それぞれの困惑
今日も遅くなった。
仕事があるのはいいことだけど、家に居る時間が少なくなるのは寂しい。ミクはタクシーを降りるとすぐさま家に向かって駆け出す。タクシーの料金は兄が払っているはずだ。いつものことなのでミクは振り返りもせずに扉を開けた。
「………あれ?」
ただいま、と言いかけた口が中途半端に止まった。替わりに出たのは疑問の声。自分が感じた違和感の正体がわからず、ミクは少し辺りを見回した。家に居るはずの姉を呼びたいのに言葉にならない。ミクが戸惑っていると後ろからKAITOがぽん、と肩に手を置いてきた。
「……お兄ちゃん?」
「マスター、帰ってるみたいだね」
「あ……」
違和感の正体は、その見慣れない靴。
ミクたちのマスターは家に帰ってくることが滅多にない。作曲に集中したい、開発に集中したいと何かと理由をつけては家を出る。ミクは生み出されてから本当に数えるほどしかマスターに会ったことがなかった。
「挨拶……いや、今はいいか」
KAITOがミクを促しかけて──止めた。ミクはそれに少しほっとする。マスターに会っても何と言っていいかわからない。ミクは音を立てないようにゆっくり靴を脱ぐと静かに二階へと向かった。いつもならまず一階のリビングに向かう。そしてMEIKOに一日の出来事を報告する。だけど今は多分、MEIKOはマスターのところに居るから。
KAITOも同じことを考えているのか、リビングには向かわずミクに着いて来た。
「今日は泊まってくのかな」
後ろでKAITOが呟くように言う。マスターにとってはここは自宅のはずだが、何となく来たときはお客さん扱いだ。ミクにもその気持ちはわかった。
「帰ってきたばかりだよね…?」
「多分。早くに来てたなら姉さんから連絡あっただろうし」
二階に上がって、そのまま廊下で立ち止まった。ちょうどこの下辺りだろうか。マスターが居るのは。
もっとも防音設備のしっかりしているその部屋の音は、ミクたちがどれだけ耳を済ませても聞こえてこないのだが。
「……明日、顔合わせるかなぁ……」
「そのときは挨拶ぐらいしないとね」
KAITOは笑ってそう言うと自室へ戻る。ミクは黙ってその後ろについていった。
「ミク?」
「まだ寝る時間じゃないよ」
「……まあ、そうか」
リビングで話をしたり、テレビを見ている時間帯。
1階には居られない。
この気まずさは何なのだろう。
人見知りしないミクは、マスターにだけ感じるこの気持ちの意味が、わからなかった。
「ミクは?」
朝起きて、1階に向かうと待ち伏せのようにMEIKOが居た。KAITOより先に起きていることは珍しい。この場合、多分寝てないのだろう。挨拶よりも早いMEIKOの言葉に苦笑してKAITOは答える。
「寝てるよ」
「起こさなかったの?」
「寝た振りしてる」
「なるほど……」
KAITOは起きて着替えを済ませたあとはとりあえずミクを起こしに行くのが日課になっている。ミクには仕事のない日がほとんどないし、なるべく朝起きて夜眠る人間の生活を行わせたいからだ。KAITOが入ってきたとき確かに反応していたはずのミクは、目をぎゅっと瞑ってシーツを握り締めて、KAITOがいくら呼びかけても起きようとはしなかった。仕事の時間帯まではまあいいかと思ってそのまま降りてきたのだが。
KAITOはMEIKO越しに玄関へ目をやる。当然あると思っていたマスターの靴はなかった。
「あれ……」
「ちょっと出てるわ」
KAITOの疑問を即座に理解して、MEIKOはそう言う。そしてそのままリビングへと向かった。KAITOは何となく2階を見上げて呟く。
「帰ってくるんだ」
「多分ね」
MEIKOは振り返りもしない。MEIKOなりにミクの態度は気になってるのだろう。わざわざ待ち伏せたのは聞きたいことがあったからか。KAITOが何度か玄関を振り返っていると、前方でため息が聞こえた。
「……あんたも気になるの?」
「え、何が?」
「マスターのこと。あんたたち二人ともマスターがいると落ち着かないじゃない。一応親なのよ。避けるような態度はよくないんじゃない?」
「反抗期なんだよ」
「適当なこと言ってんじゃないわよ」
