「お疲れー」
「あー、カイト兄ィ」
「大変だったね」
「まだ終わってないよー」
 うんざりしたため息をつく2人に苦笑を返し、KAITOは持っていたペットボトルをレンたちに向ける。レンは無言で奪うとそのままリンへと回した。
「もー、あの人NGばっかなんだもんー」
「少しは一人で練習してこいってんだよなー」
「そういうことあんまり大きな声で言っちゃ駄目だよ。それに、レンたちはまだ疲れてないでしょ?」
「肉体的にはそうでも、精神的に疲れる」
 リンがペットボトルの水を半分ぐらい一気に飲み、そのままレンへ渡した。KAITOがレンの横に来ると、2人は黙って座っていた椅子から僅かに腰を上げてKAITOのスペースを開ける。
 KAITOが座るとレンが飲み干したペットボトルを返してきた。
「休憩どれくらいって言ってた?」
 聞いてきたのはレンだ。
 一旦休憩と言われて2人はとっとと休憩室に向かってしまったので、詳しい話はKAITOが聞いている。だが、はっきり返せるものでもない。
「んー、10分ぐらいって聞いたけど、多分20分はかかるかな」
 今日、リンとレンはある歌手のコーラスのために呼ばれている。歌手とは言うものの、本業は俳優のようであまり歌は上手くなく、どちらかと言えばフォローの役目。コーラスの収録自体は終わっているのだが、歌手のフォローのために何度も繰り返し歌わされているため、歌手の収録が終わるまで帰れない。
「今日、帰るの朝かもな」
「まあ覚悟はしてたけどねー」
 レンとリンは再びため息をついた。
 あまり、スタッフの人には見せられない姿だ。
 文句も言わず長時間の仕事に付き合えるのがボーカロイドのいいところだと言われているのに。この2人は不満も平気で口に出す。勿論、人目をはばかってはいるの だが。
「KAITO兄ィは? いいの、朝までいて?」
「ん? おれは明日の仕事はないから大丈夫だよ」
 ボーカロイドのいいところのもう一つは、こうして子どもの姿をしたものでも深夜まで拘束できることだろう。それでも、スタッフたちは保護者名目のKAITOたちが居た方が安心するのか、なるべく夜中の収録などには付き合っている。ミクと違って、この2人は2人だけにしておいても大丈夫なので、本当に形式的なものでしかないが。
「もういっそ、KAITO兄ィが声真似してあの歌手のパート歌ってくんねぇ?」
「あはは、ホントに参ってるねレン」
「正直私も真剣にそう思う」
「駄目だよ。それじゃ意味がないでしょ」
 半ば本気の顔をする2人はとりあえず笑い飛ばす。これぐらいでめげていては、この仕事は務まらない。
 説教でもしてやろうかと思っていたとき、耳元で慣れた雑音が聞こえた。
「? KAITO兄ィ?」
「ごめん、ちょっと通信みたい」
 レンたちとの通信の相性の悪さはいまだに改善されていない。
 KAITOがレンたちから少し離れると、ようやくクリアな声が聞こえてくる。
 ミクだ。
『お兄ちゃん!』
『ミク? どうした?』
 ミクは別の仕事があったが、もうとっくに家について寝ている時間だ。切羽詰った声に、少し緊張する。
『お、お姉ちゃんとマスターが……! 倒れてて……!』
『え……』
 一瞬焦りの声が出だが、すぐに思い当たって息を吐く。落ち着いた声で、ミクに言った。
『ミク……。そこはリビング?』
『う、うん』
『周りにビンとか缶とか転がってない?』
『あ、ある!』
『うん…なら大丈夫。クーラーついてる?』
『ついてる!』
『じゃあマスターに毛布か何かかけてあげて。おれもすぐ帰るから』
『わかった!』
 元気良く答えたミクに、ついでにもう一つ仕事を与えておく。
『あと、ビンとか缶とか。一まとめにして台所に持って行っといてくれる?』
『うん! お姉ちゃんたち大丈夫? 起こしても起きないの』
『大丈夫。よくあることだから』
 それじゃ、とKAITOは通信を切る。部屋に戻ると双子が窺うような視線を向けてき た。
「ごめん、ちょっと今日は帰る。マスターが家に帰ってるみたいでね」
「え? ……お父さんも?」
 リンがちょっと驚いた声を出したが、次に気にするのは、やはり自分たちのマスターのこと。KAITOは首を傾げた。
「そういえば何も言ってなかったな。あ、そっか、あの人に迎えに来てもらえば良かったのか」
「喧嘩でもしてんじゃないだろうな」
「まあありえるけどねー」
 とりあえずミクが不安がってるから帰る、と言えば双子は少し複雑な顔になる。
「戻れるようなら戻るから」
「いいよ、別に。おれら元々2人だけでやってたんだし」
「そーだよ、KAITO兄ィとか居なくても平気」
「それもそれで寂しいなぁ…。まあ、連絡は入れるから休憩のときにでも携帯チェックしてよ」
 ひらひらと手を振ってKAITOは外へと向かう。スタッフに軽く挨拶だけしてそのままタクシーで家へと向かった。
 MEIKOとマスターが酔い潰れるまで飲む。
 昔はよくあったけれど、ミクが来て以来随分減っていた気がする。
 マスターが同棲を始めてから、と言うなら多分初めてだ。
 ああ、単純に……MEIKOとマスターが2人きりになる機会が減っていただけか。





