マスター

 家の中が妙に静かだった。
 テレビも付いていない。音楽も聞こえてこない。
 鍵は開いていたが、誰も居ないのだろうか。
 レンはそう思いながらもとりあえずリビングへと向かう。電気は付いていた。ついでに、ミクとKAITOの姿も目に入る。ただいま、と言おうとしたとき横から伸びてきた手に突然口を押さえられる。目をやれば、そこに居たのはリンだった。
 何だよ。
 目で問えば、リンはにっと笑って指を口元に当てる。静かに、という合図か。レンがこくこくと頷いて漸く手が離された。
「……何やってんの」
 小声で聞くとKAITOに手招きされる。KAITOとミクは床に座り込んでソファを見ていた。ソファに居たのは……マスター。
 顔をソファに押し付けるようにして──眠っている、のか?
「起きそう?」
 そこにかけられた声はMEIKO。どうやら全員揃っていたらしい。MEIKOが手に持っていた何かをKAITOに渡す。
 マジック。
「……ちょっと待てよ」
「いや、どうしようかなって」
「顔見えないよ」
「動かしたら起きるかなぁ」
 レンの突っこみをさらりと流してKAITOとミクが言う。MEIKOも笑いながらKAITOの隣に回ってきた。
 レンの視線に気付いたのか、ミクが笑顔になる。
「あのね。マジックておでこに肉って書いたら幸せになるんだよ」
「はっ!?」
 予想外の言葉に思わず大きな声が出る。慌てたミクとリンに飛びつかれて、レンはその場に倒れた。
「静かに! 起きちゃうでしょ!」
 小声で怒鳴るリンはどう見ても面白がっている。ミクはどこまで本気か知らないが。というか誰だ、そんなこと言ったのは。
「ミクが書く?」
「書きたいー」
「肉って字わかるの? 漢字でしょ?」
「わかるよ、それぐらい!」
 MEIKOの言葉には少し怒ったように返したミクは、KAITOから渡されたマジックを嬉しげに掴む。油性じゃないのか、あれ。
「よし、じゃあ顔上げるよ」
「起こさないようにね、兄ちゃん!」
「……頑張る」
 ゆっくりとKAITOの手が伸びる。レンも体を起こしてそれを見守った。
 最初から、止める気は全くなかった。





