ブレス-Breath-

 はぁ、と小さなため息が聞こえて、ミクは足を止めた。
 病院の廊下で長椅子に座ったまま、長い髪を垂らして俯いている男。職場で見慣れた顔だった。
「……がくぽ?」
 呼びかけというよりは呟きのような声が出たが、それでも男はそれに反応して顔を上げた。
「ミク……」
 どこかぼんやりした顔のまま、男はミクと目を合わせ、またため息をついた。





「がくぽ……好きな人出来たの?」
 その声は、聞き慣れた男の声だった。
 気付けば自分を囲むようにして、ミク、KAITO、MEIKO、リンにレン。VOCALOID兄弟全員が揃っている。がくぽは軽くミクを睨んだ。ため息の理由を話せば、相談に乗ると言ってくれたが、こんな状況を望んでいたわけではない。
 ミクにもそのつもりはなかったのか、多少申し訳なさそうな表情が見える。
「好きな人……いや、違うな」
 きっぱり言い切ったがくぽに、え、と小さな疑問が返る。ミクはそう説明したのだろう。ミクもまた、目を丸くしてがくぽを見ている。
「で、でも! 私は恋をしているかもしれないって! その人のことが頭から離れないって言ったよ!」
 自分は一体どこまで話しただろうか。
 ぼんやりと、その相手を思い出しながら夢見心地で語っていた。ミクの言葉に、そう間違いはない。だが、がくぽは首を振る。
 ああ、と最初に納得の声を上げたのはレンだった。
「人じゃないんだな?」
 さすがに回転が早い。
 がくぽは苦笑いをして頷いた。ミクたちが顔を見合わせる。
「……アンドロイド?」
「……なあ、ミク」
「何?」
 ミクの言葉には答えず言葉を繋げば、ミクは素直に聞き返してくる。がくぽはミクと、ついでに他の4人も一緒に視界に入れた。
「私の声をどう思う?」
「……低い?」
 何故か最初に答えたのはKAITOだ。
「かっこいいよ」
「重いよな」
「えー、軽いときもある」
「落ち着いた声なんじゃない」
 残りの4人が好き勝手に答える。がくぽは続けて言った。
「……私の声は、好きか?」
 一瞬、間が出来る。だがすぐに全員から返って来た。好きだ、と。
「どうしたの、がくぽ?」
「声のことで何か言われたのか?」
 KAITOとレンがいぶかしげな顔で問いかけてくる。MEIKOは、全てを聞いてからにするとでも言いたげに一歩引いたまま腕組みをしてこちらを見守っているようだった。
「私たちは……声に恋をしても、おかしくはないよな」
 頭から離れない、心地よい声。何度も何度も頭の中で繰り返される。いつの間にかその声に乗って歌を口ずさんでいる自分がいる。その声を聴くだけで表情が緩む、興奮する。
 そうだ、自分は間違いなく恋をしている。
 そう、一言一言語ると、その場にまた沈黙が落ちた。
「……おかしくないよ」
 思い出す声に浸っているがくぽの腕をリンが掴んで言う。
「そうだよ、声って、凄く大切だもん!」
 続いてミクが同意する。
 年長組とレンは、顔を見合わせていた。
「……その声をずっと聞いていたい、その声に包まれていたいと思うのはおかしなことか?」
 がくぽはそんな3人に真剣な目で問いかける。
 正面に居たKAITOが、一瞬怯んだように視線を逸らした。
「……それは……普通にあるな」
「まあね。いい声はずっと聞いていたいと思うわ」
 年長組が頷いて、最後にレン。
「……どんな声なんだ?」
 目の中に宿る好奇心。
 がくぽのこれが恋かどうかなど少年には関係ないようだった。ただ、がくぽがここまで心惹かれたその声を、聴いてみたいと思っている。
 全員が、ようやく真剣にがくぽの言葉を受け止めてくれた。
 だが、何故かそれが嬉しくない。この気持ちは間違ってないと、それがわかった次の瞬間別の焦燥に襲われたからだ。
「……お主には聞かせん!」
「何でだよ!」
「あの声は……あの声は私だけのものだ!」
 突然立ち上がって宣言したがくぽに、レンがぽかんとした顔を向ける。
 本当は聞いて欲しい、もっと多くの人に。
 だけどそれで、レンまでもがその声に恋をして欲しくない。
 そうだ、自分は今、奪われることを恐れた。
「あの声は……私だけのものだ……!」
 そう思うと、もういてもたってもいられなかった。
 あの声のもとへ、一刻も早く辿り着きたかった。
「頑張れがくぽー!」
「アタックしろー!」
 ミクとリンの応援の声が背後から響いていた。



『いきをすってください』
「ああ」
『とめてください』
 検査室から聞こえてくるのは、がくぽと、淡々としたCTの声。



「……予想外……かな」
「おれは半分予想してた」
「予想する間もなかったわ」
 ドアの隙間から見えるがくぽの表情。それが恋する男の顔かどうかはわからない。ただ、嬉しそうなのはわかった。
「まあ、綺麗な声だよね?」
「確かにそうだけど」
「……検査機械の声に恋するか……VOCALOIDらしくていいんじゃない?」
 いまいち納得いかなさそうなレンの肩をMEIKOが叩く。
 リンはその隣でただ呆然とがくぽを見つめていた。
 ミクは何故か部屋の中だ。
「……いい声だと思わんか」
「思う」
「検査を受けるときは、この声に包まれるのだ」
「素敵だよね!」
「ああ……」
 素直に、何の迷いもなくがくぽを応援するミクに、がくぽも完全に何かが吹っ切れたようだった。
 多分、問題はない。
 何の問題も。
「……あの機械、相当高いのよね」
 MEIKOがぽつりと呟いた言葉には誰も反応しなかった。
 愛は、お金で買えない。




 

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