禁酒
最初に気付いたのはミクだった。
「いただきまーす」
「いただきます」
いつものように並べられた食事。仕事の時間帯がばらばらで、全員が揃うことの少ない食卓に、そのときに居たのはミクとMEIKOだけだった。
MEIKOの作った食事を頬張りながら、今日の出来事をMEIKOに話す。MEIKOがそれに相槌を打ちながら手に取ったコップの中身を飲む。
「……あれ?」
透明の液体。
見慣れたワンカップだと、最初は思った。いつもはわざわざコップに移すことはない。だから、珍しくて、ミクは聞いてみようと口を開く。
「お姉ちゃ…」
「あ、そういえばミク、明日の仕事なんだけど」
「あ、うん、何?」
遮るようにMEIKOの言葉が入って、思わずそちらに返す。この話が終わったら聞こう、この話が終わったら。
「ごちそうさま」
そう思っている内に食事は終わり、そのときにはすっかり忘れていた。
思い出したのは、MEIKOが仕事に出た後だった。
「ホントだった」
「でしょー! で、何て言ってた?」
「え?」
「え……? 聞かなかったの?」
「あ……」
深夜に近い時間帯。リンとレンの部屋にミクがやってきてリンと話している。正確には、先にミクが居た。帰るのが遅くなったリンとMEIKOが一緒に夕食を取って、今リンが部屋に戻ってきたところだ。
「だ、だって仕事の話とかされて……聞こうと思ってたんだけど何か気付い
たら」
「私と一緒だ…」
ごまかされた、とは思わなかったが。ひょっとしてそうだったのだろうか。
ミクは背後で携帯ゲームに目を落としているレンを振り向く。
「ねえ、レンくん、レンくんは気付いてた?」
「何が」
「お姉ちゃんが最近お酒飲んでないって」
「……は?」
驚いたように顔を上げるレン。その反応からわかる。今初めて知ったのだろ
う。
「最近って言うか…私も気付いたの昨日なんだけど。でもずっとお酒のゴミないんだよ」
「ご飯のときも、飲んでるの水だよ、あれ。見た目近いけど、匂いないもんね」
「どうしちゃったんだろうお姉ちゃん……」
ミクにとってのネギのように。MEIKOにとって酒は一日でも欠かしたくない好物のはずだ。ミクの覚えている限り、MEIKOが酒を飲まなかった日なんてない。
レンも怪訝な顔をしながらゲームを切ってミクたちの方へ寄ってきた。
「おれらの前で飲んでないってだけじゃないのか?」
一日一回はほぼ顔を合わせているはずだが、それもスケジュール次第だ。食事だって一度も誰とも取らないときがある。だったら、確かに外では飲んでいるという可能性もあるのだが。
「でも…それならそれで、何で?」
「そうだよ。今まで普通に飲んでたじゃん」
「……未成年の前で飲むなとか言われたとか」
「誰にー?」
「そんなこと言われて聞くと思わないけどな…」
そもそもアンドロイドに未成年も何もない。MEIKOはミクたちに飲ませるわけではないし、ミクたちも飲みはしなかった。人の好物には手を出さない。ミクたちの間の暗黙の了解だ。
MEIKOとKAITOはお互いの好物を勝手に食べてお互い怒ってたことがある気がするが。
「あーじゃあ、誰かに酒臭いって言われたとか」
そこでリンが思いついたように人差し指を上げて言う。レンが納得したように頷いた。
「それはありそうだな。ミク姉もたまに言われてるだろ、ネギ臭いって」
「えええっ、私は…い、言われるけど、でもネギは臭くないよ!?」
「……まあミク姉にとってはそうなんだろうけどさ」
「私も言われることあるんだよー、ミク姉のネギの臭い何とかしろって」
「そ、そうなの……」
考えてもいなかったことを言われて少し動揺する。思わず自分の右手を上げてその匂いを嗅いだ。
袖口から僅かにいい匂い。やっぱり……臭くない。
「でも…お姉ちゃんってそんなに酒臭い?」
「うーん、人間とは違うからなぁ…おれはそんなに感じたことないけど」
