好きなもの

 赤い染みが広がる。
 絨毯に染みこんだそれは、ちょっとやそっとじゃ取れそうにない。震えるリンの手を、レンは無意識に握り締めた。目の前には、ミクが青ざめた顔で座り込んでい る。スカートに散った赤い点がやけに目立つ。
 レンはそれをじっと見ていた。じっと見たまま、動けなかった。





「いらっしゃいま……せー…」
 店員の元気な声が一瞬止まる。最後まで言い切りながらも戸惑った顔でこちらを見ている。背後にも視線をやられた。予想はしてた反応だ。レンは無視して店内へと足を進める。ミクとリンは辺りを見回しながらゆっくりと付いてきた。距離が離れる。脇目も振らず目的のコーナーへと向かうレンの服を、リンが慌てたように駆けてきて掴んだ。
「待ってよっ、どこにあるかわかるの?」
「見ればわかるだろ」
 レンは向かった方向を指し示す。店に入った瞬間から見渡して確認していたのだ。あまり、長居したい場所ではない。
「あ、あれか…」
 リンも確認したのか、レンを追い抜き急ぎ足でそちらへ向かう。平日の昼間ということもあり、客は少なかったがそれでも驚いたようにこちらを見てくる男性客と目が合ったりはした。
 酒の専門店。
 子どもだけで入ってくるところではないのは確かだ。
「ミク姉、早く!」
 ミクは初めて入るであろう場所を興味深げに見渡していて、完全に足が止まっている。レンはもう帰るときまで放っておこうかと思っていたのだが、リンはわざわざ声を出して呼んだ。人の少ない店内で、その声はやけに響く。
 ばたばたとあの長い髪で駆ける様子も目立つだろう。レンは出来るだけそれを視界に入れないようにして目当てのワインコーナーを見渡した。つい先ほど、3人で遊んでいるときに割ってしまったMEIKOのワイン。こっそり同じものと入れ替えておこうという計画だ。今日はMEIKOは夜まで帰らない。KAITOはわからないが、場合によっては巻き込んでしまおうと思ってた。
「ねえ……」
 レンの横で、同じように眺めていたリンが呟く。
「……どれ?」
 あそこにあったワイン。
 途方に暮れたようなリンに続いたのはミクの呑気な声。
「ないね?」
 ない。
 確かに、どこにもない。
 ちゃんと割れたビンを見て、ラベルの確認をして、しっかり記憶してきたのだ。なのに、ない。この辺りでは一番大型の専門店だ。よっぽど、マニアックなものなのか。
「プレゼントですか?」
 そのとき背後で声がした。最初に挨拶をしてきた店員だ。あまり背の高くない女性店員は、レンたちとそれほど身長が変わらなかった。
 店員は困ったような顔をレンたちに向けている。
「未成年ですよね? 申し訳ありませんが、プレゼントやお使いでも未成年の方にはお売りできないんですよ…」
 こちらが選んでしまう前に、ということか。店員の言葉に不満の声を上げたのはやはりリンだった。
「えー! 何で! ちゃんとお金払うよ? 私たちが飲むわけじゃないし!」
「申し訳ありませんが…」
「でも」
 更に言い募ろうとしていたリンの腕を引っ張って止めさせる。そんなことより、気になることがあった。
「ワインってここにあるので全部?」
「は…はい、そうですが」
 一瞬戸惑いつつも、店員はそう答えた。レンはもう1度棚に目をやってから、覚えていたラベルの名前を挙げる。そのワインはないのか、と。
 店員は目をぱちくりさせると「少々お待ち下さい」と慌てて奥へ引っ込んで行った。売る気はないのに案内はしてくれるらしい。
「ないのかな?」
「あっても売ってくれないんじゃん!」
「アンドロイドだって言えばいいんじゃね?」
 未成年、なんて言葉はアンドロイドには通用しない。だが品物がないのなら、今言っても無意味だった。
 しばらくして帰ってきた店員は、申し訳ありませんが、の言葉と共にその商品に心当たりがないと告げた。





