ここは任せて先に行け─3

「あのぉ、すみません……」
 そして駅に着いた途端。
 取手は突如老人に手を捕まれた。
「え……あ、あの?」
「何だ、どうした取手」
 思わず追い越してしまった九龍が慌てて戻る。その間にも何人かとすれ違った。人が多い。
「このおばあさんが……」
「ん?」
「一緒に探して欲しいんだけど……あれは大切なものなんでぇ……」
 腰の曲がったおばあさんが俯いてぶつぶつと呟くように言う。黒塚と朱堂もおばあさんを囲むようにして立ち止まった。
「探してって? 何か落としたんですか?」
 九龍が代表して問いかけると、おばあさんは深く頷く。
 そして震える声で言った。
「この辺りにあるはずなんだけど……目があんまり良くないんでぇ」
「この辺り……」
 辺りを見回す。
 ゴミぐらいなら落ちてるが。
 それでも全体的に綺麗なものだ。目につくのは地面の汚れぐらいだろうか。少なくとも大きな落し物は見えない。
「ええと、どんなものを?」
 腰をかがめ、なるべく老人と同じ目線で言う。
 背後で朱堂が叫んだ。
「九ちゃんっ、そんなことやってる暇はないわよっ」
「あ、う、うん、そうなんだけど……」
 老人がすがるように見上げるのは、話しかけている九龍ではなく取手。
 ……まさか、これも罠?
 いや……いやいや。
 でもどちらにせよ、一緒に探している時間はないのは確かだ。
「ぼくが探そうか?」
「黒塚……!」
「探し物なら得意だよ。どんな小さな石でも見つけてみせるさ」
「石じゃねぇよ」
「さあ、おばあさん、どんな石だい」
 だから石じゃねぇ。
 九龍はそれ以上突っ込むのは止めて、やんわりと取手を掴んだおばあさんの手を離す。
「……任せたぞ黒塚」
「うん。九龍くんたちも気を付けて」
 まだ何があるかわからない。手を振る黒塚に軽く頷きだけ返して、九龍たちは駅の中に向かった。
 約束の時間は過ぎるが、リハーサル時間はまだあるはず。
 夷澤への連絡も思いつかず、3人は走る。
「九ちゃんっ、急いでっ!」
 慣れない電車に、切符を買うのにも手間取ってる九龍に朱堂が怒鳴る。というか2人とも切符買ってない。どういうことだと聞く間もなく、九龍を待つ取手たちを慌てて追いかけ電車に飛び乗る。
 そして電車内でも──事件は起こった。
「痴漢っ! この人痴漢ですっ!」
 女性の甲高い声が響くと共に電車内が一瞬静まる。すぐに、低いざわめきが満ちた。
 一斉に注目が集まる女性。先ほど九龍たちを囲んだ女性たちと同じく、かなりの美人。好奇の視線を向けられる中、堂々としたものだ。
 そしてその取手の目の前に居た女性が高々と上げた手に捕まれているのは──朱堂の右腕だった。
「え……」
 腕の先を辿った九龍が思わず声を漏らす。
「あれ……」
 女性も一瞬きょとん、と朱堂を見ていた。朱堂はすぐさま顔を怒りの表情へと変える。
「ちょっとあんたっ、失礼じゃないのよっ! この私が女相手に痴漢なんてするわけないでしょっ!」
「な、何よ、私は確かに、」
「自意識過剰なんじゃないのっ、この小娘がっ!」
 女性が顔を真っ赤にする。
 九龍はちょっと目を逸らした。痴漢も痴漢冤罪も大嫌いだ。だけど多分これも──罠なのだろう。ならばこの女性も覚悟はある……はず、だよ、な……?
