練習
「あうっ」
がくんと足首が曲がって、リンはその場に倒れこんだ。
ぱっと体を起こして慌てて自分の足を目の前に引き寄せる。赤いハイヒールのかかとを軽く叩いてみるが、どうやら何ともないようだった。
「リンちゃん? 大丈夫!?」
「あ、うん。大丈夫大丈夫」
言いながらまた立ち上がる。壁に手を付き、足元を見つめたまま震えるリンを、ミクがはらはらと見つめていた。家の廊下でヒールで踊る練習中。ミクの後ろには階段脇に座り込むKAITOがいる。一応、ある程度慣れたところで男役と合わせようということで待機して貰っているが、その段階まで今日中に行けるかどうかはわからない。
一歩、一歩ゆっくりと歩く。しかも足元をじっと見ながら。顔を上げて、と何度もミクからアドバイスをされているが、気付けば俯き気味になっていた。足元を見たところで何かが変わるわけでもないのだが。顔を上げると転びそうになる。
難しい。
「……何でお姉ちゃんたち、こんなの出来るの」
バランス感覚にそう差はないはずだ。むしろそれで言うなら重い髪を頭の両端に垂らすミクの方が、動きの制限は多いはずなのに。
「……慣れ、かなぁ」
「でもミクはそんなに苦労したことなかったよね? 何かコツとかないの?」
横から口を出してきたのはKAITO。さすがにハイヒールでの踊り方となると、KAITOがアドバイスを出すことも出来ない。リンもじっと期待を込めた目でミクを見るが、ミクはううん、と唸ったまま考え込んでしまう。
「普通の…靴履いてる感じで…。あとはお兄ちゃんが支えてくれたから。実はたまに足浮いてるよ? あんまり足元は映されないし、頑張って力入れてとにかく引っ付いてれば何とかなるよ」
「ああ…踊るときやたら体重預けてくるのはそれか」
KAITOの呆れた声にミクは笑う。リンも何だか気が抜けた。リンが実際に踊る相手はレンだ。ほとんど身長差のないレンが、どれだけリンを支えられるだろうか。
真面目に考え込んで、さすがにそれではいけないと思い直す。そもそも、リンには一人で踊るシーンだってある。
「MEIKO姉は? MEIKO姉、お兄ちゃん以外と踊ったこともあるし、お兄ちゃん以外だとMEIKO姉支えられないよね?」
旧型であるKAITOとMEIKOは、見た目よりかなりの重量がある。普通の人間ではお姫様抱っこが出来ないと、スタッフが愚痴っていたのを聞いたこともある。踊る相手を支えるのはかなりの重労働だ。ならばMEIKO自身がしっかり自分でバランスを取っているのだと思うのだが。
KAITOはそれに首を傾げて、1度ミクを見た。
「さあ…。姉さんはおれが知ってる限りでは最初から普通に踊れてたし…。ああ、むしろ重いからなのかなぁ? 安定するとか」
「そ、そうかなぁ」
「あっ、じゃあ服に重り入れるとか、重り飲んどくとか?」
ミクは軽く乗った。しかも本気だ。重りを飲む…多分どうせ取り出せるのだから体の中に入れてしまえ、ということなのだろうが発想が怖い。
「今のままで踊れなきゃ駄目だよ、私より軽いミク姉だって踊れてるじゃん!」
「……でも私、お兄ちゃん相手じゃないと多分駄目」
「……ミクも一緒に練習したら」
KAITOの言葉にミクが情けない顔になった。アドバイスがあまり的確でないと思っていたが、ミク自身も苦手なのだろう。ハイヒール。
「じゃ、じゃあお兄ちゃんだって! お兄ちゃんもそういう仕事来たら出来なきゃ駄目でしょ!」
「……そうくるか」
「だよねー、お兄ちゃんなら来てもおかしくないよ! お兄ちゃんが『それは出来ません』とか言うの見たくないもん!」
半分本音で叫べばKAITOは困ったような顔をしつつも笑っている。
「おれのサイズに合うヒールとかなかなかないと思うけど」
「テレビ局ならそれぐらい作ってくる!」
「まあそうかもね、で、おれが踊れるようになってもリンたちには関係ないんだけど」
「う……」
「とりあえず練習しようか」
おれ見張りも任されてるから。
KAITOはさらりとそう言って二人を見る。別に逃げ出すようなことはないのだが、集中力がないため別のことに気を取られだすことがないように、ということだろう。早速脱線していたのに気付きリンは一つ息を吐く。
「わかった。レンが帰ってくるまでに絶対踊れるようになる!」
「頑張れリンちゃん!」
ミクは既に応援モードだった。
突っ込んでいる暇はない。
もう収録は始まっているのだ。いつまでも長引かせるわけにはいかなかった。
「うおっ」
がくん、と崩れた体を側に居たMEIKOが、さっと支える。腰を捕まれ一瞬上体が地面に向くが、すぐに戻された。だが上手く立つことが出来ず、そのままどさっとその場に尻餅をつく。レンは大きく息を吐き出して、そのままMEIKOを見上げた。
「……ごめん、ありがと」
「大分参ってるわね」
「こんなにきついと思わなかった…」
「別にリンがやってもいいんじゃないの? まあ何でも出来るようになっとくに越したことはないけど」
収録後のスタジオの隅で。レンはハイヒールを履いたまま次の収録の踊りを踊っていた。勿論実際にヒールを履いて踊るのはリンなのだが、途中リンとレンが入れ替わって、女装のレンが一人で踊るシーンがある。その部分はリンがレンの振りをするという話になってはいたが…出来れば、自分の役なら自分でやってみたい。
リンの負担を減らしたいという気持ちも、ないではなかったが。
「何かコツとかないの? すんげぇバランス悪いよな、これ」
