転校生
新学期。
新しい環境。新しい住まい。新しい学校。新しい友達。
緋勇龍麻は高鳴る胸を押さえつつ、目の前を歩く教師の後姿を見ていた。
転校生。
高校3年のこの時期にして、誰も自分を知るものがいない土地での新生活。
緋勇にあったのは、不安よりも大きな期待だった。
東京に出る前に誓った。
駅で誓った。
正門の前でも誓った。
先ほどの教師の前でも(心の中で)誓った。
──もう、絶対に、喧嘩はしない。
女の子たちから怖れられたくない。
「普通の」男子たちから遠巻きにされたくない。
健全で、正しい高校生活を。
がらっと、教室の扉が開かれる。
一斉に向かってくるクラスメイトの視線。
好奇心、期待。そこに怯えは混じらない。
にやけそうになる顔を抑えて緋勇は言った。
「緋勇龍麻です。よろしくお願いします」
声は出来るだけ高めに。
上がった女の子たちの歓声に、緋勇はひとまず満足げに頷いた。
「緋勇くん」
ああ、チャイムの音が鳴った気がする、おかしいなさっき授業に入ったばかりの気がするのに、いや、緊張して辺りを見回してたのは覚えてる。だけど授業内容をさっぱり覚えてないぞ?
うとうとしながらそんなことを考えていた緋勇は、隣の席からかかった声にはっと顔を上げた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
慌てて視線を向けた先に、聖女の微笑み。
黒く長い髪がよく似合うその美女は、
「私、美里葵って言います」
席に着いたばかりでろくに挨拶が出来なかったことを謝りつつ、そう名乗った。
……マジで美人。
緋勇はつい無遠慮に眺めてしまい、かちあった視線に思わずごまかすように笑みを返す。つられるように、美里も笑った。
「学校のことでわからないことがあったら、いつでも聞いて」
「……ありがと」
隣の席に美女。
幸先のいいスタートだ。
だというのに自分の答えが酷くそっけないことにも緋勇は気付いていた。
……駄目だ、駄目だ、こんなんじゃ。
新しい高校生活。
この1年で。
彼女を作るんだ!
それが、緋勇のこの学校での2つめの目標。
喧嘩三昧だった2年間。それを取り戻すだけの青春を!
「あーおーいっ!」
そこへ美里の背後からかかる元気な声。
突然背中に飛びかかられた美里が軽く声を上げる。
おお、女の子のじゃれあい。
こんな間近で見ることなんかなかったぞ、ホントどれだけ側に女の子がいなかったんだ、おれ!
「葵もやるねー。早速転校生くんをナンパにかかるとは──」
「えっ…?」
「えっ!!」
思わず上げた大声に、ぱっと2人が緋勇を向いた。
いやいやいや、だって!
おれの話じゃん!
「あはは、転校生くん、初めまして。ボクは桜井小蒔」
緋勇のリアクションに笑って、小蒔は自己紹介を始めた。
2人揃って漢字まで説明してくれるが、正直ちゃんと浮かんでない。種まきのまきってどんな字だっけ。
「よろしく」
やっぱりそっけない自分の言葉にも、小蒔は明るく返してくれる。
そして小蒔はすっと緋勇に近付いて、小声で言ってきた。
「緋勇クンって、葵みたいなタイプ好み?」
「え、え……」
これは、どう答えたらいいんだろう。
いや、まあ綺麗だ好きだ好みだ。
でも、女の子から聞かれてるんだから、ここは君の方が、とか? いや、違う。その答えはきっと違う。
美里の視線を感じつつ曖昧に頷くと、小蒔はやっぱりね、と笑顔だった。
間違ってはいなかったか。
最初の問いは聞こえなかっただろう美里が少し首を傾げている。
「あのねぇ」
そこで小蒔が少しいたずらっぽく美里を振り返ると、再び小声で言ってきた。
「葵、こう見えてもカレシいないんだ」
「……マジで」
「声は結構かけられてるけど、全部断ってるし」
「ああ、なるほど…」
理想が高いのかな、と思ったがそうでもないらしい。
そして緋勇ならいい線いくかも、などと続けられた。
……マジで?
