女子

 鏡と、手の中のそれと、自分の顔と、何度も見比べながらレンはため息をつく。いつまでもこうしていても仕方ない。ああ、やっぱりこんなことなら自分でやるとか言わなければ良かった。
 顔を上げて時計を見る。随分悩んだように思ったが、それでも10分程度だった。
「レン、早くしないと時間ないよ」
 横からKAITOが声をかけてくる。
「……うん」
 思わず素直に頷いて、少し驚かれたようにKAITOに振り向かれた。そのKAITOの顔に目をやって、レンは俯く。
「レンー?」
 直視できない。化粧をした兄の顔は正直……不気味だ。前髪をピンで留めているし、マフラーも外している。普段とは印象の違う外見で、それでも兄の声を出している。何と言ったらいいのだろう。この違和感。
「やろうか?」
 KAITOの顔が近づく。レンは迷った。そもそもどうしていいかわからないのだ。ドーランぐらいなら塗ったことはあるが、化粧の仕方などわからない。それにやはり…口紅には抵抗がある。何とか逃げられないのだろうかと再び考え始めたとき、楽屋の扉が勢いよく開いた。
「……来たね」
「……来たか」
 ミクとリン。既に化粧をして衣装もきっちり着込んでいる。ミクは意外なほど大人びて見えたが、リンはやっぱり子どもの化粧にしか見えない。自分もやればきっとああなる。そのリンは真っ先にレンに目をやって、予想通りの反応を示した。
「あー! 全然やってないじゃんっ! もー、だから私がやるって言ったの に!」
「お兄ちゃんも終わってないー。着替えもまだ?」
 ミクはKAITOの方に向かった。何も言わずにKAITOの手から口紅を取り上げる。そしてじっとKAITOの顔を見つめてにんまり笑った。
「み、ミク?」
「動いちゃ駄目!」
 左手でKAITOの頭を押さえると、ミクが口紅を塗り始める。直視できなかったため気付かなかったが、KAITOも口紅はまだだったらしい。KAITOは諦めたように大人しくそれを受けていた。ミクは嬉しそうに言う。
「化粧は私の方が上手いんだからね!」
 それはそうだろう。イロモノの多いKAITOとはいえ、口紅を塗ることなどほとんどない。少なくともレンは見たことがない。
 ミクの化粧の手つきが意外に器用で、やっぱりこういうところは女の子かなぁとぼんやり見ていると突然ぐきっと自分の視界が回転した。リンだ。
「はいはい、見てないでレンもやるよ」
「う……」
「自分でやるって言っても駄目。やれなかったじゃん」
 口にしかけた言葉は先回りで封じられる。
「こ、これからやるとこ」
「とか言っても駄目。もー、まだ何も出来てないじゃん。時間ないんだからね!」
 リンは机の上を見もしないで手を伸ばし、的確に化粧品を掴んでいく。レンもKAITOと同じように、諦め気味に目を閉じた。どうせいつかはやらなきゃならない。リンにされるのなら多分マシな方だ。ミクは危なっかしいし…いや、今そうでもないと証明はされたが、正直怖い。MEIKOが一番いいかもしれないが別の意味でどきどきしそうだ。姉弟だから別に変な気持ちはないとはいえ、目の前にあの胸がくると破壊力がある。
「出来た!」
 今は目を閉じてるから関係ないかな、とレンが思っていたとき、背後でミクの声が聞こえる。KAITOが立ち上がる気配がした。これから着替えだろう。ああ、そうだ。今回は女装だ。女の服を着るのだ。
「はぁ……」
 思わず出たため息にリンの手が止まった。目を開けると少し不満げに唇を尖らせるリンの姿。
「何だよ」
「人に化粧してもらいながらため息やめてよー。可愛く出来ないよ?」
「そっちかよ」
「レンってやっぱ私と似てるよね」
「当たり前だろ」
「あんま違和感なくて良かったじゃん」
「は?」
 そこでリンは視線をずらした。楽屋の奥。衣装に着替えるKAITO。せめて、ゆったりした服なら体型がごまかせると思うのに…ぴったりした服は男のラインが丸分かりだ。というか何で上着をはだけてるんだ。シャツも何も着ないのか。あれではどうやっても女には見えない。
「……お兄ちゃんは、もうはなからああいう路線みたいだし。レンは逆にあっちの方が無理あるもんねー」
 リンの言葉は複雑だ。男の無理矢理な女装で笑われる方がいいのか。女の子に見えると言われる方がマシなのか。正直……前者の方がいいかもしれない。むしろ笑ってくれ。そしたらおれは芸人になってやる。
「はい、終わりー」
 あれこれ考えている間にいつの間にかメイクは終了していた。早い。リンもかなり手際が良い。感心していると、リンはそのまま化粧品を机の上に放り出しレンの手を引く。次は着替え。だけど放置された化粧品が気になった。片付けぐらい、と思うが確かに時間もないし、そんな場合でもない。
 気付けばリンがレンのネクタイに手をかけていた。
「ちょっ、待て、着替えは自分で出来る!」
「え、これできる?」
「は?」
 ネクタイを外し、上着を脱ぎながら疑問を返せば、リンが広げたドレスの後ろを示 す。
 背後のチャック。確か、リンも一人で着るのに苦労していた。
「じゃ…そこだけ…」
 さすがに脱がされるのは勘弁だ。ちらりとKAITOに目をやれば既に着替えは終了したのか、落ち着いた笑顔だった。不気味だが。
 そのとき部屋がノックされ、パンツ一丁のレンは少し部屋の奥へと移動する。それでも入り口から隠れる場所ではないが。
「入っていいー?」
「姉さん?」
「あ、お姉ちゃん」
 MEIKOか。
 少しほっとして、それでもレンは急いでワンピース式のドレスを身に着ける。……着てない方がマシか、ひょっとして。
「どうしたの?」
 返事より先に、ミクが入り口に駆け寄り扉を開けた。ミクたちと同じく、着替えもメイクも終えたMEIKOが中に入ってくる。
「これ」
「これ?」
「姉さん…その格好で廊下歩いてきたの?」
「誰にも会わなかったから大丈夫よ」
 何だ?
 レンも気になってMEIKOに近づく。リンがその背に張り付いてチャックを上げていた。同時に気付く。MEIKOのドレスも同じように後ろにチャックがついている。そしてそれがほとんど閉められていない。背中が大きく露出するデザインの服というのはあるが、チャックが閉まらずにはだけているのは、それとは随分印象が違う。大丈夫、と言ったMEIKOに何か言いたそうな顔をしたKAITOだったが、それはレンも同じだった。
 MEIKOが椅子に座り、ミクがそのチャックに手をかける。だが、動かない。
「……あれ?」
「動かない?」
「……うん」
「やっぱり。力の入れ方おかしいのかなと思ったんだけど…壊れてるのかしら」
「何か噛んでるんじゃない? ちょっと見せて」
 KAITOがMEIKOの後ろに立つ。ああ、やっぱりあの格好で普通に喋らないで欲しい。まだオカマ喋りでもされた方がいいような気がする。
「? 別に引っかかってはないかな…?」
「でも動かないのよ」
「無理矢理上げちゃって大丈夫?」
「……壊れない程度にお願い」
「難しいな……」
 KAITOがチャックを握ったまま止まっている。そしてレンに目を向けてきた。
「な、何だよ」
「レン、これできる?」
「え?」
「おれだと壊しそう」
「加減ぐらいできるだろ」
「ううん……」
 KAITOがちょっと上に上げる。すぐに引っかかった。少しずつ力を入れているようだが、見ていてももどかしい。だがKAITOの力で引っ張れば下手するとドレスごと千切れる可能性はある。仕方なく、レンはKAITOをどけてMEIKOの後ろに立った。大きく開いたドレス。そもそもが、それなりに力を入れないと閉まらないのだろう。レンもリンの着替えを手伝うことがあるからわかる。そのときより…少し力を入れて。
 レンが集中していると扉をノックする音が聞こえる。ああ、もう本番だ。
「レンくん急いで!」
「壊しちゃったら着替える時間ないんだからね!」
 リンの言葉はこの状況で余計すぎる。だが突っ込んでる場合でもない。
 レンは思い切りそのチャックを引っ張った。