 もうすぐで目当ての駅に着く。
 女性と朱堂の言い争いは続いていた。
「痴漢見付かったときの言い訳にそういう格好してるんでしょっ! 変態っ」
「何よ、この格好に文句でもあるのっ。いいわっ、ならはっきりさせようじゃないっ!」
「あ……」
 ちょうど電車が駅に止まった。
 注目を浴びたまま、女性と朱堂が降りていく。
 朱堂は振り向きざま──九龍たちにウインクしていった。
 乗客の何人かは気付いたが、前を見ている女性は気付かない。
 九龍たちは呆然とそれを見ていた。
「……助けられたんだよな、あれ……」
「うん……ぼくが捕まれそうになったのを横から朱堂くんが」
 女は後ろ手に掴んだので、掲げるまで相手が見えなかったのだろう。
「……かっこいいじゃんか、あいつも」
 しかし大丈夫だろうか。女性の言う通り、痴漢の言い訳としての女装という考え方だってあるだろう。今日の朱堂は特に女らしい格好というわけでもないが。朱堂はスカートをあまりはかない。すね毛の処理が面倒で、などとはにかんでいた姿が浮かぶ。それでも──化粧は女性寄りか。言い訳にはなるだろうか。
 まぁ朱堂が普段からああなのはすぐに知れることだ。目立つ男──オカマなので知り合いも多い。一緒に降りていった乗客にも朱堂の名を口にするものが居た。
 あまり心配はせずに、閉まったドアから九龍は目を逸らす。
 それにしても。
「……こういう方向の妨害は考えてなかったなぁ」
「……ごめん、いつもはここまで酷くないんだけど」
 気弱な取手には大ダメージであろうものばかり。
 正直九龍もここまで全く役に立ててない。仲間たちを連れてきて良かった。本当に良かった。
「……それにしてもここまでして、学園祭でピアノ弾きたいもんか? 天香の学園祭なんて……言っちゃ悪いがテレビ来るわけでもないし、小さなもんだろ?」
 閉ざされた学園なので口コミ効果だって薄いんじゃないだろうか。学園内でどれだけ噂になっても、外には広まりにくい。以前ほどではないとはいえ。
「うん……それでも、弾きたいんだと思う」
 取手は少し俯いて言った。
 九龍はそんな取手に首を傾げる。
「お前さ……別に、そいつが大会出るべきだったとか、そんな風に考えてたりとかは……ないよな?」
 取手はその言葉に顔を上げた。何だか微妙な表情でこちらを見ている。
「……譲りたくは、ないよ。でも……」
 出来ればちゃんと競った上で、出たかった。
 取手がぽつりと言った。
 ──問題はやっぱ教授なのかなぁ。
 頭をかきながら九龍も考える。考えたところで、無駄なのだが。
「あ、着いたよはっちゃん」
「おお」
 普段ほとんど電車に乗らない九龍は、こういうときスムーズに動けない。
 取手に押されるようにして外に出る。取手がすいすい移動するのについていく形になった。
「よし、じゃあ……」
 駅の外に出て、一息つく。
 あとは歩きで学園まで行けるだろうと思ったそのときだった。
「あっ……!」
「え……!」
 突然、取手のバックが奪われた。
 大学生ぐらいの男が、そのまま駆け出して行く。
「待っ……」
「おれが追うっ! お前は先行ってろっ!」
「はっちゃん!」
 最後は引ったくりかよっ!
