そんな悩みもある

 遅い。
 既に予定時刻より1時間以上をオーバーしている。MEIKOはワンカップを呷りながら恨めしげに時計を見つめていた。
 せっかくこの私が。弟のために祝いをしてやろうと思っているのに。
 冷凍庫に目をやる。
 弟の大好物のアイス。プレゼントと言ったらそれぐらいしか思いつかないのだけど。
「遅い!」
 口に出して叫んだ瞬間、MEIKOの耳が外に止まったタクシーの音を捉えた。
 ……帰ってきた?
 ミクの声、二人分の足音。
 MEIKOは確信を持って玄関へ向かう。まあ帰ってきたときぐらい──笑顔で迎えてやろう。
「ただいまー」
「ただいま……」
 だが一目見て落ち込んでいるとわかる弟の表情に、MEIKOは言葉を失ってしまった。



「……やり直し?」
 KAITOが頷く。ミクに目をやってみるが、同じように頷かれただけだった。
「やり直しって何で……あんた何年歌の仕事やってんのよ」
 器用で幅広い役をこなすKAITOは、これまで何度もコーラスやデュエットでテレビやCDの収録をこなしてきた。感情のぶれによる失敗がほとんどなく、その正確さこそがKAITOのいいところだと言われてたはずなのに。
「……緊張しちゃったんだよね」
 落ち込むKAITOに対して、ミクがフォローのつもりかそんな言葉を吐いた。KAITOはミクに微妙な視線を向けるが…何も言わず頷く。
「緊張ねぇ……。あんたでも緊張することあるんだ」
 正直自分よりも落ち着きがあると思っていたのだ。馬鹿だけど。元々MEIKOの足りない部分を補うために…MEIKOをカバーするために生み出されたのだから当然だ。
 呆れると同時に、ちょっとおかしくもなる。あのKAITOが、歌の仕事に失敗して落ち込んでいるのだ。私が失敗したのを、慰める役だったKAITOが。
「やっぱりあれ? 今更ソロデビューってのが恥ずかしい? それとも側に姉さんたち居ないと駄目だったの、実は?」
 次にMEIKOから出た言葉は、明らかにからかいを含んでいた。益々落ち込むKAITOと、代わりに何故か怒ったのがミクだった。
「違うよ! お兄ちゃんは一人でも凄いんだよ、凄いんだけど一人きりだと変な感じするっていうか、自分の声が凄く目立っちゃうし、」
「あははははっ!」
 ミクのフォローの言葉は多分的確で、MEIKOは思わず噴出してしまった。収録の現場でたった一人、ミクが見学席についた状態でおろおろするKAITOの姿が目に浮かぶ。そうだ、そういう奴でもあるのだ、この弟は。
「ま…今日がデビューの日だと思えばそんなもんか。明日はちゃんとやれるんでしょうね?」
「やるよ」
 即答した。とても短い返事だったけど。
「そうね。ま、心配はしてないわ」
 今日の結果に驚いたのは確かだ。だけどよく考えればそれほど不思議なことでもない。自分一人で歌うことはそれまでとは全く違う経験になる。「今まで」を基準にしてもどうにもならないのだ。
「でもプロデューサーには謝っとかないとねー。弟の大失態だわ」
 まだからかいの言葉が抜けない。面白かったのも事実だから仕方ない。
「私、ちゃんと謝ったよ!」
 そのときミクが片手を挙げて宣言した。偉いでしょ、とでも言いたげなミクの様子に、思わずKAITOをの方を見ると目を逸らしてため息をついている。
 状況を想像するとまた笑いがこみ上げてきて、MEIKOはミクが眠るまで、ずっとKAITOをからかい続けてた。



「姉さん……」
「あーKAITO、今日はごめんねー」
 冷蔵庫から酒を出すとMEIKOは笑顔でKAITOに謝る。ミクが眠り、そろそろ自分たちも寝ようかという時間帯。まだ暗い表情をしているKAITOに、さすがに気の毒になってきた。
「おれ……」
「何? あんた明日も早いんでしょ? とっとと寝たら」
「…………」
「何よ」
 KAITOが沈黙してしまったのでMEIKOはそれ以上続けられなくなる。キッチンの椅子を引いて、KAITOを見上げるようにして座った。
「今日の……曲」
「……うん?」
 KAITOに渡されたソロ曲のことだろうか。MEIKOの言葉は疑問符がついていたが、KAITOはそのまま続ける。
「おれに……合うのかな」
「……何よそれ」
 それは意外な言葉だった。
 どんな歌でも歌い上げる。どんな役でもこなす。
 それがKAITOというシンガーの特徴だったのではないか。まあ熱い歌や早口は苦手だけど。そんなこと相手もわかって作曲しているはずだ。
「……不安なの?」
 一人でデビューすることが。
 先ほどはからかいに混じらせたが、今回は真剣に。KAITOはゆっくりと頷いた。
「……おれは…MEIKOのために生み出された」
 KAITOからの呼び名が昔に戻っていた。
 いや、呼び名ではなかったのかもしれないが。
「ミクが生まれて…今度はミクを守れって言われた」
 それはKAITO以外に適任が居なかったから。デビュー直後は24時間体制で働いていたミクに合わせ、守れる存在。だけどそれが、KAITOに新しい道を開かせた。
「その次は……お前のファンが居るって言われて」
 『いつもミクの側に居る男は誰だ』そんな問い合わせが殺到するのは至極当然のことだった。その頃からKAITOは、少しずつミクの曲にコーラスを入れ、デュエットをするようになっており、正式に兄と発表されてからは女性ファンが急増した。それも当然の結果だったとMEIKOは思っている。
「MEIKOは…マスターのために歌う。ミクはファンのために歌う。だけどおれは……」
 誰に歌っていいかわからない。
 KAITOの呟くような言葉に、MEIKOはようやくKAITOの悩みを理解した。
 「MEIKOのために」「ミクのために」と言われていたKAITOは、突然MEIKOやミクから離されて、どうしていいかわからなくなったのだろう。答えは、とても簡単なのに。
「KAITO…私だって今はマスターのためだけに歌うわけじゃないわ」
 初めはそう生み出されたけど。それはあくまで初期設定の話。
 MEIKOはKAITOの揺れる瞳を見ながら、頭の中で一通のメールを検索する。
「KAITO」
 立ち上がって、代わりにKAITOを椅子に座らせた。今度は見下ろす形になったKAITOの額に、MEIKOは自分の額を合わせる。
「姉さん?」
「あなたに来たファンレターよ」
 通信を使ってKAITOに転送する。KAITOが少し、目を見開いた。
「あなたが私たちの後ろでコーラスをやってた頃から、ずっと聞いてくれてる人たちが居るのよ」
 迷う必要なんかないじゃない。
 MEIKOが笑顔を見せたとき、この日ようやく、KAITOが笑った。 


 

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