君のいない場所で


「レンー。置いてくよー?」
 森の中にリンの声が響く。レンは足元の石ころを集めて矢印を作りながら「今行く」と簡潔に答えた。特に大声は出さなかったので聞こえなかったかもしれないが。
「よし」
 出来上がった矢印を満足げに見下ろしてレンは立ち上がる。小走りで先へ向かえば、リンが怒ったような顔をして待っていた。
「もー、何でさっきから何度も立ち止まるの。今日中に奥の方まで行くんだからね! 急ぐよ!」
 そう言ってリンが右手でレンの左手を掴んだ。駆け出すリンに引きずられるように一緒に走る。
 レンはちらりと後ろを振り返った。
 双子の姉は、帰り道のことなど考えてもいないらしい。森の中。道なき道を歩いていては、真っ直ぐ来ているつもりでもどこでそれているかわからない。帰るときになって途方に暮れるリンに、目印を置いてきたと言ってやるときが楽しみだった。
 だから、今は言わない。なるべく自然に手を離して、また距離が離れて、リンが気付いて怒る。
 そんなことを繰り返している内に、少し開けた場所に出た。森に入ったのは朝早い時間だったが、既に太陽は真上近くにある。
「うわぁ……」
 リンが思わず声を漏らした。
 自分たちの背丈より遥かに高い、大きな鏡。
 こんな森の中にあって、傷一つなく輝いている。太陽の明るい照明の中、2人の姿がはっきりとそれに映っていた。
 2人は顔を見合わせて鏡に近づく。
 森の中の大鏡の話を聞いたのはいつだったか。
 不思議な力がある。近づいてはいけない。
 そんな子どもの好奇心を揺さぶる言葉が頭の中に響く。
 リンがその小さな手を鏡へと伸ばした。右手は、レンの左手を握ったまま。
「あ……」
 手が鏡へと触れる。
 次の瞬間。左手の感触が消えた。





「レンくーん」
「………」
「レンくんー」
「レンー、起きろー」
「レンくんーレンくんーレンくんー!」
 連呼される自分の名前に薄っすらと目を開く。飛び込んできた顔に反射的に目を閉じそうになった。
 相手は笑って顔を遠ざける。
「起きたみたいだね」
「何だよ……」
「何だよ、じゃないよー。またこんなところで寝て。そろそろ寒くなる季節なんだからせめて毛布持ってこないと!」
「ミク、毛布持ってきても駄目だから。外だし」
「えー?」
 レンは上半身だけ起こして、目の前の2人のやりとりを見る。KAITOとミク。2人とも、レンの幼馴染だった。毎日毎日、友達と遊ぶこともせず森の中で歌い続けるレンに、いまだに会いに来てくれる。差し入れはありがたかった。だけど、出来ればそれだけで終わって欲しかった。歌いたい。歌う時間がなくなる。
 レンは2人の会話を意識から消して、また歌おうと息を吸い込む。
 だが、それはKAITOの言葉に遮られることになった。
「そういえばね、この鏡、ひょっとしたら壊されるかもしれないって」
「……えっ……?」
「うん。MEIKOさんが言ってた。ほら、せっかくいい森なのにみんな怖がって近づかないでしょ」
「……何で?」
「え……」
 疑問を返せば、ミクが言葉に詰まる。だけど本当は聞かなくても分かっている。
 鏡に捕らわれた少年の話は、御伽噺じゃない。自分のことだ。
「……レン」
 KAITOが少し低い声で、レンの名を呼ぶ。真剣な目を睨みつけるように見返した。
「何だよ」
「……もう、いいだろ」
「何が」
「……何年歌い続けてると思ってるんだ」
「何年でも歌い続けるよ。おれが歌う意味わかってんの?」
「…………」
 レンは2人から顔を逸らし、鏡を見た。
 あのとき、鏡には確かにリンが映っていた。今はレンの顔しか見えない。だけどわかる。レンと同じように成長した双子の姉は、今もこの向こうに居る。
「……リンって子が、本当に居たとしても、」
「そこを否定する奴にそれ以上言うことはないんだよ」
 幼馴染の2人。MEIKOも加えて3人。
 子どもの頃から一緒だった。生まれたときから知ってるはずだった。
 なのに誰も、リンの存在を覚えていない。
 リンが居たことを示すものは何一つ残っていない。
 だけどレンだけは知っている。覚えている。
 意地、じゃない。
 もう1度リンに会えるなら、誰にも信じてもらえなくて構わない。
 だから、レンは歌う。この声がきっと向こうに届くと信じて。
「……レン」
 歌い始めたレンを2人がどんな目で見ているかは知らない。1度も見たことはなかった。レンはいつも、鏡に向かって歌うから。自分の姿しか見ていないから。
「またやってるの?」
 更に後ろからMEIKOの声。
 しばらくして、3人の声がレンと共に歌いだす。
 みんな歌が好きだった。
 4人で歌うことを、みんな好きだと言っていた。
「レンくん?」
「レン!」
 だけど、違う。
 一人足りない。
 足りないんだ。





「……落ち着いた?」
 MEIKOの声に僅かに首を傾ける。頷いたつもりだったが、わからなかったかもしれない。
 歌の途中で突然泣き始めたリンに、MEIKOは優しい声をかけてくる。
 何故泣いているかなんて、理解できていないのに。
「リンちゃん、今日はもう帰ろ?」
 ミクの声。リンはぎゅっと目を瞑ったまま首を横に振った。まだ、向こうにきっとレンが居る。レンだってきっと歌っている。ここに居ないと、その声が聞こえない。
「リン、さっきも言ったけど、その鏡」
「いや」
「リン?」
「レンに会うまで。壊しちゃ駄目」
 鏡にすがりつきながら言ったリンの言葉に、KAITOが口を閉ざす。
 初めの頃は、レンって誰だと何度も聞かれた。その度に絶望を覚えていたのに、聞かれなくなった今、本当にレンという存在が消えてしまったかのような喪失感を覚える。
 誰も気にしていない。森の中で消えた少年のことを、覚えてもいない。
 リンの、想像の中の人物だと、片づけられてしまう。
「レンは、絶対、ここに居るから」
 それでもリンはそう言い続けた。レンの名を口にしなかった日は一度だってない。毎日毎日、鏡に語り、歌に乗せた。鏡の中に、リンと共に成長を続けるレンの姿が、見えた気がした。
「……鏡は、リンが望むなら場所を移してもいいのよ? 元々誰のものでもないんだから……」
 MEIKOがそう言ったけど、リンは頷くことが出来ない。
 歌い続ければ声が届くと、何の疑問もなく信じた。
 だけどそれ以上はわからない。
 鏡を壊すことも考えた。だけど、それでレンとの繋がりが完全に絶たれてしまったら。
 そう思うと、歌う以外のことは出来なかった。場所を移しても、繋がりを保っていられるのか、わからなかったから。
「リンちゃん」
 リンは歌う。
 これだけは、きっと真実だと信じている。
 諦めたような顔の3人が、森から去る姿が鏡の端に見えた気がした。
 それでもリンは歌う。歌い続ける。
 永遠じゃない。
 きっと、いつかは、会えるから。

 奇跡のときまで、あと少し。




 

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