広いスタジオの廊下を歩いていると、誰かの怒鳴り声のようなものが聞こえた。一瞬足を止めて斜め前を歩く男を見上げると、男も苦笑いでリンを見下ろしてきた。男の足も止ま る。
「……今の声って」
「ああ、気にしなくていいよ。もう帰ると思うから」
 その言葉と同時に向かっていた部屋の扉が勢い良く開く。そして同じような勢いで叩きつけるようにドアを閉じた。その音に怒りが感じられて、リンはびくっと体を揺らす。出てきたのはリンと同じぐらいの年頃の女の子。怒りに歪ませた顔は涙でぐしょぐしょだ。リンはもう1度目の前の男性を見上げたが、今度は視線が返って来なかった。
「さ、行くよ」
 感情を押し殺したような冷静な声が何故か胸に痛い。その言葉にはっとしたのは、リンだけではなかった。
「…………」
 女の子が一瞬呆けたような顔でリンたちを見る。正確には男性か。そして次にリンへと目を落とした。
「………な、何」
 睨まれた。
 明らかな敵意がそこにあった。
 リンは反射的に睨み返すが、女の子はすぐに視線を逸らすと、俯いて足早にリンの隣を駆け抜けて行った。気になって振り向くが、同時に男に視線を戻される。
「……行くよ」
 有無を言わさぬ響きが、その声にはこもっていた。





「レン! レンー!」
 どたばたと階段を駆け上がってくる音がする。レンは床に寝転がったままその声を聞き、開いていたゲームを閉じた。邪魔される前にセーブだけはしておきたい。
 レンが体を起こしたと同時、扉が開く。その乱暴な動作に何か怒っているのかと顔を上げるが、リンの表情は怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。左手にある紙が、握り潰されているようにしか見えない。わずかに見えるのはおそらく五線譜。楽 譜だ。
「……どうしたんだよ」
 とりあえず聞く。リンは黙って、手にした楽譜を投げつけるようにレンに突き出した。しわくちゃの楽譜がぱらぱらと床に落ちる。
「何だ? 新曲?」
 リンが頷いたが、楽譜に目を落としていたレンはそれに気付かなかった。拾い上げて、順番通りに並べていく。リンがレンの前に座り込んだ。
「レン、それ歌って」
「は? 何で、」
「いいから歌って」
 リンの真剣な眼差しにレンはそれ以上の反論が出来ない。改めて楽譜に目を落とし、ゆっくりと息を吸い込む。
 アカペラで正確に音とリズムを刻んでいくレンを、リンは何故か悲痛な眼差しで見ていた。レンは気になりつつも、歌の途中で止めることはできない。リンの視線から目をそむけ、ひたすら楽譜を追っていった。
「…………」
「………何か言えよ」
「…………」
 歌い終わっても沈黙したままのリン。レンが促せば、ようやく小さな声で呟いた。
「この歌……難しいと思う?」
 予想外の言葉にレンは言葉に詰まる。
 まさか、リンが歌えなかったという話じゃないだろうな。
 いや、レンが歌えてリンが歌えないということはないはずだ。声が出ないリズムが取れないなんて話はあるはずがない。
 だったら……真面目に考えてみる。
 難しい、とは思った。完璧に歌いこなすには時間が必要だろう。だけど無理だとは思えない。
 どこを線引きにして答えればいいのかわからず、レンは曖昧に頷いた。
「まあ……人間には無理だしな」
 比較を変えてごまかしたつもりだったが、リンがそれに大きく反応する。
「やっぱり!? そう思うよね?」
「え、何が」
「人間には無理だよね、これ……!」
「…………」
 そこか。
 レンはもう1度楽譜に目を落とす。
 音の幅はやたら広く行き来が激しい。おまけにテンポが異様に早く、息継ぎの場面がほとんどない。歌える人間なんて居ないとまでは思わない。世の中には機械よりも正確に思える「声」を出す人間がいる。だが、多くの人間にとっては…不可能というレベルで難しいとは思っ た。
「……そりゃ、そうだろ。これ、お前用の曲なんだろ?」
「……違うの」
「……どういうことだよ」
「私、代わりに呼ばれたんだって。この曲歌うはずだった人が全然出来ないからって。私と同じ年ぐらいの女の子だった……」
「…………」
 レンは沈黙する。
 返す言葉が見つからなかった。
「……酷いな」
「……酷いよね」
 ぽつりと呟いた言葉にはリンが頷く。
「……作った奴にお前自分で歌ってみろとか言っとけよ」
「……おれは歌手じゃないって返された」
「…………」
「…………」
 2人して楽譜に目を落とす。嫌な気分だった。人間には歌えない歌を歌わされるのは、むしろ誇りに思えてたことなのに。
「リンちゃーん? レンくーん」
 そのときドアの向こうからミクが顔を覗かせた。帰ってくるなり駆け上がったリンを気にしてたのだろう。ノックぐらいしろよ、といういつもの突っ込みも何となく出てこない。
 ミクが不思議そうに2人を見て首を傾げていた。