「まあねー。ちょっと高めだしね。普通の女の子でもそれだけ高いヒールはそう履かないわよ。監督も変なこだわりあるんだから…。結局まあ慣れるしかないと思うんだけど」
「姉ちゃんも昔はこけたりした?」
「ノーコメント」
「……こけたんだ」
余計な一言を言えば睨まれた。しかしそれは少し勇気付けられる事実ではあった。今、華麗に踊るMEIKOにもそんな時代があったのだ。練習すれば、上手くなる。
「……女の子の方はね。男側に体重預けて任せちゃうって手もあるんだけど。ただ、まあ初々しい可愛さは出ても、あんまりかっこよくはないわね」
MEIKOの言葉にレンは頷く。
それはミクがよくやっていることだった。
ミクもヒールが苦手なのか、それとも組む相手が全てKAITOのためか、遠慮なく体重を預けていて微妙に振り回され気味だ。拙い足元は、場合によっては可愛くも見えるのだが。
「ミクの方は、まあKAITOが甘やかすのも原因ね。甘えられてることにも気付いてなさそうだけど。ミクも多分、その内KAITO以外と踊ったり、しっかりした女の子の役やったりして、ちゃんと踊ることになるんだから。その時になったら苦労するわよ。あの子は妥協はしたくないだろうしね。最初っからちゃんと踊れるに越したことはない」
「何が言いたいんだよ」
「リンを甘やかすなってことよ」
「…………」
やっぱり、そうだろうか。
そういうプログラムなのかどうか、どうにもレンもKAITOも女には甘い。身内だからという話ではない気がする。KAITOはレンには少し厳しいと思うのだ。レン自身もそれでいいとは思っているけれど。
「あんたに支えられて踊ること覚えちゃったらまずいしね。で、レンが練習しとくのはいいけど出来れば一人で踊るシーンはやらせなさいよ。リンの方がそういう役は圧倒的に多いんだから」
「……そうだな」
レンはちらりと壁際にかかっている時計に目をやった。収録が終わって随分経つ。そろそろ帰らないとリンたちが心配し始める時間だ。
「姉ちゃん、そろそろ帰りたくなったってことか」
「余計なこと突っ込むな」
MEIKOが笑って、レンもヒールを脱いだ。
MEIKOが先にスタジオの外へと向かう。
双子だから大変なことは分け合えばいいとは思うけれど、甘やかすのはそれとは違うのだろう。
「……でもなー……」
小さく呟きながらレンはMEIKOの後を追う。
単純に、かっこつけたいとも思う。
「……何やってるのよ、あんたら」
「あ……」
MEIKOとレンが帰宅して、真っ先に見たのは門の奥、玄関前で踊るミクとリン。二人ともヒールを履いている。ミクは自分では持っていなかったはずだが。まさか買ってきたのだろうか。
「KAITOは?」
「な、中…」
ミクがドアを指し示す。言ったと同時に、ちょうどドアが開いた。
「ミク、リン、いい加減姉さんたちが帰るから……あ」
言いながらMEIKOたちに気付いたのだろう。KAITOの言葉が止まる。何故か固まっている3人に、MEIKOは問いかけた。
「……何があったの」
「……ええと」
「今! 今踊りの練習中なの! ハイヒールって難しいよね!」
ミクがハイテンションに言ってくるが、乗ってやるにも難しい言葉だ。リンがおずおずとMEIKOたちの前に出てきた。レンが苦労していたのと同じヒールだが、危なげなく足元も見ずに向かってくる。練習の成果はあったのか。
「あのね……ハイヒールは、慣れるしかないんじゃないかってミク姉もお兄ちゃんも言ってて…」
「それは、まあそうね」
途切れかけた言葉に頷いて先を促す。リンがちらりと後ろを振り返った。
「だから…ハイヒール履いたまま普通に生活してみようって」
「……ちょっと待って」
MEIKOは思わずリンたちの足元に目を落とす。
元々室内で踊る用のものだが、そもそも廊下で踊るのも本当はどうかと思っていたのだ。慣れるためぐらいならまあいいかと…そして相手役がKAITOなら踊るときも下手に周りに被害は及ぼさないだろうと…そう思っていたのだが。
MEIKOは視線をリンからKAITOに移した。KAITOの目がそらされる。
「……レン、部屋見てきなさい」
「え、おれ?」
「あ、待って、まだ片付けが…あ、いや…」
KAITOの言葉にMEIKOはため息をついた。
部屋の中でヒールを履いて歩き回り、何らかの惨事があった。それは間違いない。
「……レン」
「……うん」
レンがミクとリンの間を通り、KAITOの横をすり抜けていく。KAITOが後ろ手に持っていたタオルのようなものがその瞬間こっそりレンに手渡された。2人とも目もあわせず、何の言葉も発しない。
「じゃあ、そこまでやった成果、とりあえず見せてもらいましょうか」
2人の行動には突っ込まず、MEIKOが一際大きな声で言うと、リンとミクが顔を見合わせた。
「うんっ」
「やる! やるよ!」
レンが戻ってくるまでには時間がかかるだろう。
これぐらいのフォローならやらせてもいい。
後でKAITOには怒っておこうと思いつつ、MEIKOは門に背を付いて2人を見守る姿勢になった。隣にKAITOがやってくる。
「……何で止めなかったの」
「いやぁ…いい案かなぁって」
凄く上手くなってるよ、と笑顔で言うKAITOには毒気を抜かれた。
まあ…それならいいか。
上手くなるには、少しぐらいの犠牲は必要なのかもしれないし。
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