お使い
買い物袋がずしりと重い。
ミクはそれを自分の目の前にかざし、満足げに頷いた。初めてのお使い。きちんと、終えることが出来た。にやけそうになる顔を抑えて、ミクは何とか表情を引き締める。そしてもう1度買い物袋と、それから肩にかけた小さなバックに入った財布を確認した。持たされたものはこれだけだ。なくさないよう注意しろと言われたこともきちんと思い出せた。
ミクは買い物袋を右手に歌いながら歩き出す。もう1人で買い物に行ける。早く帰って報告したくて、次第に小走りになっていく。そのときふと、歓声のようなものが上がって足を止めた。VOCALOIDの聴覚は鋭い。少し遠い、と思いつつも行けない距離ではないとミクはつい、好奇心からそちらに足を向ける。大丈夫。もう買い物は終わってるのだから。
深く考えることもなく声の聞こえた場所に向かい、中学生ぐらいの男の子たちが座り込んでいるのを見つけた。興奮して何かを覗き込んでいる。
「ねえねえ、それ何?」
駆け寄って笑顔で問えば、ぎょっとしたように振り向かれた。首を傾げる暇もなく突然立ち上がった男の子たちが走り出す。
「え? ちょっと、」
追いかけようとしたが、ばらばらの方向に走っていった数人を、どう追えばいいかわからず、おろおろしている内に姿が見えなくなってしまった。
「……何でー」
別に、邪魔する気だったわけじゃない。
せめて何か言ってくれたら良かったのに。
不満を口に出しながら、ふと男の子たちが見ていた場所に目を向ける。地面だった。ミクもよく蟻の行列などを座り込んで見ているから、その類かと思ったのだが。
「あれ……本?」
そこに散らばっていたのは数冊の雑誌。しかもかなり汚い。開いているものはなかったが、立ち上がるときのばさばさした音は、これを閉じた音だろう。ならば、これを見ていた
のだ。
ミクは買い物袋を地面に置くと、その雑誌を拾い上げる。草や土が付いて汚れているどころか、破れているものや濡れているものもある。
「……どうしよう」
急に声をかけたので驚いて忘れて行ってしまったのだろうか。
これは忘れ物というのか落し物というのか。
悩みながらも、ミクはそれをしっかり両手で抱える。
とりあえず、帰ったらお兄ちゃんたちに聞いてみよう。ミクのせいで忘れてしまったのなら、ちゃんと届けてあげたい。
そのことで頭がいっぱいになったミクは、その場に買い物袋を置いたまま、家の方角へと歩き始めた。
「あーあ……」
KAITOはため息をつきながら、その買い物袋をひょいと持ち上げる。絶対に買いたくなるだろうからと1本だけ許したネギが2本入っている。そこまでは、怒るところではないと思えた。わざわざ頼んでいないアイスを買ってる辺り、気にしてはいるのだろう。
しかし。
「……何拾ったんだミクは」
何やら両手に抱えたまま歩くミクの後ろ姿を見つめる。あまり近づくと気付かれてしまうので、ある程度距離が出来てから追いかけるつもりだ。
ミクの初めてのお使いは、当然KAITOの尾行付きだった。
それを知れば悲しむだろうが、やはりミクを一人にするわけにはいかない。
誘拐されたのも、ウイルスを仕掛けられたのも、そう昔のことではないのだ。
ミクの後ろ姿が小さくなって、KAITOはゆっくりと歩き出す。買い物袋は途中でたまたま拾ったとでも言えばいいだろう。思っていると、MEIKOから通信が入った。
『KAITO? 今どこ』
『もう家に着くよ』
『買い物はどう?』
『買い物袋忘れて行った』
『………』
『ミクが家入ってしばらくしてから帰るから。あ、これ元のとこに置いた方がいい?』
『そうね…探しに行くかもしれないし、あ、でもそのときミク一人になるわ。とりあえずミクが帰るの待つわね』
『ミク、何か拾ったみたいだよ』
『何を?』
『さあ。そっちに夢中になって買い物忘れたみたい』
『……犬とか猫じゃないでしょうね』
『それはないと思うけど。遠目だけど雑誌かっぽかった』
『雑誌……』
『あ、もう付く』
話している間に、家が見えるところまで来た。真剣な顔付きのミクが両手に何かを抱えたまま家へと小走りで向かう。KAITOはそこで足を止めた。
あとはMEIKOの報告を待とう。
買い物袋を目の前まで持ち上げる。
……アイスは溶ける前に食べてしまっていいだろうか……。
「…………」
「…………」
「ね、ねえ……」
黙りこむMEIKOとレンの前でミクはびくびくとその顔を見上げる。玄関まで迎えに来てくれた2人は、ミクの持つ雑誌を見て固まった。
「これ……拾った、んだけど」
両手に抱えた雑誌を凝視され、落ち着かない。胸元から離すようにそのまま2人の足元へ投げるように置いた。ミクはまだ玄関から上がっていない。
「これ見てた人たち、私が驚かせちゃったの。だから、返しに行きたいんだけど」
自分はまた何か間違ったのだろうか。
反応のない2人に怯えていると、リビングからもう1人やってきた。リンだ。
「どうしたのー。あ、ミク姉お帰りー」
「ただいまーリンちゃん!」
漸くまともな会話が出来てほっと息をつく。リンは笑顔で近づきながら言った。
「買い物どうだった?」
「え?」
今度は、ミクが固まる番だった。
買い物。
そうだ、買い物に行っていた。
おそるおそる、ミクは自分の両手を見下ろす。何も持っていない。当然だ。持っていたものは今、廊下に放り出した。そして買い物袋は……。
「あっ」
「ちょっと、待ちなさいミク!」
忘れてきた!