「うわぁ……」
 リビングに入るよりも前に、台所の惨状にKAITOは声を上げた。
 台所は、リビングの手前にあり、廊下からでも中に入れる。
 机の上に並べられた大小様々なビンの数は、多分KAITOが今まで見た中で一番 多い。
「お兄ちゃん、お帰りなさいー!」
 言われたことをきちんとやってのけたミクはにこにことKAITOに向かってくる。KAITOが軽く褒めると、それでも嬉しそうにミクの口元がにやけた。
 だがすぐにはっとしたように表情が引き締まる。そしてKAITOの腕を掴むとそのままリビングまで引きずっていった。早足のミクに躓きそうになりながらKAITOはリビングへ入る。薄暗い部屋の中、机に突っ伏すようにして眠っているMEIKOが見える。少し辺りを見渡して、床に倒れこんでいるマスターが見えた。ミクに言った通り、しっかり体には毛布がかけられている。
「マスターがね、顔…顔見たら」
 ミクはそんなマスターの側まで近づきもどかしげに手を振る。顔を指す様子に、KAITOも一緒に覗き込んで気が付いた。
「泣いてる…よね」
 薄暗い中でも、台所からの光に照らされはっきり見える涙の跡。目元も僅かに濡れている。柔らかく閉じられた目も、困ったような泣き顔。心配げにおろおろするミクに、KAITOは苦笑して優しく言った。
「大丈夫。マスターは単なる泣き上戸だから。お酒が入ると泣いちゃうんだよね」
「マスター……悲しいの?」
「……まあ、悲しいこともあるのかなぁ。愚痴を言って泣くのも人間には必要なんだよ」
 実は、KAITOもよくわかってはいないけれど。
 これも全て姉の受け売りだ。
 KAITO自身、初めて飲んでいるマスターを見たときは、泣きながら酒を呷る姿に驚いた。当時のマスターは音楽家としては全く評価されず、科学者としての誘いをただ断り続ける日々だった。
 今でも、それは半分変わってないのだが。
「ふーん……」
 わかったのかわかっていないのか、ミクはマスターの顔を覗き込んだまま不思議そうに首を傾げている。
「でも、嫌だな。マスターが泣いてるの」
「……うん」
「愚痴って、私でも聞ける? 飲まなくても大丈夫?」
 次に出た質問の意図は、聞かなくてもわかる。どう答えるべきか迷っていたとき、低く呻くような声が聞こえてきた。
「あ」
「姉さん?」
 ゆっくりと体を起こしたMEIKOは、頭を押さえ、不機嫌な目でKAITOたちを睨みつける。何度か瞬きしたあと、ようやく覚醒したのか、視線が柔らかくなった。
「何であんたがここにいるのよ」
「姉さんたちが酔い潰れてるから。どうしたの今日は。マスター来るなんて言ってなかったでしょ」
「あー……喧嘩したらしいわ」
「……まあそんなとこだろうね」
 音楽者として、科学者としての悩みに加わった恋の悩み。
 相談相手は、やはりMEIKOしかいないだろう。
「あ、あのねお姉ちゃん」
 それでも諦めたくないのか、今度はMEIKOに質問を投げかけようとしたミクに、MEIKOはぽん、と手をかける。
「悪いけど。マスターの愚痴聞くのは私の特権。私の愚痴聞くのはKAITOの役目」
「いや、ちょっと」
 MEIKOはそれまでの会話を聞いていたのか。ミクが何か言うより早くそう言い切っ た。
「KAITOの愚痴は私が聞く。あんたの愚痴は私とKAITOが聞くわ。だから、あん たは」
 リンとレンの愚痴。
 MEIKOの言葉に、ミクは目を瞬かせた。
「あんたももうお姉ちゃんでしょ?」
「うん!」
 嬉しそうに笑うミク。KAITOはため息をついて脳内通信を開く。
『丸め込んだね』
『いーじゃない。私もそれがいいわ』
『じゃ、おれの愚痴聞いてくれる?』
『おやすみー』
『姉さん!』
 ばたん、と本当にそのままスリープモードに入ってしまうMEIKO。もうぴくりとも動かない。
「お姉ちゃん!?」
「大丈夫大丈夫、寝ただけだから」
 慌てるミクを軽く押さえて、かがみこんでいたKAITOは体を起こす。
 とりあえず2人を寝室に運ぼう。
 片づけはともかく、せめて寝るときぐらい寝室に行ってくれたらいいのだが。
 MEIKOの体重は冗談じゃなく重い。KAITOもそうだが、旧型は見た目よりかなりの重量があるのだ。
 まあそれも、自分への甘えだと思うと結局何も言えない。KAITOは、そのために作られたのだから。
「あ、ねえねえ、ビンとか、あのまんまでいいの?」
「あー……そうだね。蓋が開いてて残ってる分は捨てて洗って、ゴミ箱に。仕分けはわかるよね? 蓋が開いてないのは棚に仕舞ってて」
「蓋が開いてないのはないよ」
「……うん、じゃあ全部捨てて」
 一体どれだけ飲んだのやら。マスターはすぐ酔う割に、かなりの間飲み続けるので酒豪ではあるのだろう。
「じゃあお願い」
 まずはマスターの体を抱えると、ミクが頷いて台所へ駆けていく。
 そうだ。今は、こうして甘えも愚痴も分け合えるのだ。
 寂しいのか嬉しいのか、少し複雑な気分になりながら、KAITOはマスターの部屋へと向かった。


 

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