 九龍は全速力で男を追う。これも罠なのかどうかはわからない。何であろうと、追わないわけにはいかない。
 取手の声は、もう聞こえなかった。










「はっちゃん……」
 九龍が引ったくりを追いかけてから──取手は直ぐにその場を移動した。
 待っていては意味がない。先に行かなければならない。
 バッグには楽譜も入っていたが、どうせ覚えている。なくても弾ける。財布と携帯は幸いポケットの中だ。何とかなる。
 そこまで考えて歩き出して数分。
 取手は足を止めた。
「あー、来ちゃってるじゃん」
「何だよ、早くねぇ?」
「面倒臭いなぁ……」
 男たちが数人、道端でたむろしている。
 それが、取手を見付けて口々にそう言った。
 これも──妨害。
「取手鎌治だよな? 悪いけど、夕方まで大人しくしててもらえるかー」
 男たちの中には、木刀を持っている者も居た。みんな体格がいい。喧嘩慣れしている雰囲気はないが、体は鍛えてあるのがよくわかる。
 最後は、暴力。
 もう取手を守るものは誰も居ない。
 取手は思わず一歩引くが、思い直してそこで立ち止まった。
 ……駄目だ。行かなきゃ。
「……どいて……くれますか」
 毅然とした態度を取りたいのに、出てくる言葉が弱々しい。
 男たちは案の定、馬鹿にしたように笑った。
「大人しくしてたら乱暴はしないってー」
 取手は拳を握り締める。
 戦う力は──ある。
 だが、取手の力は、普通の力じゃない。この男たちは、取手の先輩たちの知人か、雇われた者なのだろう。何かすれば、それは伝わる。
 どうしよう。
 取手が迷っていたそのとき。
 男たちの後ろから声が聞こえた。
「よぉ取手。何やってるんだ?」
 男たちがばっと振り返る。
 それでちょうど取手からもその姿が見えた。
 いや、勿論声だけで気付いていた。
「皆守くん……!」
 相変わらずアロマをふかしながら、けだるそうに歩いている。
 皆守がちらりと男たちに視線をやった。
「……面倒臭いことになってるみたいだな」
「……うん」
 何故ここに皆守が居るのだろう。まぁ、ここは皆守のアパートからそう遠いわけでもないが。最初の集まりに来ていなかった時点で、今日は都合が悪いのだと思っていた。九龍なら真っ先に呼ぶであろう人物だからだ。
「……皆守くん」
「あ?」
「……助けて欲しい」
 取手の言葉に、皆守が少し笑った。
「……じゃ、お前はとっとと行け」
「うん」
 取手は頷いて男たちの間を通る。
 男がはっとしたように取手の肩に手をかけた。
「おいっ、待て──っ」
 言いかけた男が突然うずくまる。
 皆守が軽く蹴った──だけ、だろう多分。
「皆守くん……」
「早く行け」
「……ありがとう」
「ま、待ちやがれっ!」
 取手は駆け出す。
 男たちは──追っては来なかった。
 悲鳴だけが聞こえてくる。
 ……あんまり無茶しないでね。
 言えなかった言葉を頭の中だけで呟いて、取手は学園へと向かった。
 皆守は、先に学園に居たのだろうか。
 そういえば八千穂が絶対聞きに行くとメールをくれていた。引きずり出されていたのかも、しれない。










「取手さん。遅いっスよ」
 無事学園に着いて、案内された場所で待っていたのは現生徒会長夷澤。
 壁にもたれかかりながら、少し笑ってこちらを見ている。そして、ふっと視線を逸らして、控え室と言われた場所へと入って行った。
「さぁ、取手センパイ着いたっスよ。約束通り出て行ってもらえますかね?」
 え……。
 慌ててそちらに向かう。
 部屋の中に居た男たち数人がこちらを見た。内3人は、取手と同じ学部の先輩たちだ。座っているのが、例の問題児とされている先輩。
「先輩……」
「……何で来るんだよ」
「…………」
 嫌そうな顔で言われて言葉に詰まる。
 ため息を吐き出したのは夷澤だった。
「おれらが呼んだからに決まってるでしょ。あんたらこそ、何で呼んでないのに来るんスか。邪魔なんスけど」
 きつい物言いには、取手も少しびくびくして、下がってしまう。
 駄目だ。
 今日こそ、言わなきゃ。
「出ていかないなら力尽くで──」
「夷澤くん、ごめん。ちょっと待って」
「へ……」
 すっ、と取手が夷澤の前に手を出すと、夷澤が気の抜けたような間抜けな声を上げる。予想外だったのだろう。驚きの目で取手を見上げるが、取手はそちらに構っている余裕はない。ただ、真っ直ぐに先輩の姿を見る。