ミクは慌てて玄関を飛び出す。せっかくの初めてのお使いなのに。やっぱり上手く行かなかった!
泣きそうになりながらミクは必死で駆ける。どこだっけ。どこに置いたっけ。
拾った場所も覚えてないんじゃ、落し物をちゃんと返しに行くことも出来ない。
そのことにも気付いて今度は叫びそうになった。がむしゃらに走って、突然何かにぶち当たる。
「わっ」
「ひゃっ……」
視界が真っ暗になった。しかし、同時に聞こえたのは誰よりも馴染みのある声。
「お兄ちゃん!」
「ミ、ミク……どうしたの?」
少し焦っているような兄の姿には気付かず、ミクはその体にしがみついた。
「買いっ物、あの」
情けない。
せめて兄にだけでもきちんと買い物をしてきたと思われたかったのに。
上手く言葉を紡げないで居ると、ああ、と納得したようにKAITOが頷いた。
「これ?」
「え……」
KAITOがミクの前に持ち上げたのは、確かにミクが先ほどまで持っていたはずのもの。
「……何で」
「落ちてた…っていうか置いてたのかな? さっきたまたま見つけたんだ。ミクが買った分だろ? あ、アイス食べちゃったごめんね」
「あ、アイスは…お兄ちゃんのだからいいよ……! 良かったぁ!」
とにかく、なくさずに返ってきたことにミクは素直に喜びの声を上げる。突っ込みどころのあるKAITOの台詞には勿論気付かない。KAITOが苦笑して、その袋をミクに持たせた。
「はい。今日これを持って帰るのはミクの役目でしょ」
「う、うん。うん!」
右手にずしりと来る重み。重いものを持つのはいつもは兄の仕事だけど。任されるのだって悪くない。
「これ取りに行ってたの?」
「え?」
「凄い勢いで走ってたでしょ」
「あ……うん。……せっかく買い物までは上手くいったのに。駄目だね私…」
「何かに気を取られてたんでしょ?」
「取られてた?」
「あー……何かあったんでしょ?」
「あ、そうだ! あのね、中学生ぐらいの子たちが落し物してね。届けてあげようと思ったんだけど…」
ミクがそこで、自分が驚かせてしまったことや落としていったものについて語る。KAITOは頷きながらも、少し表情を曇らせる。
「……お兄ちゃん?」
「それ……雑誌だったんだ」
「うん。そんな感じ」
「中…は見なかった?」
「だって人のもの勝手に見たら怒られるでしょ」
「……そうだね。うん、偉いよ」
KAITOは何故か苦笑いで褒めてくる。
「とりあえず帰ろうか」
「……落とした人わかるかなぁ」
「わかるといいね」
右手に買い物袋を提げたミクは無意識に左手でKAITOの手を取る。家に帰るときまで気付かなかったが、やっぱりこの体勢が一番落ち着くと思った。
「落とし主見つかったよー、とか言って適当に捨てちゃっていいんじゃない? 元々捨てられてたもんだろうし」
「まあ、この汚れ具合はそうだよなー。むしろ元のとこ置いといた方がいいんじゃね? 拾いに来るかもしんないし」
「それをまたミクが見つけちゃうと問題だなー」
考え込むKAITOはふと、自分を見上げているレンを見た。
「レン、要る?」
「要るかっ! 別に興味ねぇよ!」
「……そうなの?」
KAITOがぱらぱらとそれをめくる。ミクの言葉があるまでKAITOも気付かなかったが。予想通り、それはエロ本と呼ばれる類のもの。当然というか何というか、ミクにはそんなこともわからない。
「……要る?」
KAITOの側に来て覗き込んできたレンにもう1度聞いてみると、レンは一瞬言葉に詰まったあと、別に、と今度は小さな声で呟いた。
「……で、どうすんだよ。捨てるんならちゃんとミク姉にわからないように、」
「ちょっとあんたら」
レンの言葉を遮ったのはMEIKOだった。ソファに座るKAITOとレンの後ろにいつの間にか仁王立ちで立っている。レンが慌てたようにKAITOから離れた。
