上げた。背の高い木と草に囲まれて全く見えなかった。いや、きちんと辺りを見ていなかった。そこは崖のような急斜面。KAITOが滑り落ちたのだ。
「KAITOっ」
「お兄ちゃん!?」
 寄ってきたミクも足を滑らせそうになって、慌ててレンが抱きとめている。
 音が止まったとき、しばらく誰も動けなかった。
「……KAITO? KAITO無事?」
 大声で呼びかけるべきところなのに、つい普通の音量で話しかけるように言う。案の定返事は返ってこない。隣でレンが叫んだ。
「KAITO兄ィ! 聞こえるか!」
 森の中に声が反響する。しばらくして、声が返ってきた。
「大丈夫……聞こえるよ」
 あまり大きな声ではなかったが、よく響くKAITOの声。MEIKOはほっと息をつ いた。
「どこに居るの? 動ける?」
「うん……体は大丈夫。だけど……これは……」
 KAITOの言葉が止まった。木に邪魔されて下に居るKAITOは見えない。声は直ぐ側で聞こえる気がするのに。
「登れる?」
「無理、おれが上がると崩れるよ」
 確かに柔らかそうな地面だった。木に捕まりつつはどうかと思ったが、そこは崖に突っ張った不安定なものが多く、KAITOの重量では木の方も危ない。
「何とか他のとこから上がるから! みんな先帰ってて」
「大丈夫なのね!?」
「多分!」
 断言しない辺りがKAITOらしいが、声に深刻な雰囲気は感じない。
 MEIKOはそこでへたり込んだままだったリンを引っ張り上げた。
「大丈夫みたいよ、私たちは戻っときましょ」
「ええ、でもお兄ちゃん一人で…」
「おれたちまで落ちるわけに行かないだろ、ここ危ねぇよ、全然見えなかった」
 レンが軽く木を叩く。確かに、これ以上歩き回るのは危険だ。あまり奥に入ると道もわからなくなる。それに、虫や動物に自分たちはあまり慣れてないということを実感してしまった。
「じゃあKAITO! 私たち元のとこに帰ってるわよ。最悪山降りちゃって私の携帯に連絡くれたらいいから」
「わかった」
 KAITOの声と同時に、動き出す気配がした。
 MEIKOはリンの肩を叩く。
「じゃ、戻るわよ。帰ってこなかったら置いてっちゃえばいいわよ」
「お姉ちゃんひどいー」
 ミクが突っ込んできたが、勿論本気ではなかった。
 それから、連絡もないまま数時間経つことになる。





 髪の毛に付いた枝を払い落とす。木やら草の間を滑るように落ちたのでコートが草まみれ土まみれだ。皮膚も何箇所かこすれている気がする。帰ったらメンテナンスで見てもらわなければならない。
 怪我が少ないことは兄弟の中でも誇りだったのに。
 がんっ、とまた木にぶつかった。もうほとんど視界が利かない。
 KAITOは木に手を付いたまま迷う。
 まだ寒い季節だが、VOCALOIDにそれは関係ない。
 この辺に人を襲う大型の獣も居ないだろう。居たとしても、食べられることはないし、怪我させられる可能性も低い。
 だったら、明るくなるまでここに留まってしまってもいい。
 水分も睡眠も充電も、まだ当分は必要ない。
「……駄目かなぁ……」
 こんなに森が広いとは思わなかった。山から下りようにもどちらが上か下かもわからない。明らかに下に向かっていたはずなのにいつの間にか登っていたりする。そもそも最初は登る場所を探して上に向かっていた。木に邪魔されて真っ直ぐ歩くことも出来ないため、歩いた距離すら取りにくい。
 KAITOは空を見上げた。
 心配しているだろう。
 本当は動けなくなってるんじゃないかと思うかもしれない。
 機能に障害は出ていないのだが、会って確認するまで安心は出来ないだろう。
 ああ、やっぱり早く帰らなきゃならない。
 KAITOはため息をついて歩き始める。
 疲れなんてないのに、何だか足が重くなる。
「わっ」
 また、頭をぶつけた。
 ……バランス感覚、おかしくなってるんだろうか。






