別れ

「一ヶ月……ですか」
「そうです。多少の前後はあるかもしれませんが、大体それぐらいですね。その反応次第で、先ほど言ったツアーも考えてます、こちらは約半年の予定で、」
 熱心に喋るスーツ姿の男をぼんやり見つめながら、MEIKOは考えていた。
 海外デビュー、という話が来たのはそれほど前のことではない。英語歌詞の曲を歌い、プロモーションビデオを撮って、その後当たり前のように日本のテレビでそれが流れることもなく、それきり忘れていた。そのプロモーションが好評で海外からのオファーが殺到していると聞いてもMEIKOにはいまいち実感がない。
 日本の舞台で歌うのとは違い、生の反応がなかったからだ。
「勿論まだ正式に確定したわけではありません。確定しても、これからスケジュールを組むとなると…MEIKOさんはお忙しい方ですから早くても数ヵ月後……遅ければ半年以上はかかりますかね。その間にもう1本プロモーションを撮るという話も出てますし、こちらの方は出来れば早い内に、」
 次々と資料を重ねる男の、手の動きしか見れていない。
 説明された言葉は全て頭に入っているが、それに対する感情を沸かせる余裕がなく、男も反応の薄いMEIKOを窺うように言葉を止めた。
 海外に赴いてのプロモーション活動を一ヶ月。
 その評判次第で、半年かけての海外ツアー。
 最初に言われた言葉だけが、MEIKOの頭の中を回っている。
 それは、最低でも一ヶ月家を空けるということ。
 家族と離れ離れになるということだ。





 ぱきん、と高い音がしてミクは反射的に振り向いた。台所の奥で洗い物をしていたMEIKOの背中が見える。動きが止まっている様子に首をかしげながら近づくと、MEIKOは綺麗に真っ二つに割れた皿を見つめて固まっていた。
「……お姉ちゃん?」
 泡だらけの皿。洗っている最中に力を入れすぎたのだろうか。昔KAITOがよくやっていたが、MEIKOがするのは珍しい。軽くつついてみても、MEIKOは反応しない。
「お姉ちゃーん」
 少し大きな声で呼ぶとはっとしたようにMEIKOが顔を上げた。同時に滑り落ちる 皿。
「あっ」
 慌てて横から受け止めると、MEIKOはそれにも反応できていない。右手にスポンジを持ったまま、それを受け取ろうとしていた。どこかぼんやりしている様子にミクは少し不安になる。
「ねえどうしたの? 私がやろうか?」
 MEIKOはその言葉にもすぐには反応しなかった。そして突然気付いたように首を振 る。
「大丈夫よ、ごめん。ちょっと考え事あってね。それよりミク、あんまり近づくと泡が飛ぶわよ?」
「えー、泡なんて別に……」
 言いかけて気付いた。
 ミクはいつもの如くネギを持っている。今、右手で皿を受けたので左手で胸に押し当てるように抱え込んでいる。一応食べ物だ。ミクたちは泡を食べたところで何ともないだろうが、気分的な問題としては泡がつくのは嫌だ。慌てて体を引いたミクをMEIKOが笑う。MEIKOは水で軽く割れた皿の泡を流して、そのまま台の上に置いた。ミクはそれを見つめながら、まだ何か言うことがあった気がしてその場を動けない。そこへ今度はリンとレンが台所へ入ってきた。
「あ、マジだ」
「ねー言ったじゃん! レン、最近耳悪くなったんじゃないのー?」
「おれはテレビ見てたんだよ、っていうかこの割れ方だとあんまり音しなかった だろ」
 ずかずかと入り込んで割れた皿を前に喋る二人。何となく、ここへ来る前の会話の予想は出来た。皿の割れる音を、リンのみが聞きつけたのだろう。そして二人は更にMEIKOとミクを見て今度は驚いたように顔を見合わせた。
「あれ……ひょっとして割ったの姉ちゃん?」
「私もお姉ちゃんだよ!」
「ああ、MEIKO姉?」
 ミクの突っ込みはさらりと流して、レンがMEIKOを見上げる。MEIKOは苦笑いで頷いた。
 自分が割ったと思われていたのかとミクは一人憤慨する。
「最近お姉ちゃん、何かぼーっとしてない? メンテ行った?」
 そんなミクには気付かず、リンは心配げにMEIKOを見つめていた。
「原因はわかってるから大丈夫よ。ちょっと考えてることがあってね」
「……その原因っておれらには言わないんだよな」
 レンが断定するように言うとMEIKOは困ったように眉を下げる。
「まだ考え中だからよ。その内言うわ」
「考え過ぎてぼーっとするぐらいなら誰かに相談しろよな」
 レンはそう言って割れた皿を手に取ると、軽く水を拭いて辺りを見回した。リンが心得たようにリビングに走っていく。皿を包む新聞か何かを取りに行ったのだろう。
 ああ、ミクが言いたかったのはまさにそれだとレンの言葉に力強く頷く。どうせ相談相手は兄なのだろうけれど、ミクたちだっていつでも聞く覚悟はある。
 リンが台所に戻ってきたとき、MEIKOがぽつりと呟いた。
「そうね…。じゃあ一つ聞いていいかしら」
「え」
 驚いた声を上げたのはレン。ここで話されるとは思わなかったのだろう。ミクも同様だ。驚きに目を丸くしていると、更に驚きの言葉をMEIKOは続けた。
「あんたたち……私が居なくなったらどうする?」
 ぱきん、と派手な音がした。
 レンの持っていた皿が更に割れた音だとは、そのときは気付かなかった。