いや、確かにおれ、顔は悪くないと思っちゃったりはしてるんだけど。
小蒔は、ライバルは多いだの、葵は男に免疫がないだの、玉砕しても骨ぐらいは拾ってやるだの、段々声が大きく──通常のものに戻っている。
さすがに会話内容を理解したのだろう。美里が少し拗ねたような顔で入ってきて、小蒔は舌を出した。
「へへへっ」
「小蒔っ」
もうっ、と去って行く小蒔を軽く美里が睨みつける。
そして少し慌てたように緋勇に視線を向けた。何か可愛い。
「あ、あの。小蒔が変なこと言っちゃって……ごめんなさい」
「えっ、ああ、いや別に……」
ろくに言葉もかけられないまま、美里はそれだけ言って小蒔を追って行ってしまった。
……何でここで何も言えない、おれ。
「あ〜あ〜、あんなに顔真っ赤にしちゃってカワイイねぇ〜」
そして緋勇が思ったことを代弁するかのような声が、間近で聞こえた。
「……えっと」
「よぉ、転校生」
そこに立っていたのは短ランで学生服を腕まくりして、何やら長物を抱えている男。髪は茶色っぽい…というかむしろ赤っぽい。染めてるのか地毛なのか。とりあえずクラスメイトだろう。友好的に、と思うが男の見た目と抱えているものに、一瞬言葉が止まる。
……ふ、不良じゃないだろうな?
「俺は蓬莱寺京一。これでも、剣道部の主将をやってんだ」
剣道部?
ああ、それ竹刀か。
よく考えればそれしかないのだが、それで緋勇の疑惑は晴れた。
不良は運動部主将なんかやらない。
緋勇の持論だ。
「おれは緋勇……って知ってるか。えっと…よろしく」
「ああ、こっちこそよろしくな」
笑顔が意外に爽やかだ。
よし、大丈夫。まだ自分は間違ってない。
そう思ったとき、ふと京一は表情を変えた。
……ん?
忠告?
「ああ。あんまり、目立った真似はしない方が身のためだぜ?」
少し声を潜めて言われた言葉にどきりとする。
わかってる。そんなことよくわかってる。だからおれはここに来てからも、まだ大人しく──
「学園のマドンナを崇拝してる奴はいくらでもいるってことさ」
……それかああ!
マドンナと言われて即座に美里が思い浮かんだ。
間違いない。絶対間違いない。
転校早々ちょっかいかけてるように見えたか? というか、今まさにおれは美里に手出すなよと言われてるのか!?
だが京一が向けた視線の先には──また見るからにやばそうな男たちが居た。……自己紹介中は気付いてなかった、あんなのがいるなんて。見事に女しか見てなかったなぁ…いや、質問してきたの女の子ばっかだったし。
どうしよう、既に睨まれてる気がするんですけど。
「……気を付ける…」
惜しいが、美里には極力近付かない方がいいのだろう。大体彼女にするには高望みが過ぎるしな。京一の言葉に頷いている間にチャイムが鳴り、一旦席へと戻った。廊下から帰ってきた美里と視線が合って微笑まれるが、緋勇は引きつったような笑みしか返せなかった。
昼休みは京一の案内で校舎内を回ることになった。
最初は不良かと警戒した相手だったが、その態度といい、周りから声をかけられる雰囲気といい、むしろお調子者というかクラスの人気者のようだ。女子からはほとんど名前で呼ばれてるのは気のせいか。美里すら名前で呼んでいて驚いた。先ほども、佐久間に絡まれそうになったのを割り込んできてくれたようにも思える。
いい奴だ。
こいつと一緒に居れば……変な喧嘩には巻き込まれないだろうか。
案内を聞きながら緋勇は思う。
何故か緋勇は異様に絡まれやすい。運が悪いのか何なのか、不良との遭遇率も妙に高い。
そのため喧嘩の腕だけが無闇に上がって、高校では泣く子も黙る緋勇龍麻の名がそりゃあもう広い範囲に知れ渡ることになっていた。
……もう、絶対にあんなことにはならない。
ここに来る前の3ヶ月。古武道を習った。それは、安全に戦うためでもあった。人を、そして自分を傷つけない手加減。ついでに言えば……多少殴られたところで平気な体作り。
やられる前にやれ、が基本だった緋勇はこの3ヶ月我慢を学んだ。
そう、だからもう大丈夫なのだ。
「何ぼーっとしてんだ?」
「え? ああ、いや、改めて決意というか」