「どーすんのー!」
「ちょっと待ってろよ、今調べてるから!」
 家に帰り、今度はネットで検索する。マニアックな品だともうこれで注文するしかないかもしれない。その場合届くのに時間がかかってしまうが。
「この染みも取れないよねー」
 ミクの声はやはりどこか呑気に聞こえる。店までは結構遠かったから、往復だけでもう夕方近い時間なのだが。
「あった?」
「ない……」
 見つからない。
 ネットで調べても出てこない。
「これって……」
「オリジナル……なのかな」
 もうそれしか考えられなかった。レンはリンと顔を見合わせて考える。だったら、むしろこのラベルを複製した方が早いか。だけどどんな適当な酒を入れても、飲めば気付かれる。こうなったら正直に話して謝るか、だけど謝るにしても何か代わりの物は手に入れておきたい。
 ぐるぐる考えているとき、玄関先で音がした。
 はっと3人が動きを止める。続いて聞こえてきたのは、気の抜けたKAITOの声だった。
「ただいまー」
 全員の力が抜ける。ちょうどいい、このまま巻き込んでしまうおか。だがそう考えた次の瞬間、再び体を強張らせることになった。
「ただいま」
 MEIKOの声。
 何で。夜まで帰って来ないんじゃ。
 3人は同時に立ち上がった。続いての行動は早かった。
「お帰りなさいー! MEIKO姉、早かったね!」
「ちょっとねー。収録延期になっちゃって。ちょうどそこでKAITOと会ったのよ」
「そうなんだ! ね、ちょっとこっち来て! えと…あ、見せたいものあるか ら!」
「何よ一体」
「いいから早く!」
 リンがMEIKOを引っ張って2階へ駆けて行く。ミクは、KAITOをリビングまで引っ張ってきた。何も言わずに、そうなることがわかっていたレンは入ってきたKAITOに単刀直入に聞く。
「どうしよう」
「何、いきなり」
「兄ちゃん、これ知ってる?」
 割れたワインのビン。KAITOは見た瞬間、大きく目を見開いた。そして、妙な間を空けてから、小さく頷く。
「……うん。……どうしたの、これ」
「割っちゃったの」
 ミクがKAITOを見上げて言った。それはまあ、見ればわかるだろう。
「割っちゃったんだ」
「うん。割っちゃったの」
 間抜けなやり取りをする2人にレンは手を振って注目を戻す。リンの時間稼ぎも、そうは持たないだろう。
「これって……オリジナルか何か?」
 買いに行こうとしたけど見つからなかった。
 そう伝えるとKAITOは驚いたように「そうなんだ」と返す。
「? 兄ちゃん知らなかったのか?」
「うん……まあオリジナルだとは……」
「MEIKO姉の…だよな?」
「そうだよ。おれが生まれたときからある」
「え!?」
「マジで!?」
 ミクと共にレンも大声を上げてしまった。そこまでのものだとは思わなかった。そのときからずっとあるということは…思ったより、大切なものなのかもしれ ない。
「ど、どうしよう」
 ミクもそれに気付いたのか途端におろおろとビンとKAITOたちを見比べる。KAITOは難しい顔で俯いた。
「……あれから何年も放っといてるんだから、ばれないと思うけどなぁ…」
 どうやらKAITOはレンたちとは正反対のことを考えたらしい。確かに…ただ放置されてるという可能性もあるが。
「何か…このワインの話とか聞いたことあんの? 誰かから貰った、とか」
「いや? でも少なくともおれが生まれてから一度も飲んでないと思うよ」
「何でわかるんだよ」
「飲めば気付かれるし」
 は?
 レンが怪訝な顔をしてKAITOを向けば、KAITOはへらっと笑った。
「……こっそり飲もうとして引っくり返しちゃってさ」
「……お兄ちゃんが?」
 ミクも驚いている。そりゃそうだ。ということはこの中身は。
「適当にその辺にあったものでそれらしくしてみた。まあお腹壊すわけじゃないし大丈夫かと……」
 レンは思わず下を見る。まだ染みの残る絨毯。赤い色は、ワインでも何でもなく……。
「ビンはそのまんまだけどね。割れちゃったんなら何とか似たようなビン を……」
 そして何となくもう1度見上げたとき、レンの表情が固まった。それに気付いてKAITOも言葉を止める。
 KAITOがゆっくり振り向けば、そこには無表情のMEIKOと、申し訳なさそうに俯くリン。
 ああ、ばれた。
 でもレンは少しほっとした。
 今の状況。確実にMEIKOの怒りはKAITOに向く。
 ごめん兄ちゃん。
 心の中で謝って、レンは反省しているように俯いた。





「手作り?」
「そうよ」
「MEIKO姉の?」
「そう」
 夜。リビングの掃除をしていた3人を見ながら、MEIKOが話していた。KAITOの姿はない。
「ラベルもね。結構それっぽかったでしょ?」
「う、うん……」
 MEIKOのさばさばした表情は、それほど割れてしまったことを気にした様子はない。だけど油断は出来なくて、3人は慎重にMEIKOの言葉に答える。
「正直飲めたもんじゃなかったけど…でも、一応思い出の品なのよねー」
 ちらり、と3人の顔に視線を走らせる。
 そこで気付いた。
 まだ、謝ってない。
 最初に気付いたミクが慌てて立ち上がって謝る。リンとレンもそれに続いた。MEIKOはじっとそれを見て、ふっと息を吐く。
 その後少し説教はされたが、結局許してもらえた。
 やっぱり最初から、素直に謝るべきだった。
 そしてレンは思った。
 兄ちゃん、どうなったんだろう。


 

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