遠慮はいらない

 煙草の煙が揺れる。
 青い髪の男は笑ったようだった。
 口にくわえたままだったそれをゆっくりと指で挟み、目の前の写真に押し付け る。
 じゅっ、と写真の人物の顔が潰れた。
「……誰に言ってるんだ?」
 薄く笑った顔に浮かぶ残酷な表情。薄暗い部屋の中。写真を挟み、正面に座った人物が怯んだように体を引く。
 そのまま煙草を投げ捨てて、男は立ち上がった。首元の青いスカーフを窮屈そうに軽く引っ張る。同時に室内に光が満ちた。突然開いた扉から一人の少女が男に向かって真っ直ぐに駆けてくる。長い髪をなびかせて、必死の表情で向かった少女は、男の冷たい視線に自然と足を止めた。
「わ、私……」
 男は何事もなかったかのようにその少女の側を通り過ぎる。少女が、慌てて振り向いた。
「待って……!」
 男にすがりつくように両手を伸ばす。男が腕を振り上げ、少女は反射的に目を瞑った。
 振り下ろされるはずの手は、そこで止まる。
 そのまま、二人は、時が凍ったように動かなかった。





 扉の前で、MEIKOは中の気配を窺う。音は聞こえてこない。ノックをしようと右手を上げて、ゆるめた拳が扉を叩く寸前にふと思い直した。
 取っ手にゆっくりと手を伸ばす。そこから先は早かった。素早く回して中へと飛び込む。部屋の真ん中で扉に背を向けて椅子に座るKAITOが、音に気付いて振り向くより早く、MEIKOはその姿を目に留めた。
「姉さん……」
 机に突っ伏していたKAITOはすぐに顔を上げ、MEIKOを情けない顔で見上げてくる。MEIKOは何も言わず、KAITOの隣の椅子を引くと、完全にKAITO側へと向けて、座 った。
「えっと……」
「まずは言いたいこと言ってみなさい」
 話を聞く体勢になっているMEIKOにKAITOが戸惑い気味の視線を向ける。だけどMEIKOがそう言えば、すぐさま答えが返ってきた。
「慰めて」
「嫌」
 予想の範囲外の台詞だったがMEIKOは即答する。KAITOがため息をついた。
「……おれのこと、殴って」
「…………」
「…………」
「…………」
 MEIKOは表情を崩さず瞬きだけを繰り返す。
 本当に、この男の言動は予想が付かない。
「……何かに目覚めた?」
「は?」
 きょとん、とした顔を向けられて、今度はMEIKOがため息をつく。
 順番に、思い出そうとした。
 先ほど撮影を終えたミクと会った。正確には終わったわけではない。KAITOのNG連発で、進まなくなったのだと聞いた。KAITOがNGをするのは珍しい。一体どんな撮影なのかと思ったが、ミクの言葉は要領を得なくてよくわからない。KAITOが途中で止まってしまうのだと。演技を止めてしまうのだと、そう聞いた。
「……何で止まったの」
 そこまで思い出して聞く。
 前後の流れは全くなかったが、KAITOは理解したのか俯いた。
「……姉さんは、おれを殴れるよね」
「だから何でそっちに行くの」
「おれ、ミクを殴れなかった」
「は?」
 KAITOは自分の握った拳を見下ろしている。そのときふと、KAITOから漂う独特の匂いに気が付いた。
「煙草吸ったの?」
「そういう役だったから」
「どういう役よ」
「悪役」
 一言でいって、自分で首を傾げる。
「多分」
「……自分の役の理解もしてないわけ」
「悪役だよ」
「いきなり言い切るな」
 と言うか、そんなことはどうでもいいのだ。MEIKOは目をそらすKAITOの前に拳を突き出してみる。すぐに、焦点がMEIKOの右手に合った。
「ミクを殴る役だったわけね?」
「……うん」
 なるほど。
 漸く理解して、今度はMEIKOもその動きを止める。
 ミクを殴れないと進まない撮影。
 つまり、MEIKOに言えることは「殴れ」というその一言。
 だけどMEIKOも思う。
 多分、自分も殴れない。
「……何でかな」
「何ででしょうね」
「そういうプログラム組まれてるのかな」
 KAITOが軽く自分の頭に拳を当てた。コツ、という音は頭の中の金属に響く音。アンドロイドである自分たちは、滅多なことで壊れることはない。手加減が出来ないわけでもない。ミクを殴ったところで、ミクが実際に傷つくわけでも壊れるわけでもない。痛みすら感じない。まして、撮影なのだからミクにだって覚悟がある。
 それでも。
「……難しいわね」
「プログラムなら修正してもらえば何とかなるかなぁ」
「ミクを殴れるように、なんて修正して欲しくないわ」
「おれだって嫌だよ」
 どうしよう、とKAITOがまた机に突っ伏した。話を聞いて、励ましに来たというのにMEIKOも何の役にも立てなかったようだ。頭の中でシミュレーションをしてみる。それでも、自分がミクを殴るイメージがわかない。
「……KAITO」
「ん?」
「その場面、KAITO…のやってる役は、どういう気持ちでミクを殴るの」
「……うっとうしい…かな」
「うっとうしい…」
 想像する。
 うっとうしいと思うこと。
 ナンパ。
 ああ、これはKAITOには理解できないかもしれない。
 しつこいファン。
 うっとうしいときもあるけど、殴りたいなんて思うはずもない。