「はぁ?」
「何でもないって。で、それより図書館の秘密って何だよ」
「あ? あぁ、だからな、ここの図書館は──」
にんまり笑った京一が緋勇に顔を向けたとき、前方からやってきた一人の女生徒とぶつかった。
「あっ」
「いったぁ〜」
女性側も気付いてなかったのか、受身も取れず倒れている。
「げっ、あっ、アン子」
「ん? クラスの子?」
「いやっ、違うっ。それより緋勇! 悪ぃ、おれ用事思い出した」
「はあっ!?」
「あっ、こら待ちなさい京一ー!」
そそくさと逃げていく京一。
立ち上がって怒鳴る女生徒。
取り残される緋勇。
「ええー……」
……何でいきなり置いていかれてんの。
突然の展開に呆然と立ち竦む。
だが、その理由はすぐわかった。
どうやら京一は、この女生徒が苦手だったらしい。……なんか陰で会話が終わるの見てやがるし。
アン子の自己紹介を聞いて新聞を受け取り、アン子が去って行ったあと、案の定こそこそと戻って来て、緋勇が感じた通りのことを言った。
……可愛い子なのに。
お互い名前で呼び合ってたし、元カノとかそんなんじゃないだろうな…いや、名前で呼ぶ女の子いっぱいいたっけ。
「じゃ、次は2階な。2階は2年のクラスと生物室だな」
そして何事もなかったかのように階段を降りながら京一が言う。
適当に頷いていると、その生物室の怪談を教えられた。
毛むくじゃらの怪物? 怪談って幽霊とかじゃないのか。それ実体あるんじゃないか。
京一の語り口調のせいかあんまり怖くはない。
しかし場所が場所だけにいかにもな話……って、どんな場所なんだ生物室。多分授業で使うよな、そこ。
思っていたとき。
怪しい声が背後から響いた。
呪われちゃう……だと!?
京一と2人、ばっと振り向けば、そこには奇妙な人形を抱えた少女が立っていた。分厚い眼鏡で顔はほとんど言えない。怪しく歪められた口元と、そこから漏れる不気味な言葉に揃って声をなくす。
京一と、少女の言葉を合わせて、裏密ミサという名前らしいことはわかった。
京一はやたら慌てた様子、というか怯えた様子を見せている。さきほど生物室の怪談を何でもないことのように語ったというのに。確かにこの少女には──言葉では言い表せない異様な空気を感じるのだが。
「じゃあね〜。また今度ね〜」
霊研なるところに誘われ、頷く間もなく少女は去って行く。
2人して、ぼんやりとその後姿を見送っていた。
「あはははは…」
京一の乾いた笑い。
さあ、あとは1階──との言葉を聞きながらも、緋勇は裏密から目を離せないでいた。
「……緋勇?」
「……どうしよう京一」
「あ?」
「……すげぇドキドキしてる。顔も体もマジで熱い。女の子見てこんなに心臓高鳴ったことないって! これって恋!?」
「馬鹿っ! そりゃお前恐怖だろっ!」
京一のツッコミを受けつつ、緋勇は1階まで引きずられていった。
そして放課後。
「……何でこうなるんだ……」
思わず漏れてしまった呟きには誰も反応を返さなかった。
ああ、佐久間なるクラスメイトにはずっと睨まれていたのはわかっていた。だから、放課後になったら京一に声かけてとっとと教室を出ようと、そう思っていた。
だが頼みの京一は午後の授業から姿が見えず、アン子に引き止められている内に、結局不良数人に校舎裏まで連れ出されてしまった。
前後左右を囲まれて歩く緋勇は、いい見世物になってしまった気がする。
明日からの緋勇の評判が心配だ。
いい意味でも、悪い意味でも。
「緋勇…。てめぇにこの学校のルールって奴を教えてやる」
目の前に立つ佐久間はにこりともせずにそう言っている。笑っているのは取り巻きたちだ。緋勇はどうにか逃げられないかと辺りを見回しながら考える。
戦闘になった場合。
どうする。
せっかく鍛えたんだ。多少殴られても平気だ。なら、大人しく拳を受けるべきか。
「緋勇よぉ、てめぇもついてねぇぜ」
「転校してきていきなり入院たぁなぁ」
いやらしく笑い合う数人の不良たち。
「………」
……無理。
この人数にリンチ受けて、さすがに無事ではいられない。
そもそも真正面から喧嘩したって無傷じゃ終われないだろ、これ!