「だから駄目だって言ってるでしょ!」
「だって、もう日が沈むし……」
「だったら尚更でしょ、あんたたちまで迷ったらどうするの」
 MEIKOの厳しい言葉にリンは泣きそうな目をして顔を逸らした。MEIKOは何も悪くないのに、恨み言が出てきそうで、歯を食いしばる。そんなリンをミクが抱き寄せた。顔を胸に押し当てられて、リンは声にならない唸りを上げる。泣きたい。悲しい。悔しい。自分のせいだ。
「リンちゃん、大丈夫だから。お兄ちゃんなら絶対大丈夫だって」
 リンをぎゅっと抱きしめたままミクが言う。後ろでレンの呆れた声が聞こ えた。
「そりゃそうだろ、ちゃんと声出してたし。道に迷ってたとしても2〜3日どうともないだろ、おれらなら」
「……迷ってるんならいいんだけどね」
 MEIKOの言葉に、リンは思わず顔を上げる。その反応に、MEIKOは少し驚いたような顔をしていた。
「……ごめん、何でもないわ」
「何でもなくない! やっぱお姉ちゃんだって思ってるんじゃん、何かあったかもしれないって!」
「そうじゃなきゃいいなって言ってるのよ」
「……ま、確かに遅過ぎるよな」
 レンが空を見上げる。日が落ちるのが早い。もう、ほとんど夜だ。
「携帯、圏外とかになってない?」
「なってないわよ、さっきからずっと見てるわ」
 MEIKOは携帯を片手に掲げていた。携帯を持っているのはMEIKOだけだ。MEIKOのもの、というよりは家族共用で、仕事の都合で貸し借りはするが。
「……やっぱりみんな持った方がいいわね、携帯は」
「だから前からそう言ってるだろ、今度買いに行こうぜ」
 レンの発言は、やっぱり一人楽観的な気がするが、少し声が固いことをリンは気付いている。だから何も言わなかった。こういうとき呑気な発言をするのはいつもはKAITOだ。それをなぞっているのかもしれない。そう思うと、少しだけおかしくなった。
「……リンちゃん?」
 リンの表情が変わったのに気付いたのだろう。ミクが不思議そうに問いかけてくる。
「……ねえ、もう空暗いよね」
「……そうね、まだ森の中に居るなら……見えないわね」
 MEIKOの表情が暗くなる。もう待つのも限界だ、とおそらくそう思っている。多分このまま、MEIKOだけ残して一度帰れとか、そういう話になる。
 だからその前に、リンは言った。
「じゃあさ、歌わない?」
「は?」
「何言ってんだリン」
 こんな状況で、というところだろうか。真剣な顔になっているレンに、リンは今度こそ本当に笑いそうになった。やっぱり、心配してるんじゃないか。
「……そっか、見えなくても聞こえるかも」
 そしてリンが説明する前に、ミクが理解した。先に言われてしまったのが少し残念だったが、リンは勢いよく頷く。
「でしょ!? 聞こえたらここもわかるでしょ!」
 明るい声を出したリンに、MEIKOが目をぱちくりさせる。
「……そうね。そういえば、そうね」
 考えてもなかったのだろう。少し苦笑したMEIKOが携帯をテーブルに置く。
「……それ、もっと早くに思いつけよ」
「レンに言われたくないよ」
 レンの突っ込みには唇を尖らせて返す。
 ミクに引っ付いたままだったリンも、ようやく体を離した。
「じゃあ歌おっか」
「うん! 行くよー。森のねー、奥の奥に」
「だからミク、それは止めなさいって」
 ミクの歌は遮られたが、直ぐに明るい歌にとって変わった。
 夜の森に響く歌は、多分届いてくれる。





 歌が聞こえたのは、歩き始めて何時間経った頃か。
 携帯がないのをずっと不便に思っていたが、そうだ、自分たちにはこの声と耳があった。
 KAITOは苦笑しながら歌に向かって方向を変える。
 自然と口ずさんだ歌が兄弟の歌に乗った。
 一瞬向こうの歌が止まった気がしたが、構わず歌い続けた。
 KAITOの声も届いている。
 まだ視界は真っ暗で、何度も木にぶつかりそうになるけれど。
 この歌があれば、道は見える。


 

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