「あ、姉さん。これどうしようか」
「どうしようかはいいから、とりあえずここで相談するの止めなさい」
MEIKOがKAITOの手からそれを取り上げた。ここはリビングだ。MEIKOの言葉はもっともだ。だが今、ミクとリンが2人で2階にいることを考えるなら、そこから離れた場所の方がいいような気もするが。
「それと、レンにこういうもの見せるんじゃないの」
MEIKOがKAITOの頭を軽く小突く。軽くと言っても、人間なら倒れてるレベルじゃないかと思うが。慣れているのでKAITOはそれには突っ込まない。
「何で、おれが駄目なんだよ。父さんとか普通にエロ本放置してたぞ、家ん中」
レンもまた、突っ込んだのはMEIKOの台詞の方だった。口を尖らせる様子にMEIKOが一瞬きょとんとしてレンを見る。
「……あの男は……」
そして低い声で呟いて頭を抱えた。KAITOが笑い出した。
「まあ、レンたちの方はそういう教育方針だったみたいだし。……そうだなぁ、ウチもこういうのどうしたらいいか決めるべきかも」
「ミクにはそういうことは教えない。これはもう決定事項でしょ」
「……それでいいのかなぁ」
純粋仕様で育てられるアイドル。しかし人間の欲を知らないということは、その危険にも気付かないということだ。それについては過去に何度も考えたが、やはりまだKAITOの中には迷いがある。
「あんたが守ってあげればいいでしょ。今までずっとそうしてたんだから」
「最近おれも忙しいし」
「おれだって守るよ! リンだって!」
突然のレンの叫びにKAITOとMEIKOは驚いたようにそちらを見る。
「……レンは、いいの?」
「何が」
「ミクが、あのまんまで」
『ガキ』なミクに一番複雑な思いを抱いていたのは、間違いなくレンだったはずだが。
「だから、知るまで。わざわざ教えなくても、そういうのって自然とどこかで知るもんだぜ?」
「……それは嫌なこと聞いちゃったな」
KAITOは苦笑する。
「そういえば私も教えた覚えないのに、あんた知ってたわね。私はマスターから教わったけど」
「……まあ、ほら、おれは成人男性タイプだし。……でも子どもタイプでもありかなぁ、やっぱり」
「ミク姉、外見は言うほど子どもじゃないだろ」
「まあそうね。とりあえず……気を付けてはいてよ。一度知っちゃったらそのメモリだけ消すことなんて出来ないし、自然と知る分には仕方ないって…納得してもらえるように」
「それって情報から守ってる振りはしろってことだよな」
「大人の世界はいろいろ面倒なのよ」
それじゃ、そっちは適当に処分しといてよ。
MEIKOは切り上げるようにそう言うと持っていたエロ本も投げ出し、手を振りながら2階へ向かって行った。ミクに知らせに行くのだろう。結論は、そういうことらしい。
「じゃ、捨ててくるか。さすがにこの家じゃまずいしね。レン、一緒に行く?」
「行くかっ」
「だよねー」
KAITOは笑いながらソファの上に散らばったそれをかき集め、台所へ向かった。さすがにむき出しで捨てに行くわけにもいかない。袋に入れながらふと思いついてレンに問う。
「レンのお父さん、こういうの読む?」
「……頼むから素直に捨ててきてくれ」
女性と同居中にはまずいのかな。
KAITOは何となくそう思って袋を片手に家を出た。よく見れば、今日ミクが行ってきたスーパーの袋だ。次は問題なく買ってこれるといいなと思いながら、KAITOはあてもなく
歩き出す。
中高生ぐらいの男の子に会ったら、あげてしまった方がいいだろうかと思うKAITOも、実際のところまだまだ理解は薄い。
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