 質問の仕方を間違えた。
 MEIKOは台所の椅子に座ったままため息をつく。
 聞きたいことはそれだったが、ミクたちは当たり前にパニックに陥った。居なくなるなんて嫌だ、考えられない、居なくなっちゃうの、居なくなったら泣く。
 騒ぎまくっていたのは主にミクとリンだが、レンもショックを受けていたのは見ればわかった。例えばの話、と念を押してみたものの、MEIKO自身の迷いが出たせいか不安げな顔は変わらなかった。
 そして夜。
 ミクたちは既に2階の自室で眠っている。眠っているはずだ。MEIKOの耳に、話し声や騒ぐ声は聞こえてこない。だけどMEIKOたちVOCALOIDはその気になれば息だって完全に消せる。人間と違って、完璧に動きを止めることだって出来る。実は耳を澄ませていたって、わかりはしない。
 ぎしっ、と階段をゆっくりと下りる音が聞こえてMEIKOは顔を上げた。
 手にしたワンカップは、もうほとんど残っていない。
 次のを取りに行くべきかと思ったとき、台所にすっと影が出来た。その大きさだけでもすぐにわかる。
 KAITOだ。
「……遅かったわね」
「そうくるか」
 来ることは予想していたからずっと待っていた。
 その言葉を聞いてKAITOは苦笑いしながらMEIKOの正面まで来て座る。そして迷いもせずすぱっと切り出した。
「で、何を悩んでるの?」
「……直球ね」
「レンに蹴られたよ。早く聞いて来いって。ここまでくるとおれも気になる」
「まだ答えが出てないのよ」
 どちらにせよ、大事なのは自分の意思だ。この弟はそれを後押ししてくれるだけだろうと思う。だからまずは、自分がどうしたいか決めなければならない。
 だけど、その答えが出ないまま数日が過ぎ、いい加減見ている方が黙っていられなくなったのだろう。MEIKOもさすがにここ数日の失態は反省している。思ったよりも動揺が表面に出ている。そろそろ何とかするべきだとは思っているのだが。
 MEIKOの言葉にKAITOは少し笑って続ける。
「そうくるとは思ってたんだけどさ。姉さんが数日考えて、答えが出ないって言うならそろそろ外の意見も聞くべきじゃない?」
「今日聞いたわ」
「それについてはおれも凄く突っ込みたい」
 KAITOは少し間を置いて、真剣な目になって言った。
「……どこかに行くの?」
「……決まればね」
 MEIKOはため息をつく。
 もうこれ以上隠しておくこともないだろう。
「海外でのプロモって話があってね。最初に一ヶ月。その反応次第で半年のツアー。つまり居なくなるって言っても最大で半年と一ヶ月よ」
 そんな大げさなものじゃない、と続けようとして言葉が止まった。KAITOが、何故か頭を抱えてしまっている。
「……どうしたの、KAITO?」
「……予想外だった」
「そりゃまあ、私も驚いたけど」
 どうやら悩みに引きこんでしまっただけのようだ。
 だけど次の台詞は想像ができる。
「で、姉さんがどうしたいかは……考え中ってわけなんだ」
「そうよ」
 答えなんかくれない。
 それは自分で考えるものだと、MEIKOは思っているし、KAITOたちにもそう教えてきた。相談したところで、そう返ってくるのがわかっていたから意味もなかったのだ。だからせめて、自分の答えを出してからと。
 だけどKAITOが次に意外な言葉を口にする。
「姉さん」
「何」