緋勇は防御が苦手だ。いつも傷だらけの勝利なのだ。
どうしよう、とぐるぐる考えていたとき──突然頭上から声がした。
「オイオイ──。ちょっと転校生をからかうにしやぁ、度が過ぎてるぜ」
この声は。
「……てめぇ、蓬莱寺」
京一!
見上げた先には、木の上に横になっている京一の姿。
部活さぼって昼寝って。いやいや、午後から居なかった。ずっとそこで寝てたのか!
「よっと」
佐久間の挑発を受け、京一が降りてくる。
佐久間は京一を怖れてるのかとも思っていたが、そうでもないらしい。一緒に叩きのめす気満々だ。そして京一も勝負を受ける気満々だ。
「……ええと……」
「緋勇、おれの側から離れんじゃねぇぜ」
「お? お、おお!」
すらりと袋から木刀を抜き取って、京一が佐久間たちに顔を向けたまま言う。多分強いよな、これだけかっこつけて弱いってことはないよな!
慌てて緋勇は京一に近付く。このまま任せてしまおう。喧嘩はしない。しないんだからな!
「行くぜっ!」
京一の木刀が目の前の不良に叩き付けられる。
何か風が来る。
ちょっ……あんまり側に居るのは危ないんじゃないか、これ。
思わず一歩下がった。
だが、そこへもう1人が回りこんでくる。
「緋勇っ」
「だああっ」
気付いた京一が振り返ったが、それより先に相手が殴りかかってくるのが見えた。つい。つい反射的に。緋勇は拳を繰り出していた。
「うわぁぁっ」
「あ……」
不良が、顔を抑えてうずくまる。
ああああっ、何で一日もってないんだ、おれの決意!?
しかも躊躇があったせいか、不良はまだ倒れていない。再びこちらに向かってくる。ちらりと京一に目を移せば、京一は既に別の男を相手している。
……ええい。
「このやろっ!」
向かってくる火の粉は振り払え。
緋勇は男を蹴り飛ばす。
方角悪く、そのまま男は京一の背に激突した。
「おわっ……!」
「あ、悪ぃ……」
目の前に居た男と挟まれる形になった京一の態勢が崩れる。
不良は、更にもう一人迫っている。
「くっそ……!」
さすがにこの状況で逃げられない。
京一に向かっていた男を張り飛ばし、その勢いのまま佐久間に向かった。
一人倒した京一も後を追ってくる。
「でやっ」
「痛っ」
動かなかった佐久間にいきなり引っかかれた。この野郎!
思わず京一に向かって蹴り飛ばす。
京一の諸手上段が炸裂し、佐久間は倒れた。
……ちょっと最後のはこっちが悪い感じ?
タイマンにしたかった……じゃねぇ、京一に全部任せるつもりだったのに!
「そこまでだ、佐久間っ」
うおっ!
そんなことを考えていたら、突然響いた怒鳴り声にびくりとする。
佐久間…佐久間だよな。おれじゃないよな?
おそるおそる振り返る。教師かと思ったが学ランだった。後ろに……美里の姿も見える。
げっ……み、見られてた?
そして男の佐久間を叱り付ける様子とこの雰囲気……ば、番長か?
じりじりと緋勇は引いて佐久間から離れる。それは、男の視線から逃れるためでもあった。
「もう止めて、佐久間くん……」
男の怒りと美里の言葉で、佐久間は引くかとも思えた。
だがそこに京一が更に佐久間を怒らせるようなことを……おいっ!
「京一っ!」
思わず突っ込みかけた緋勇を遮るように、男の方が声を上げた。
おおお、京一まで叱るのか。京一も素直に聞くのか。やっぱ番長か。
レスリング部の部長らしいが…佐久間もその一員だと? 番長なのかそうじゃないのか。とりあえず爽やかな格闘オタクだということはわかった。
いい奴かな、と思ったが、あんまり粋がるなとの忠告も受けてしまった。やっぱ番長なんだな。
美里が助けに来てくれたのは非常に嬉しかったが、それも佐久間に見られてしまった。番長には目をつけられるわ、京一は何か喧嘩っ早い奴だったわ、結局──ここでも、こうなってしまうのだろうか。
……どうにか佐久間たちだけでも口止め出来ないかなぁ。
もっと徹底的にやっとけば、言いふらしたりはしないだろうか。
緋勇は本気でそう考えていた。
その考えこそが、怖れられる原因だったことには、まだ気付いていない。
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