「仕事前にそんなに飲まないしねぇ。そもそもMEIKO姉、今日もう仕事ないじゃん! じゃあ、やっぱり違うって」
そうだ。家族の前でそんな遠慮を今更するはずがない。第一ミクたちは気にしたこともない。……ミクのネギ臭さは、ひょっとして気にされてるのかもしれな
いが。
仕事の前でもないのに飲まない理由にはならないだろう。
また考え込んだ双子を見ながら、ミクはようやく、言おうと思っていたことを口に出した。
「……ひょっとして、さ」
首を傾げるリンとレンを見ながら、一日考えて浮かんだ結論をミクは口にす
る。
「……か、家計が、やばい、とか」
「……へ?」
「は?」
「だ、だって! お酒って高いじゃん! お兄ちゃんもいつも姉さんの酒代ばかになんないとか言ってるし」
「ああ、そうかなぁ…」
「それで、思いついて冷凍庫見たんだけど、お兄ちゃんのアイスも、何か安いのばっかだったし」
「兄ちゃんはあんまり高い安いは気にしないからなぁ…。っていうかそれならご飯なくした方がてっとり早くねぇ?」
「だよねぇ。私ら、別に食べなくてもいいんだし」
「……そ、そっか」
沈黙する。
一日考えて、思いついたときは青くなったその想像が間違っていたとわかってほっとする。だがしばらくして、レンが言った。
「あ、おれらには負担かけないように……とか?」
「……!」
「えー、ご飯抜くぐらい別にいいよー。みかんさえあれば」
「……姉ちゃんたちがそう思うかどうかは別だろ」
「………」
「………」
「わ、私、やっぱり聞いてくる!」
立ち上がったミクを、慌てて止めたのはレンだった。
「ちょっと待て、落ち着け。別にそうと決まったわけじゃないだろ」
「そうだよ、姉ちゃんがお酒止めたってだけかもしれないじゃん」
「だってお酒だよ!? リンちゃん、どんな理由があったらみかん食べるの止める?」
「う……」
「レンくんも! バナナ我慢できる!?」
「……この前バナナダイエットとか流行ったときは本気で食べらんなかったけど
な」
「そういうことじゃなくてー!」
思わず叫べば苦笑いを返された。
出来る……のかもしれない。
所詮好物は好物。食べなくても機能停止するわけではない。我慢しろと言われれば…我慢出来るのだろうが。
我慢の理由がない。
「……じゃあさ、兄ちゃんに聞くのは?」
「え?」
「兄ちゃんなら何か知ってる可能性高いだろ。知らなくて気付いてないなら、それはそれでそう言ってやれば何か聞きにいくだろうし」
「……そっか」
「じゃあレン行って来てー」
「おれかよ!」
「私らじゃごまかされるかもしれないし!」
「うん。何か隠してるなら私らじゃわかんないかも」
「……お前らが単純すぎるんだろうか」
言いながらもレンは渋々といった様子で立ち上がる。
「っていうか今兄ちゃん居るのか?」
「さっき帰ってきてたと思うよ。もうご飯いらないって」
先ほどまでキッチンに居たリンが言う。兄弟のスケジュールを思い出しながらミクも頷いた。
「じゃあ下か? 下、姉ちゃんたち居るんじゃねぇの?」
「あっ、ひょっとしたら今、何か話してるかも!」
思いついて、ミクが声を張り上げて言う。リンが慌てたようにその口を塞いできた。
「……よし、お前らそのまま喋ってろ。なるべく大きな声で普通の話な。おれが聞いてくる」
ぼそりと言ったレンはいつの間にか扉の前まで来ている。2階の話し声が1階に響くことはそうないが、耳を済ませられると聞こえる可能性は高い。扉を開ければ尚更だろう。
リンとミクは顔を見合わせた。
「ねー、ミク姉ー、この前ミク姉が歌った曲なんだけどさ」
「えー、どの曲ー?」
「ええとねー、あのー、あの! 恋の歌!」
「恋の歌多いよー」
「だからーあの」
「……ちゃんと考えて喋れよ」
