それなりに大変な誘拐
静かな午後。
空気の流れもない締め切った部屋の中、ベッドの上には身動き一つせずに眠る女が居た。カーテンの隙間から漏れる光が届きそうで届かない。日はまだ高く、多くの人間が活動している時間帯。
そこにいるのは──人間ではなかったが。
「……あれ?」
アラームが鳴る前に目が覚めた。
目の前の時計は、MEIKOがスリープモードに入って30分も経過していないことを示している。何かあったかと辺りを見回してみるが特に変わったことは確認できない。充電用のコードもきっちり接続されたままだった。
充電の完了に気付けず「寝過ごして」しまうことはよくあるが、時間前というのは珍しい。昨日酒でも飲んだっけ、とMEIKOがよく体の機能を狂わせる原因となってる行為の記憶を辿ってみるが、いつも通りだったとしか思い出せない。
まあこんなこともあるか、と気楽に考えてMEIKOはそのまま立ち上がる。充電は完了していないが特に急ぐものでもなかった。
「あ」
強制的に目覚めたのなら通信が入った可能性もあるか。
カーテンに手を伸ばしながらそれに気付いたMEIKOは慌てて記録を確認する。今MEIKOたちのマスターは作曲のためにどこかのホテルにこもっている。居場所も連作先も知らせないまま消えるマスターだが、緊急時にはMEIKOにだけ、それが伝わるよう設定してあった。
……ないか。
だが、スリープ中に入った連絡は特にない。代わりに自宅用のメールアドレスに何通もの着信があったのだけ確認した。ほとんどがミク宛のファンレター。問題のあるものは外してミクに見せなければならないが、今それをする気にもなれない。
やっぱりもう1度眠ろうかとMEIKOが考え始めたとき、部屋の外から聞き慣れない電話の音が響いた。
「何ですって!?」
反射的に上がった声は思ったよりも大きく、MEIKOは一瞬口を閉じた。
受話器を握り締める手に力がこもる。普通の電話で会話することなど何ヶ月振りだろう。手が震えると上手く会話が出来ない。不便だ。
『ごめん…。姉さ…z…』
KAITOの声はノイズ交じりで聞き辛い。機能に障害が出ている。あまり動かしてはいけない状況だろうと思うが、それよりも聞かなければならないことがある。
「今どこに居るの? 近くに人間は!」
どうしても大声が出てしまう。気持ちの焦りで音量のセーブが出来ない。話しながらもKAITOに直接通信を飛ばしてみるが、そちらの機能は完全に麻痺しているようだった。繋がらない。
『スタジオ出て…z…2キロ東…わからない』
わからない、は2番目の問いに対する答えだろうか。雑音が酷くなっている。MEIKOはそこで電話は諦めた。要領の得ない会話をしている場合じゃない。
「わかった。すぐ行くからそこで待ってなさい」
『ごめ…』
KAITOの言葉は最後まで聞かずに電話を切った。受話器に手を置いたままMEIKOは必死に自分を落ち着かせる。
ミクが誘拐された。
相手は複数の男。KAITOが確認できたのは3人。車で連れ去られたミク。
情報はここまでだ。
MEIKOはもう1度自分の部屋に飛び込むとバックを引っつかみ、財布の確認だけして外に出た。取り付けられた通信機能を使ってタクシーを呼ぶ。
タクシーが来るまでの間、MEIKOはもう1度ゆっくりと状況を整理し直した。
MEIKOたちボーカロイドは歌うために作られたアンドロイドだ。元々は変人マスター一人の自己満足で、それほど世に知られたものでもない。だが数ヶ月前ミクが現れたことで事情は変わった。「あなたの歌をうたいます」をキャッチフレーズに一般から曲を募りその多くを完璧に歌い上げたミクは爆発的な人気を呼び、今やテレビで、ラジオで、ミクの声を聞かない日はない。その気になれば24時間フル稼働で働けるミクは疲れを知らない歌い手としてマスコミにも重宝されている。
勿論人気の分だけ余計な負担も多い。嫉妬、嫌がらせ、ストーカー行為は日常茶飯事だ。MEIKOのデビュー当時も多少はあったが、今のミクが受けているものはそれとは比べものにならない。おまけにミクは「出来るだけ無垢な存在で」というマスターやプロデューサーの要望で最低限の教育しかされていない。外見は16歳だが知識も経験も圧倒的に足りず、警戒心というものがないのだ。悪意あるものに狙われれば危険──そんなこと、誰もが知っていた。だから常に、KAITOが側に居たのに。
「あの馬鹿……」
ミクを狙った男たちは突然大量の水をミクたちに浴びせてきたという。
ボーカロイドも所詮は機械。水には弱い。勿論外で活動する以上簡単な防水加工はされているし、少々の雨などには耐えられるようになっている。だが何箇所かの加工の継ぎ目、頭部に取り付けられた通信機、そういったものを集中的に狙われた。KAITOの通信機能は完全にダウンし、行動、声帯にも制限が出て公衆電話まで辿り着くのがやっとだったという。ミクもおそらく…似たような状況だ。
ミクにも何度も通信を飛ばしているが返事はない。相手の目的がわからないことが不安だった。以前にもあったミク自身のファンによる誘拐未遂では、ミクを直接傷つけようとはしなかった。歌えないボーカロイドに価値などない。嫉妬や嫌がらせであるならその場で傷つけてしまえばいいだけだ。誘拐の理由はわからない。