 考え込んでいると、廊下からばたばたと音が聞こえてきた。部屋の前で止 まる。
「ん?」
 KAITOも気付いたのか、MEIKOと同時にドアに目をやる。ばたん、と勢いよくそれが開いた。
「お兄ちゃん!」
「ミク姉、ちょ、ちょっと待てって!」
「ミク姉落ち着いて!」
 強い目をして入ってきたのはミク。両腕に双子をぶらさげている。双子が、すがるようにMEIKOを見てきた。何だ一体。
 MEIKOが立ち上がる。ミクはそれには目もくれず、KAITOの前に歩み寄る。KAITOは椅子に座ったままミクを見上げた。
「お兄ちゃん」
「………はい」
 何を言われるのかわからないKAITOが慎重に答える。ミクと一緒に引きずられてきていた双子は、いつの間にか手を離していた。MEIKOも黙ってそれを見守る。
 ミクが右手を振り上げた。思い切り高く。
 何をするつもりかわかったMEIKOは思わず息を呑む。
 そこから振り下ろされたその手をKAITOがぱしっと掴んだ。
「あ……」
「あ……」
 双子が同時に声をあげる。ミクとKAITOもしばし固まった。
 ミクの右手を握ったまま見上げるKAITO。右手を振り下ろしたまま、KAITOを見下ろすミク。
「……ごめん」
「……空気読みなさいあんた」
 思わず謝ったKAITOには呆れた声しか出ない。KAITOが手を離せば、ミクの手はそのまま静かに下ろされた。ミクは怒ったような、泣きそうな複雑な表情でKAITOを見ている。
「私は、」
「うん」
「殴れる」
「……うん」
「……そういう役なら、何でもする」
「うん」
「お兄ちゃんだって…っ……そう、でしょ!」
「…………」
 KAITOが俯いた。MEIKOは何もいえない。KAITOだって、そう信じてたはずだ。それが自慢ですらあったはずだ。
 KAITOの演技が止まってしまう理由が、ミクにはわからなかった。おそらくリンたちから話を聞いて──ショックを受けた。自分と同じだと信じていた兄の演技が、崩れたことで。
「で、でもさ」
 沈黙を破ったのは、ミクから一歩引いた位置にいた双子。
「殴るとか、そんなんは…何か、別っていうか………嫌だろ」
 言葉に迷うように視線を彷徨わせていたレンが、最後はきっぱりと言う。ミクがじっとレンを見つめた。怯んだレンに、横からリンが口を出す。
「レンは私が相手でも殴れない?」
「は?」
「私、レンは殴れるよ」
「何だよいきなり、おれだってお前ならいくらでも殴れる!」
「やってみる?」
「やるか?」
 睨みあった双子にMEIKOがぽかん、としているとミクが再びKAITOの方を向 いた。
「ミク、あの……」
 ミクは黙ってKAITOのマフラーを掴む。
「ミク?」
 そしてそのままKAITOを椅子から引き摺り下ろした。
「ちょっ……」
「何やってんのミク!」
 バランスを崩したKAITOが倒れ、ミクがその上に乗りかかる形になる。双子もさすがに睨みあいを止めてそちらを見た。
「お兄ちゃん!」
「……はい」
「喧嘩しよう!」
「……はい?」
「何か、嫌だ。優しいだけじゃやだ。私もあれやりたい!」
 ミクが振り向きもせずに指したのはリンとレン。二人が顔を見合わせる。
「私は、子どもで、女で、力もないけど! 同じアンドロイドだもん!」
 ミクの言葉はよくわからない。だけど、KAITOは少し真剣な顔になって体を起こす。左手で体を支え、右手をミクの前に突き出した。
 何をするつもりかと思わず緊張して見守る。
 ミクが。
 その拳に頭突きした。
「ええっ?」
 驚きの声を上げたのはMEIKOだけだった。
 KAITOはその拳を今度はミクに当てる。ごつん、と。大した威力はなくても、はっきりと。ミクが少しのけぞった。
「あのね、ミク」
「うん」
「妹とか女の子とか、お兄ちゃんや男は簡単に殴れない」
「うん」
 いつの間にかKAITOの中で結論が出ている。KAITOがため息をついた。
「でもごめん」
 ミクが、探るような目でKAITOを見た。
「同じ歌手で、役者だよね」
 お兄ちゃんが悪かった。
 KAITOははっきりそう言った。
 ミクがぱっと笑顔になってそんなKAITOに抱きつく。
「……どういうこと?」
 レンとリンが、MEIKOの側にやってきた。
「対等に扱って欲しいと思ったミク姉と…」
「それを一部分でだけ肯定したKAITO兄、かな?」
 双子が呟くようにそう言う。
 ああ。
 MEIKOは納得して頷いた。
 自分も思考を停止してしまってただけらしい。





 ばしっ、とスタジオに響く音。
 倒れた女が顔を歪ませて男を見上げる。
 それでも男は、冷たい表情のまま、女を見ることすらせず去って行く。

「酷いって思う?」
 撮影を眺めていたMEIKOが聞いてみると、双子は不思議そうに首を傾げる。
「そりゃ思うよ」
「だってそういう役じゃん」
 憎まれてなんぼの役。
「……そりゃそうよね」
 遠慮なんか、しなくていい。


 

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