呆れたレンの突っ込みが入ったが、それ以上は言わずレンがドアを開けた。リンとミクは張り切って演技を続ける。いつの間にか話に夢中になっていたが、大丈夫だろう。
レンがきっと何かを聞いてきてくれる。
「……何かうるさいわね」
「ドア開けっ放しなんじゃない?」
「テンション上がるようなことでもあったのかしら」
2階を見上げて呟くようなMEIKOの言葉にレンはどきどきしつつ、息を潜めて続きを待つ。
やっぱり不自然なんだよ、もうちょっと普通の会話しろ、と心の中で突っ込みつつ、今更戻るわけにもいかない。
リビングに居たMEIKOとKAITO。夕食を食べていなくても好物はとりあえず口にする兄弟だが、KAITOの手には何もない。MEIKOもまた、何も飲んでいなかった。
本当に家計がやばいのか、と一瞬考える。
だが最近仕事が減ったというわけでもない。ミクのその考えは、レンの中では早い内に否定されていた。
そもそも人間ほど光熱費だって要らない。冷暖房はつけずに済むし、風呂にだって入らない。メンテ費用と電気代がそれほど大きなことになってるとは思えない。レンも実際に家計にかかる金額なんて知らないが。
「……ねえ姉さん」
「何?」
しばらく2階を見上げて話していた2人だったが、KAITOが唐突に俯いて言う。
「……アイス食べたい」
「駄目」
即座にMEIKOが言った。声は硬かった。目的の話題になったのを感じて、レンも緊張する。
「……何で駄目なんだよ」
「……ごめん、我慢して」
僅かに責めるような口調のKAITOに、今度はMEIKOが俯いた。震えるような声で、搾り出すようにそう言う。
まさか、ホントに?
レンは無意識に拳を握り締める。2階の騒がしいリンとミクの声は、もう耳に入ってこない。
この、2人の間に流れる空気は何だろう。
俯いたMEIKOは、何かに耐えているようにも見える。
「姉さん……」
KAITOの声は、暗く、低い。
「罰ゲーム受けてるのは姉さんだけだろ!」
「だって何か悔しいじゃない!」
2人は立ち上がり、声を張り上げて言った。
……2階の会話も、止まった。
「一週間ぐらい我慢出来るって言ってたじゃんか!」
「だから! 我慢してるじゃないのよ! 一週間よ一週間! 一週間酒飲んでないのよ!」
「だったら堂々としててよ! 周りが好きに食べてたって気にすることないだ
ろ!」
「あーっ。待って! 違うの! 何か、KAITOのアイスと私のお酒はセットなのよ! いつもあんたがアイス食べるの見ながら飲んでたから……って、待ってっ
てば!」
立ち上がっていたKAITOは冷凍庫に向かっていた。台所の隅に隠れていたレンは慌てたが、逃げるのも間に合わない。
何より脱力して、力が入らなかった。
「……レン?」
「……よお」
「何やってるんだ、そんなとこで」
「いや……何ていうか……」
台所で足を止めたKAITOと、KAITOにすがりつくようにしてコートとマフラーを引っ張っていたMEIKOが、うずくまっているレンを見下ろしてくる。
見上げたレンは、苦笑いのような顔しか返せなかった。
「あんたまだ起きてたの? 今何時だと思ってるのよ」
MEIKOはごく普通にそう言ってくる。
「……ああ……うん、寝る……」
レンがゆっくりと立ち上がる。KAITOが2階を見上げた。
「そういえばミクたちももう寝たのかな? 声聞こえないけど」
「リンは帰るの遅かったからもうちょっと遊んでそうだけどね。レン、リンにつき合わされそうならKAITOの部屋にでも行ってとっとと寝なさいよ。あんた最近充電不足でしょ」
「あー、わかった、わかった」
普通の説教になってしまい、レンも逆にようやく気力を取り戻す。
手を振りながら2階へ向かい、ミクたちに何と言おうか考えていた。
多分、聞こえていたと思うけど。
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