かわそうとしたが駄目だった。MEIKOはきつい目でKAITOのことを睨んでくる。だがKAITOは何と言っていいかわからなかった。自分はそれほど、マスターことを苦手としている意識はなかったのだが。むしろ問題はマスターではなくMEIKOにあると思っている。近寄りがたいのだ。マスターと二人でいるときのMEIKOには。……ああ、そうだ。これだ。
「……何よ?」
「何でもない」
やっぱり、何と言っていいかはわからなかった。
「あれ、どこ行くの」
MEIKOはKAITOを通り過ぎて再び玄関へと向かった。言ってからマスターの迎えか、と思ったがMEIKOは外へは向かわなかった。
「ミク、起こしてくるわ。あんたはリビング行ってなさい」
「…………」
階段を上っていくMEIKOをただ見つめる。足音がゆっくりと2階へ向かって行った。おそらく聴覚機能を最大にしてるだろうミクにも聞こえるだろう。KAITOとMEIKOでは重量がかなり違う。上ってきたのが姉だとはすぐわかるはず。
……仕方ないよな。
いつまでも先に伸ばすわけにはいかない問題だ。
何より今はあの双子のこともある。
KAITOは大人しくリビングに向かった。2階の会話には敢えて意識を向けない。リビングに入ったとき、むわっとした熱気を感じてKAITOは思わず足を止める。
ああ、暖房が入ってるのか。
ボーカロイドの暮らしに暖房は必要ない。だからそれは、滅多に使われることがない。
スタジオやタクシーの暖房に違和感を持ったことなどなかったはずだ。
この家を、自分たちボーカロイドののテリトリーだと認識してしまっているのをKAITOは漸く実感した。
「リン」
呼びかける。リンは振り向かない。
収録が長引いたせいで既に夜明けだ。スタジオを出るときはまだ薄暗かった空も今は完全に明るくなっている。それでもまだ早い時間帯。他に人通りは見えなか
った。
「リン!」
答えないリンにもう1度強く呼ぶ。それでもリンは何も聞こえてないかのように歩き続ける。レンは即座に通信モードに切り替えて直接リンの頭に叫んだ。
『リン!』
はっとしたようにリンの足が止まる。振り向いて、レンの姿を見たあと目を瞬かせた。
「あれ…?」
きょろきょろと辺りを見回しているリンは、おそらく自分がどこに居るかもわかってなかったのだろう。先ほどタクシーから降りたときも、愛想のいいリンが完全に無言でにこりともしていなかった。代わりにレンが不慣れな挨拶を返すはめになったのだが、それについて今突っ込む気にはなれない。それよりリンの様子が
気になる。
「どうしたんだよ、もうすぐ家付くぞ」
「あ…うん、そうだね」
リンが頷いて歩き始める。やはり、どこか上の空だった。それぐらいわかってる、とでも返ってくるかと思ったのに。レンが小走りでリンの隣に並ぶと漸くはっきりとリンが意識を向けてきた。
「レンさ」
「ああ」
「ミク、どう思った?」
「…………」
やはりそれか。
レンは歩きながらどう答えるべきか考える。リンは少し悩んでいる。昨日楽屋で会ってから、そしてスタッフたちの話を聞いてから。それはレンも同じだった。レンは元々リンほどミクに対してライバル心を持っていない。おそらく単純に、性別が違うからだろう。リンは確かにミクを敵として認識している。だけどそれは父から聞かされていたものとはあまりにも印象が違っていて。
「最初は相手にされてないのかなーと思って腹も立ったんだけど、何か、さ…」
「あれ、天然だよな」
口ごもるリンを補足するようにレンは言う。途端にリンが足を止めて反応してきた。
「やっぱり!? レンもそう思うよね!?」
自分の考えが間違っていないか不安だったのだろう。突然テンションの上がったリンに、レンも思わず大きく頷く。
「だってそもそも公園で会ったときも……」
レンの言葉が途切れた。いつの間にか自宅のすぐ側。そしてその自宅に、誰か見知らぬ人物が入っていくのが見えたのだ。
「何……? 誰?」
レンにつられるように振り向いてたリンも見たのだろう。問いかけられてもレンにはわかるはずもない。
「マスコミ……って感じじゃなかったな」
後ろ姿しか見えなかったが、まとっている雰囲気が違った。あまり手入れされてないような髪を後ろで雑にくくり、地味なコートを着たその人物は、どちらかというと自分たちの父と雰囲気が近い。
「……帰っていいのかな」
私たち。
リンの問いかけには首を傾げるしかなかった。
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