撃退
見られている。
確認するまでもなく、強く感じる視線をリンは意識する。だけど目を向ければはっきりと逸らされた。
……見られるのは、別にいいんだけど。
リンは今度はじっとその男を見続けてみる。こちらを見ようとすれば、1度ぐらい目が合うはずだと思う。
「リンちゃん、前向いて」
「あ、はい」
注意されてしまった。
リンは仕方なく、視線の主を意識から消して歌に集中する。だけど、やっぱり落ち着かない。
視線なんて、害のあるものじゃないのに。
歌も上手くいかず、リンはどうしていいかわからない。
一旦休憩にしてもらおうかなぁ。
そんなことを考え始めたとき、視界の端で男が去っていくのが見えた。
「お疲れー、リン」
「お兄ちゃん!」
何とかOKが出て、スタジオを飛び出してみれば、そこにあったのはKAITOの姿。予想外のことに思わず笑顔になりつつ駆け寄って、ふと収録中の出来事を思い出した。
「お兄ちゃん…いつから居た?」
「ん? さっき来たとこ」
呑気に答えるKAITOだが「さっき」の感覚がわからない。時計に目をやったが、リン自身集中していたため、どれくらい前の出来事だったか思い出せない。
KAITOと共に廊下を歩きながらリンは聞く。
「お兄ちゃん、今日休みだっけ」
「このあと仕事。寝てたらレンに叩き起こされたよ」
暇ならリンのとこ行ってこいって。
KAITOが苦笑いでそう言う。
何となく様子が想像出来て、リンも笑った。
「……あの人は? 来てた?」
「お兄ちゃん気付いてなかった?」
「え?」
視線の主は、以前リンにセクハラを仕掛けてきた男。今日の仕事で一緒になる予定だった。次にあんなことがあったときは遠慮するなとは言われていたし、するつもりもなかったが、ただじっと見られるという、こちらからは動きようのない行動は予想外だった。それでも、KAITOが来たのに気付いたのだろう。男は途中でスタジオから去った。どうやらKAITOは見ていなかったらしいが。
「んー、とりあえず何もないよ。何かあったら今度はちゃんと殴るってば」
「いや、なるべくそれは最終手段にしてよ。開き直ってボーカロイドが暴力振るうとか言い触らされてもまずいし。一度脅しかけたんだから口で言えば大抵は引くって」
「じゃあ言ってこようかなぁ」
「……何かされたの?」
「されたってわけじゃないんだけど……」
KAITOの声が少し真剣になったので、リンは手を振って軽く返す。やっぱり意識過剰だ。見られるぐらいなら別に構わない。見られる仕事をしているのだから。
リンは一人頷いて、納得してなさそうな顔のKAITOに笑顔を向ける。このままレンに伝えられるとまた怒るかな、と何か言い訳を考えようとしたとき、またあの視線を感
じた。
「どうしたの?」
思わず振り返ったリンにKAITOも足を止める。
視線の先には、誰もいない。
「……何でもない」
ひょっとしたら、全て気のせいなのだろうか。リンの方が気にしすぎなのだろ
うか。
振り返った状態でそんなことを考えていたリンをKAITOがじっと見つめる。そして突然リンのヘッドフォンに触れてきた。
「何?」
「これね、貰ってきたんだけど」
「え?」
KAITOの右手に見慣れない小さな装置。KAITOがリンのヘッドフォンを操作してインカムを取り出す。戸惑っていると、それを取り付けられた。
「防犯ベル代わり。この状態で大声出すととんでもなく響くから。あ、普通に使うときは外してね」
「ええ、こんなのいるの?」
「まあ人を直接傷つけずに撃退するならちょうどいいよ。やっぱり人に手を出すのは良くない」
「えー何で急に」
「……めーちゃん怒られてたみたいだから」
KAITOが苦笑いで言った言葉にリンは驚いてKAITOを振り向く。KAITOは内緒だよ、と言うように人差し指を口に当てていた。
「……わかった。なるべく人を傷つけないように!」
「そうそう。おれらアンドロイドなんだから」
「これつけて大声出せばいいんだよね?」
リンはそう言うとKAITOの返事を聞く前に思い切り息を吸い込んだ。
柱の影。先ほど視線を感じた位置をちらりと見る。
「わああっ!!」
最大値で大声を出す。
どさっ、と何かが倒れる音。
建物が、震えた気がした。
「……リン」
「ごめんなさい」
「いや……まあ、ここまでとは思わなかった」
突然の大声には、側に居たKAITOすらダメージを受けた。リン自身も余韻が響いてしばらく耳が使い物にならなかった。
防犯ベルなんてレベルじゃない。
「どうしようか」
柱の影には、確かに男が居た。
感じた視線が間違いではなかったのには少しほっとしたが、その男は間近で聞いた音で気絶してしまっている。傷つけては……いないのだろうか。
リンが不安げにKAITOを見上げると、KAITOは何も言わず男を抱えた。
「とりあえず病院でも連れてっとこうか。血も出てないし、鼓膜は大丈夫かな? まあ……これで近づくこともなくなるんじゃないかな」
「……病院行くの? お兄ちゃんこれから仕事でしょ」
「……ぎりぎり何とか……」
「私が行こっか」