タクシーに乗り込んでからも考え続けていたMEIKOは、結局誰に連絡することもなく、KAITOの元に着いていた。
ここはどこだろう。
何が起こってるんだろう。
暗闇の中でミクはひたすら頭を動かしながら何かを見ようとしていた。
右を見ても左を見ても、何も見えない。車に乗せられてからずっとこんな状態だ。目の辺りに何かがあるが、それが目隠しだとミクにはわからない。
「お兄ちゃん」
通信より、言葉で呼べと周りからよく言われている。無言で会話する様子は気持ち悪いと。だから声に出して呼んだのに、KAITOの返事がない。
「お兄ちゃん?」
手を動かす。何かに引っかかって僅かにしか動かない。後ろに回された腕の位置は不安定で、ミクは立ち上がることも出来なかった。
「お兄ちゃん…」
誰も助けてくれない。KAITOが側に居ない。そのことを認識してミクは酷く混乱した。わからないことがあれば教えてくれるはずなのに。わからなくていいことはそう言ってくれるはずなのに。
それでも何か情報を得ようとミクは必死に耳を澄ます。遠くで、微かな声が聞こえた。
「ホントに大丈夫か?」
「大丈夫だって。このためにボーカロイドのこと勉強したんだから」
「お前それより早くこれ付けろよ。声覚えられたらもう返せないぞ」
「……返したくないな〜」
「せっかく手に入れたんだしな…」
男の声が3人分。途中で機械音声に変わった。ボーカロイド、はミクたちのことだ。言葉の意味を考えるより早く、どこかで扉の開く音がした。
「見つけた!」
「うわっ!」
突然大声を出して立ち止まったMEIKOに、止まりきれずKAITOがぶつかる。衝撃で前につんのめりそうになったMEIKOがきっ、とKAITOを睨んだ。
「何やってるのよ、見つけたのよ!」
「ミクを?」
「聞こえないの!? ミクの声!」
そう言うもののKAITOの通信機能はまだほとんど復活していない。駆けつけた姉によってドライヤーで応急処置は受けたが、丁寧に中まで乾かす時間はなかった。それよりも、ミクの救出を優先したかったのだ。
とりあえず歩行と言語の機能がほぼ使えるようになったのでKAITOはMEIKOと共にミクを探している。
「こっち……。微かだけど、通信が開いてる!」
「ミクの返事は?」
「ないけど…とにかく行くわよ」
走り出したMEIKOを追う。そのスピードにマフラーが大きくなびく。
びしょぬれのコートを脱いだKAITOの姿に通行人が振り返っているが特に気にしなかった。
ミクのことが心配だ。
自分がミクを守らなければならなかったのに。
前の走るMEIKOの感情は読めない。怒ってはいないようだった。ミクが心配でそれどころじゃないだけかもしれないが。
無事で居て欲しい。
そう思ったが、何を「無事」というのかKAITOには分からなかった。
「ミク!」
「うわあ!」
「うああああああ!」
KAITOがドアを蹴破り乗り込んだ部屋からはいくつかの悲鳴が上がった。MEIKOは素早く目線を走らせる。男が3人。その3人が取り囲むようにして…中央にミク。
「お兄ちゃん! お姉ちゃん!」
ミクが嬉しそうな笑顔を見せた。立ち上がろうとして…その場に転ぶ。
男たちが逃げようとしていたが、MEIKOはそれを無視してミクに向かった。KAITOが逃がさないだろう。後ろで悲鳴が聞こえた。
「ミク、大丈夫?」
「? うん、ちゃんと出来てるよ」
ミクは首をかしげて少しずれた答えをする。何かを…やらされていたのか。
不安になったMEIKOがあたりを見回す。そこには楽譜らしきものが散らばっていた。
「姉さん、この人たちどうするの」
「警察に決まってるでしょ。逃げられないよう縛っといて」
「あ、もう気絶してる」
「……あんた手加減……いや、いいわ、別に」
強力な力を持っている代わりに「優しい」キャラクター設定がなされているKAITOだが…さすがに怒っているらしい。まあこれぐらいは許されるだろう。
「それよりミクよ、あんた何を……」
MEIKOは楽譜を拾い上げた。KAITOはミクの後ろに回る。かちゃ、と金属音がした。どうやら手錠か何かをかけられているらしい。続いてばきんっ、とかなり派手な音がして手錠が壊された。KAITOが引き千切ったのだ。
「ねえお兄ちゃん」
「ん?」
ミクの側には録音機材も置いてあった。歌をうたわされてただけか。それなら──。
「中で出して、ってどういうこと?」
ばきんっ。
MEIKOの拳が録音機材に炸裂した。
「何を?」
KAITOの呑気な声。
警察は呼ばない。いろいろな意味で、呼べない。
プロデューサーに言わなくて良かった。
MEIKOは録音機材を破壊したあと男たちの前に立つ。
「KAITO、水持ってきてちょうだい」
忘れさせてやろう。思い出したくなくなるようにしてやろう。
MEIKOは拳を握り締めた。
ごちゃごちゃ設定考えながらとりあえず一話。
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