「人間が歌うはずだった歌を代わりに、ってのは結構あるよ」
「そうね、大抵はその歌い手が下手だったから、だけど。他にスケジュールの都合とか事務所の都合とか。イメージに合わないからって歌手側から断ることもあるしね。あと…プロデューサーが私の方を気に入っちゃった、なんてのも」
「……あるんだ」
「ミクは今までなかったかな。場合によっちゃミクに頼む方がギャラ高いもんなぁ」
「………うん」
 曖昧に頷きながら年長者の言葉を聞く。リンの話にショックを受けて、その夜2人に話してみれば、ないことではないと返された。勿論、今回のような酷いやり方はそうあることではないとは言われたけれど。
「昔はね。楽譜読めない歌手のために仮に歌うってことも多かったんだ」
「仮に?」
「うん。一度おれたちが歌って、それを歌手に耳で覚えてもらう。不思議なもんだよね。楽譜は読めないのに耳で聞いてたらちゃんと歌えるようになるんだよ」
「確かによくやってたわねー。というか最初はそっちが本職ね。あれで私の方を気に入っちゃった人が出たのがデビューのきっかけ」
「そうなんだ……!」
 聞いたことのなかった話に驚いて目を丸くする。MEIKOは更に続けた。
「だから『相手の歌を取っちゃった』ってことになるわね。それは自分の歌の方が評価されたってことよ。素直に喜んでればいいの」
 きっぱり言い放ったMEIKOの強い目に、ミクは思わず目を伏せる。
「でも……」
 それでは、納得が出来ない。
 もしミクたちが逆の立場なら。
 「歌を取られた」立場なら、悲しくて悔しくて。それでも……諦めるしかないのか。
 ミクが何も言えないでいる間に、MEIKOが立ち上がっていた。台所へ向かったので酒でも取ってくるのか。ぼんやりその後姿を眺めているとKAITOが側に近寄ってくる。
「……おれはね」
 小さな声に思わずミクも体を寄せる。
「逆もある」
「……え?」
「おれのために用意されてた歌だけど、人間が歌うことになった。それも……向こうが上手かったから、じゃない。その方が売れるって判断されたから」
「…………」
 言葉を失ったミクにKAITOは微笑む。
「悔しかったし、情けなかったよ。それはどうしようもない。誰だってそう思うし、それでもそういうことはなくならない」
「……うん」
 だから、諦めるのか。
「だから、おれはそいつより売れてやろうって思った」
「え」
 KAITOがにやっと笑って寄せていた顔を遠ざけた。MEIKOが酒を片手に帰ってくる。
「泣いてたって何も変わらないからね。その子…リンを睨みつけたんだって? その気持ちを次にぶつけられたらいいんだよ。リンも、同情なんかしてたらすぐに抜かされちゃうかもよ?」
 この世界厳しいんだから。
 KAITOの言葉にはMEIKOの方が笑った。
「あんたが言うと説得力あるわ。そういえば昔あんたの曲取ったアイドルに超えてみせるとか何とか言ってたっけ」
「あ、ちょうど今その話」
「そうなの? あの子は一発屋で終わっちゃったわねー。いい声してたからちゃんと鍛えれば良かったのに。初めにいい曲渡されるのも問題ね。……どうしたのミク?」
 声をかけられてミクははっと顔を上げた。呆然として言葉を挟めなかった。
「……お兄ちゃんも、そんなこと思うんだなって」
「ん?」
「ああ、売れてやろうって話か」
「お兄ちゃん、あんまりそういうのこだわってるように見えなかったし」
「こだわらない奴はいつまで経っても上手くならないよ」
 KAITOの言葉は優しかったが、ミクは少し緊張してその言葉に頷いた。
「そうね……ミクも」
「?」
「デビュー初っ端から売れてたし、それで満足してたらすぐ追い抜かれるんだから。誰かライバルでも作った方がいいわ。……まあ、あんたはそれでも向上心は人一倍あるところが凄いんだけどね」
 わざわざ忠告するほどでもないか、と笑うMEIKOにミクはもう1度大きく頷いた。
「だって、ライバル、居るもん」
「え?」
「ライバルって……ミクが?」
 ミクは立ち上がって腰に手を当て胸を張る。
「お兄ちゃんとお姉ちゃん。それでにリンちゃんとレンくん! 絶対負けないんだか ら!」
 きょとんとしたMEIKOとKAITOに一瞬気が抜けるが、2人は顔を見合わせたあと少し真面目な顔でミクを見上げる。
「そりゃ光栄だな」
「そうね。私もあんたたちにはまだまだ負けるわけにいかないわ」
「あ、おれも入ってる」
「当たり前でしょ」
 少し笑いあったあと、ミクは階段を駆け上がってリンの元へ向かう。
 悔しさは、ばねになる。
 目標が歌を成長させる。
 だから、みんなライバルだ。
 その子が本当に歌が好きなら、きっともっと上手くなってくる。
 気付いたことを、早く教えてあげたかった。


 

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