「駄目だよ、っていうかおれがレンに怒られ、」
「何やってんだ?」
「え」
予想外の声がそこで響いた。
レン。
走ってきたのか、髪が少し乱れている。レンは気絶した男に目をやると、次にKAITOを見た。
「そいつ何かやったのか?」
「やる前だったと思うけど……ああ、やったって言うならリンかな」
「さっきの声か。声出すようなことされたのか?」
「されてないって。ちょっと試しに出してみただけ。……こんなに凄いと思わな
くて」
リンの言葉にレンは深いため息をつく。ひょっとして、声を聞いて駆けつけてきたのだろうか。それにしては早いから、仕事終わってすぐこちらに向かっていたのかもしれないが。
「とりあえず病院連れて行こうと思っ」
「そいつさ、結構しつこいので有名だってこの前聞いたんだよ。隙見せたらやばい
ってよ」
レンは強い口調でリンの言葉を遮る。そしてそのまま男の腕を取る。
「レン? レンが持つのはちょっと無理……って引きずるな!」
腕だけ取って歩き出したレンをKAITOが慌てて止めた。レンは不満そうな顔をするが、目が笑っている。わざとだ。
「痛……たた……」
そのとき、男が目を覚ました。咄嗟にKAITOがリンと男の間に立つ。レンが乱暴に腕を振り落として、男は驚いたように尻をついたままあたりを見回した。
「あ……はは……」
KAITOとレンに見下ろされ、乾いた笑いをあげる男。リンもその顔が見たかったが、姿を見られたくもなかったので、兄のコートの影でじっとしている。やがて男は立ち上がり、口の中で何やらもごもごと言って去って行った。
「……いいの?」
「もう、あいつと関わる仕事は全部断れよ」
「そうだね。めーちゃんに言っとく」
レンとKAITOの間で話がまとまる。
勝手に決められるのも嫌だったが、提案自体には同意したかったので黙ってお
いた。
リンは先ほど取り付けられた装置に手をやる。声で撃退、というのはボーカロイドにはなかなかいいような気がした。
「……だからって私には必要ないわよ?」
「いや、むしろめーちゃんにこそ付けて欲しいんだけどね」
その日の夜。昼間の出来事を話しながら、KAITOはミクにその装置を渡していた。残った一つをMEIKOに差し出せばあっさりと断られる。そもそもMEIKOにはインカムが付いていないので、専用のヘッドフォンからの取り付けになるのだが。
「でもお姉ちゃんは強いよ?」
「強いから困るんだよ、怪我させたらまずいでしょ」
「……まずいの?」
「…………めーちゃん」
ミクがきょとん、として言った言葉にKAITOはため息をついてMEIKOの方を見た。MEIKOはそっぽを向いている。そこは、教えてやるべきところだと思うのだが。
「ミクは思い切りやったところでそう簡単に怪我させないわよ。人間より多少強いってぐらいだし」
「めーちゃんは」
「加減はわかってるから大丈夫」
「前におれのヘッドフォン壊したのめーちゃんだよね」
「あんた相手に加減する必要ないじゃない」
「え、お兄ちゃん、お姉ちゃんにセクハラしたの!?」
「あははははは!」
「何でそうなるんだ」
驚きの声にはMEIKOが笑い声を上げ、KAITOは頭を抱える。ミクの頭の中で暴力の理由=セクハラになってるのだろう。これは教育が悪い。実際そう変わったものでもないが。MEIKOのKAITOへの暴力は突っ込みだ。本人的には。
「とにかくまあ、持ってるだけ持ってたら。何か三つくれたんだし、めーちゃんのだろ」
「私のならヘッドフォンもセットでくれるでしょ。これ、レンのじゃない?」
「レン?」
「あ、そうか。レンくんもセクハラされるかもしれないしね!」
「あー……そういう人も居るんだっけ……」
「居ねぇよ」
「あ、レンくん」
突然レンが会話に割り込んできた。いつの間にリビングに来ていたのか、KAITOは気付かなかった。レンは呆れたような顔をしながらソファに座る。
「リンも言うけどさ、おれはショタって年齢でもないぞ。っつうかマジでそんなのが居たら殴らせてくれ。大声で撃退とかそっちのが恥ずい」
「ああ、まあねー」
「まあ受け取るだけ受けとっといたら。痴漢相手じゃなくても何かしら役に立つことはあるでしょ」
「遠くに居る敵やっつけるとか!」
「ああ、いいねー」
「何よ敵って」
ノリノリで手を挙げたミクに賛成しているとMEIKOに突っ込まれた。
撃退と言われるとそういう発想も浮かぶ。
レンもそう言われると満更でもなかったのか、大人しくそれを受け取った。
「ああ、でも二人とも加減は気をつけてね。しばらく耳鳴りがして大変だったから」
「使えるんだか使えねぇんだかわかんないな、それ」
「でもリンちゃんはちゃんとやっつけたんでしょ」
「あー……何ともなけりゃいいけど」
「むしろ懲りてりゃいいけどな」
レンはやはりまだそちらの方が心配らしい。
もう仕事が一緒になることはそうないだろうが、今度は言われる前に付いてい
こう。
KAITOは一人そう考えていた。
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