「行っちゃ嫌だ」
「は……?」
 間抜けな声が出た。
 目をぱちくりさせているMEIKOに、KAITOが笑う。冗談を言っているときかと怒りかけたがそれより前にKAITOが言った。
「あのさ、おれらの気持ちはまあ、誰に聞いても『行っちゃ嫌だ』だと思う」
「……そんなの、」
「だけど姉さんが行きたいなら……ホントにどうしてもって言うなら……『嫌だけど、応援する』だよ」
「だから」
「行きたいんでしょ」
 ずばりと言われて今度こそ固まった。
 行きたい。
 行きたいのか私は。
「…………」
 黙ってしまったMEIKOにKAITOは何も言ってこない。
 行ってみたい、その気持ちは確かにあった。海外用に撮ったあのプロモが評価されたというなら尚更だ。
 だけどMEIKOの悩みのもとは、家族のこと。家族が嫌だと言えば、行きたくはない。なのにそれを聞こうとしなかったのは……嫌だと、言われたくなかったからか。
 本音はそうだ。
 試してみたい。
「………KAITO」
「うん」
「一ヶ月、居なくなってもいい?」
「嫌」
「……」
 即答されて、頭を抑えて言い直す。
「……どうしても行きたいの」
「………………じゃあ、応援する」
 間を置いて答えたKAITOは、本当に嫌そうな顔をしていてMEIKOは思わず噴出 した。
「出来れば一ヶ月で終わって欲しいんだけど」
「ああ、それは私に評価されるなってことね?」
「やっぱそうなっちゃうかなぁ」
 KAITOが苦笑いで頭をかくのを見ていると、頭上でどたばたと音がした。ミクたちか。やはり起きていたらしい。階段近くで息を潜めていたなら、ここの会話も聞こえていただろう。特に小さな声で話した覚えもない。
「レンくんっ、離してよっ!」
「馬鹿、行くな! お前絶対嫌だとか言いに行くだろ!」
「嫌だー! 絶対嫌ー!」
「私だって嫌だよ、でもお姉ちゃんが行きたいなら一ヶ月ぐらい我慢して……一ヶ月ぐらい……一ヶ月……やっぱり私も嫌だー!」
「ちょ、待てリン!」
 どたばたと暴れる音は、レンが二人を抑えようと必死なのだろう。二人より力はあるとはいえ、二人分抑えられるとも思えない。いずれどちらかがここへ向かってくるだろう。
「……姉さん」
 2階の様子を、見えもしないのに眺めていたKAITOが、視線を戻さず問いかけてく る。
「何よ」
「おれたちみんなで、やっぱ嫌だって言ったら考え直す?」
「もう無理。決めた」
「………うん」
 2階の音がぴたりと止んだ。
 暴れながらも、こちらに耳を向けてはいたらしい。
「……ごめんね」
「……一ヶ月、おれたちだけでどうにもならなかったらもう一回考え直してみ る?」
「一ヶ月程度でどうにもならなくなるなら、あんたたちへの考え方を考え直すわ」
「……だよねー」
 それでも残るのは、MEIKO自身の家族と離れたくない思い。
 MEIKOだって、寂しい。
 だけどKAITOにここまであからさまに嫌がられたら、そこは言えなくなる。
 狙っているわけではないだろうが結果的に後押しされてMEIKOは苦笑いを浮かべた。やっぱり、相談すれば何とかなったのか。
 弟妹たちが静かに階段を降りてくる音を聞きながら、さてまずは何を言おうかとMEIKOは考えていた。


 

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