「女って面倒くさいな」
 レンの呟きにきょとんとした顔を向けてきたのはKAITO。収録も終わり、再び楽屋に戻っている。化粧も落とし、服も脱ぎ、パンツ一丁のままレンは楽屋に寝転がっていた。窮屈な衣装と気持ち悪い化粧からの開放感を、まだしばらく味わっていたい。
「ええと、それはどういう意味で?」
「服とか化粧とか」
 MEIKOの衣装は、何とか何事もなく済んだ。本番にも間に合った。だが、それに油断してレンは気付かなかった。レンの衣装のチャックが、きちんと最後まであがっていなかったことに。リンもMEIKOに気を取られていたのだろう。動き回って背中が開き、結局NG。まだリンたちじゃなくて良かったとは思うけど。
「あいつらいつもあんな面倒な衣装とか着てんだろ」
「いつもってわけでもないけどねぇ。ああいうややこしい衣装を着る舞台だと、男側も結構面倒くさいでしょ」
 レンって鎧つけたことあったっけ。
 化粧を落としさっぱりした顔になったKAITOがレンの隣に座り込む。ズボンははいているが、まだ上半身は裸のままだった。
「鎧…あー、あるかな。あれは全部やって貰ったけどな。リンたち全部自分でやるんだろ?」
「まあ化粧ぐらいはやれるよね」
 さすがに敵わなかったな、おれもちょっと化粧の勉強しようか。
 KAITOの呟きには今度はこちらが敵わないという気分にさせられる。意外に負けず嫌いな面もあるのだ、この兄は。どこで負けたくないと思うのか、その境界がレンにはよくわからないが。
「……凄いよな」
「実感した?」
「おれら、男だけが出来ることって何だろ」
「力じゃない? レン、チャック上げたでしょ」
「それは何か違う」
 むしろあれは力の強さより力加減が必要だった。だからKAITOはやらなかったのに。
 レンはふと、そこでいまだ机の上に広げられたままだった化粧品に目を留める。服も着替えず片付け始めるとKAITOが背後から声をかけてきた。
「レンは結構几帳面だよね」
「は?」
「リンとかミクとか片付け苦手だからなぁ。あと姉さんも」
 そうなのか。
 リンは確かにそうだが。
「化粧は敵わないから、化粧してもらったらレンが片づけるってことにしたら?」
「何でだよ」
 別に役割分担に悩んでいたわけでもないのだが。
 純粋に、自分たちに出来ないことを軽く、それも常にやっている女性陣に驚いただけだ。特にミクに。
「ミク姉も女なんだなぁ」
「……それ本人の前で言ってみる?」
「ちくんなよ」
 どうしようかな、と笑うKAITOにレンは軽く足を上げて蹴り真似をする。女の子を、侮っちゃいけないのだ。色んな意味で。


 

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