「……先輩、今日──一緒に弾きませんか」
「なっ……」
「何言ってんスかあんたっ!」
 声を上げたのは、先輩の取り巻きと夷澤。
 先輩は──無言だった。
 驚いているようにも見えるが。
「ここなら教授も何も言って来ませんし、曲は先輩がこの間弾いてた──」
 ずっと考えていたことだった。
 取手だって、この男の実力は評価している。
 見せる機会すら与えられない悔しさは──わかる。
「……先輩」
「馬鹿か」
 僅か俯いて、先輩は言う。
「お前、あれをちゃんと弾けんのかよ? あれを弾けるのはおれだけだ。お前なんかに──」
「練習しました。──先輩と合わせたくて」
 提出した数曲に、最初から入れていた。
 元々取手が弾きたいと思ったのも確かだった。だけど、先輩ほど上手くはいかない。確かにあの曲は──この先輩のものだと。
「取手……」
 戸惑っている。
 それは、男の取り巻きたちも同じだった。
 言葉が止まった空間で、最初に声を出したのは夷澤。
「……何かよくわかりませんけど、一緒にやるなら別にいいっスよ? ここにもピアノはあるんで。何のためにリハ時間取ってると思ってんですか。本番までに合わせといてください」
 それじゃ、おれは忙しいんで。
 夷澤はそう言って去っていく。
 呆れられたか──それとも、認めてくれたか。
 取手は男に向かって進む。
「……よろしくお願いします」
「……おう」
 思わず、といった感じで返事をした男に、取手は少し笑った。










「間に合ったー!」
「八千穂さん、静かに」
 屋台を歩き回り、存分に腹ごしらえをした八千穂の叫びに、隣で七瀬が冷静な声を返す。講堂内は本番前でざわめきが静まりつつある。八千穂も慌てて口を押さえた。
「ごめんっ。でも急がないと」
 八千穂がきょろきょろと辺りを見回していたとき、後ろの方で立ち上がった人物が見えた。
「明日香さん……」
「幽花ー! ごめんっ、席取りありがとうね!」
「いえ……」
 天香学園の制服を着た白岐が微かに笑う。
 八千穂たちが学園祭に来てすぐに合流はしていたのだが、疲れたのか、白岐は先に席を取ってる、と講堂に向かっていた。八千穂に振り回されるのは楽しくはあるが、体力的にきついことはある。特に白岐は人ごみなどは苦手そうだし、その気持ちはわかった。七瀬は白岐に微笑み返しながら、八千穂を見上げる。底なしの体力を持つ八千穂は、当然まだまだ元気そうだ。
「取手くん間に合ったんだよね? 皆守くんは?」
 取手が来ないから、と皆守を迎えに行かせたのは勿論八千穂だ。
 取手が来ないという情報自体は、響から白岐に回っている。白岐は結局──出席日数不足で留年していた。
 阿門から特別措置の話もあったようだが、ちゃんと一年通い直したいということで、白岐はまだ学園に居る。勿論去年までほど閉ざされた場所ではないので、八千穂はしょちゅう白岐と連絡しあい、たまに遊びに行くこともあるようだが。
「もう随分前に来てたわ。皆守さんはまだ……」
「ええー、何してるんだろ。早くしないと演奏聴けなくなっちゃうよ」
 九ちゃんたちもまだかな、と八千穂が立ち上がって辺りを見回している。
 皆守が帰って来れない状況、とは思わないようだ。七瀬は取手の先輩からの妨害があることを九龍から聞いているが、八千穂がどこまで状況を把握しているかはわからない。
 実行委員からの放送が入って、きょろきょろとしていた八千穂もようやく腰を下ろす。
「あっ、携帯……」
 お約束の携帯電話の電源は、のアナウンスで慌てて八千穂が電源を切っている。これで連絡は取れなくなった──が、今ここに来ていようと来ていまいと、どうせ後でまた仲間内で集まるのではないかと思っている。
 仲間たちにとっても、こういう場で大人しく椅子に座って聞くよりはいいのだろう。案外皆守もそう思って戻って来ないのかもしれない。彼は取手の演奏を聞きながら眠った前科が何度かある。
 そう考えると、来ない方がいいか?
「始まる……」
 八千穂の小さな呟きと共に、客席が暗くなる。それに伴って、ざわめきも少しずつ小さくなっていった。
 七瀬は、こういった雰囲気は嫌いじゃない。
 これもまた、舞台演出の一つだと思う。
 仲間たちはまだ来ていない。最初の聴衆の役目は、私たちに任せてもらおう。


 

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