「あーあ」
「まあ、そうだよねー」
 目の前に正座して座っている兄姉の姿を見てリンとレンは顔を見合わせる。ちょうどあのあと仕事に出てしまったので、結果は見なかった。マスターは額に落書きされ、最終的に体ごと引っくり返されても起きなかった。肉と書いたのはミクだが、結局全員が何かしら描いたので同罪は同罪だろう。
「……二人とも、あとでマスターが来いってさ」
 笑顔で言うKAITOの額にはしっかり肉、と書かれている。猫のようなヒゲはリンがマスターに描いたものだったか。しかも片方だけ。バランスが悪い。
「……行くわけねぇだろ」
「どっちにしても顔合わせるでしょ」
「そうだよ、行かないと駄目!」
 ミクは少し怒ったような声で。叱ってるつもりなのだろうか。こちらも額に肉。頬のぐるぐるマークはMEIKOがマスターに描いたものだったと思う。これのせいで片方ずつだった。ミクは両頬に描かれてたが。
「よしリン、今日はホテルにでも泊まるか」
「賛成ー!」
「駄目だよ、未成年の男女がホテルとか!」
「変な言い方すんなっ! っていうか今マスターどこだよ」
「買い物。出てくなら今の内だけど逃がさない」
「お前ら、それでも兄ちゃんか!」
「私お姉ちゃん!」
 変なところで突っこみを入れるのはミク。言葉通りにレンはKAITOに、リンはミクに腕を捕まれてしまう。振りほどいては捕まれ、蹴りを入れればかわされ、どたばたと四人で騒いでいると、隣から声が聞こえた。
「うるさいっ!」
 それは、MEIKOの声。隣は確かに、MEIKOの部屋。
「……MEIKO姉……?」
「そういや…MEIKO姉はどうなったんだ……?」
 レンの言葉にKAITOは真面目な顔をして言った。
「聞くな」
「ああ……」
 そうだ、MEIKOも結局落書きしてた。同罪だ。ということは。
 レンはもう1度KAITOとミクの顔に目をやる。
 落書き顔なんて。この2人は最早恥ずかしがってもいないけれど。
「あ、こら!」
「逃げないから、まだ!」
「まだって何だ!」
 KAITOの手をすり抜けたレンは廊下へと飛び出す。だがKAITOに足をつかまれ思い切り顔面から床に倒れてしまった。痛みはないが衝撃が体に響く。その間にリンがレンの横をすり抜け─レンの手を踏んで─隣室の前に立った。
「リン!」
「お姉ちゃんー、入るよー」
「入っちゃ駄目!」
 部屋には鍵など付いていない。リンが構わずノブを回す。だが……開かなかっ た。
「あれ?」
 思い切りドアを引いているが──やはり、開かない。
「お姉ちゃん?」
 リンの呼びかけにはもう返事もない。レンはうつ伏せに倒れたまま、何とか顔だけ後ろへ向けた。レンの足を掴んだKAITOは片足をついて座り込んだ姿勢。その後ろにミクが居た。
「……お姉ちゃん、ずっと出てこないの」
「顔洗ったぐらいじゃ取れないからねー、これ」
 KAITOが自分の額を指して言った。
 手が離されたので、レンも体を起こす。
「お兄ちゃん、開けて」
「えー」
「中から押さえてるよね、お姉ちゃん」
「KAITO兄なら開けられるんじゃないか」
 単純な力比べだ。下手するとドアが壊れるが。
「……見られたくないならそっとしとこうよ」
 だがKAITOはいまいち乗り気じゃない。ひょっとしたら既に見ているのかもしれないが。
「でもこれも罰でしょ!」
「そうだよ、同罪だから姉ちゃんも大人しく描かれたんだよな?」
 レンは立ち上がり、リンの隣に並んだ。一緒にノブを掴む。
「だったら誰かに見られるところまでやんなきゃ駄目だよな!」
「よし、よく言った」
「は」
 立ち上がったKAITOが後ろから突然リンとレンの腰に手を伸ばし、二人いっぺんに抱え上げた。
「ちょ、下ろせ、こら!」
「マスター帰ってきたみたいだよ」
「え」
 気付かなかったが。確かに車の音がした。続いて玄関の開く音。リンとレンはそれに気付いて一層暴れる、だが、もう遅い。
「マスター。リンとレン帰ってきたよー」
 二人を抱えたまま階段を降りるKAITO。さすがに本気になったら逃げられない。ミクもKAITOについて階段を下りてきた。
「……こういうのはさ、言いだしっぺが一番悪いと思うんだけど」
「往生際悪いぞ」
「そもそもミク姉はどこであんな知識仕入れてきたんだよ……!」
「え、何?」
 ミクが不思議そうに首を傾げる。その額の肉、も一緒に傾いてため息が出た。ひょっとして、これはこれで幸せだと思ってるのだろうか。
「ミク姉はどこで知ったのかってこと。おでこに肉って書くのが幸せとか」
「漫画」
「……最後まで読まなかったな、ミク姉…」
「絶対何かオチあったと思う、それ…」
 がっくりと肩を落とす。もう観念している。でもホントにあれ、どうやって落とせばいいんだろう、っていうかマスターはもう落とせてるのか?
 考えている内にKAITOがリビングに入る。待ち構えていたマスターがマジックを片手に笑っていた。
 ……肉ってちょっと残ってる。
 あれで買い物に行ったのか、誰も突っこまなかったのか。
 レンもそれ以上突っこむのは止めた。


 

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