とにかくまずは心の成長

 日が暮れてきた。
 薄暗い部屋の中で、ミクは身じろぎ一つせずテレビを見つめている。
 握り締めたリモコンが微かに震えていた。



 その日の朝はとても慌しかった。
「姉さん、早く行かないと間に合わないよ!」
「わかってるわよ、あんた起こしてくれたっていいじゃないの!」
「起こしたけど起きなかったんだよ!」
 寝癖のついた髪を整えて、服を着替えてバックを引っつかむ。それを全て同時にこなそうとしているMEIKOは何だか動きが混乱していて、ミクは何だか笑いがこみ上げてくる。
「ミク! あんた今日帰りは一人なのよ! 大丈夫でしょうね?」
 そんなミクを見逃さずMEIKOは早口に問う。ミクは頷いたが、それでは見えてないと気付いて一度しっかりと「はい」と返事した。
「相手に通信入れとく?」
「いいわ、間に合いそうになかったらこっちで入れる」
 MEIKOがとんとん、と自分の頭を差す。ミクたちボーカロイドには普通の電話としても使える通信機能が内臓されている。とある事件がきっかけで携帯電話も持つようになったがあまりミクたちの体に良くないらしく、普段はやはり頭の通信が主だ。
「じゃ、行って来る!」
「行ってらっしゃーい」
「行ってらっしゃーい!」
 KAITOの見送りを真似てミクが手を振った。
 今日のMEIKOは久々の新曲録りをするらしい。KAITOとミクにも、それぞれソロの仕事が入っており、珍しく全員が収録の仕事で出勤だ。
「さ、おれたちも用意しとくか」
 KAITOは既にきっちりと着替えを終えていた。機能の問題なのか性格設定のせいなのか、KAITOは朝に強く几帳面だ。そういえばミクはKAITOがマフラーを外したところを見たことがない。
「髪、やろうか?」
「自分でやる!」
 ミクは兄弟の中で一番髪の量が多いので朝は大変だ。KAITOたちに手伝ってもらうこともあるが、今日は少し時間に余裕がある。これも、自分で出来なければならないことなのだ。
 上手く出来れば褒めてもらえると思えば、こういった作業は楽しかった。
「あ……」
 一人で髪を整えながら、ミクはふと思い出す。
 今日はKAITOと一緒に収録に行くが、現場は別でミクの方が先に終わるため、家に帰ってしばらく一人になる。
 「お留守番」も、出来なければならないことの一つだ。
 誰も側に居ないのは寂しいが、ミクは一人になったら絶対にやろうと決めていたことがあった。夜、MEIKOたちが寝ている間、では駄目なのだ。気付かれるかもしれないから。
 今日こそやれる!
 ミクは仕事終わりのことを考えると今から楽しくて仕方なかった。



「ただいま」
 KAITOが家に帰ってきたとき、既に日は沈み辺りは真っ暗だった。
 玄関脇の小さな照明がぼんやりと光っている。だが奥のリビングからは明かりが見えない。確かミクが居るはずなのに。
 疑問に感じながらKAITOは靴を脱ぐ。そして次の瞬間、気付いた。
「ミク!」
 微かに聞こえてきた音声。
 懐かしい、この上もなく懐かしい音。
 ばたばたと廊下を走りリビングに飛び込むと、映像の確認もせずにKAITOはミクからリモコンを奪い、テレビの電源を切った。
「あ……お帰りなさいお兄ちゃん」
「ああただいま…ってミク、何を見てるんだ!」
 珍しく声を荒げているKAITOにミクが驚いて体を引く。怒られたと感じたのか悲しげに俯いてしまう。その姿を見て、さすがにKAITOも少し落ち着いた。
「……ミク、テレビは勝手に見ちゃいけないって言ってたよね」
 ミクが頷いた。ほんの少し、不満げだけど。
 本当はKAITOだってこんなことは言いたくない。テレビや本で、どんどん知識を吸収した方がいい。その方が楽しい。KAITOはそれを身を持って知っている。だけど「出来るだけ無垢」なミクを保つために、ミクに与える情報は制限しなければならないのだ。それがプロデューサーの要望だから。
「これならいいと思ったの?」
 ミクは首を振った。ミク向けに用意されるビデオは大抵が子ども向けで、色つきのラベルもついている。先ほど流れていたのは数年前の…ライブ映像。ラベルも貼ってなかったはずだ。間違えたというわけではない。
「見てみたかったから……」
「まあ…そうだろうね」
 KAITOはため息をついた。
 あれはMEIKOの、デビュー当時の映像だ。KAITOの記憶にもある。勿論KAITOはそのときまだ生まれていなかったが、今のミクと同じように興味を持って……それ以上に怒られた。
「姉さんはまだ帰ってないよね?」
「うん……」
「あれを見たこと、絶対言っちゃ駄目だよ?」
「うん」
 それはさすがにミクも感じていたのか、力強く頷く。映像の消えたテレビを見つめたまま、KAITOからリモコンを取り返した。
「あのね」
 何をするのかと思えばビデオの停止ボタンを押している。ああ、そうか、自分はテレビの電源を切っただけだったのだ。あのまま流していたら確実に帰宅した姉にばれていた。ミクが賢くなっている。KAITOはちょっと嬉しくなった。
「びっくりしたの」
 一人にやけている内にもミクが言葉を続けている。KAITOはミクに視線を合わせ、続きを促す。
「お姉ちゃん、あんなに歌下手だったんだね」
「…………」
 寒気が走った。
 KAITOは慌てて辺りを見回す。
 誰も居ない。大丈夫だ。
 今物凄い「恐怖」を感じたが。
 ミクが恐ろしいことを言うからだ。
「それも……絶対言うなよ」
 思わず口調がきつくなる。ミクはじっとKAITOを見たまま神妙に頷いた。
 あと、これだけは言っておこう。
「でも、今は凄く上手いでしょ?」
「うん。成長した!」
「………」
 この言葉選びは絶対にまずい。
 やっぱりミクの教育については、まだまだ考え直さなければいけないと思う。


 

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