挨拶

「レーヴン」
 薄暗い柱の影、誰の姿も見えない空間に向かってオボロは静かに声をかける。微かに気配が動いた気がしたが、それ以上の変化は起こらない。オボロは手を伸ばしかけて、止めた。逃げられてはまた面倒なことになる。
「レーヴン」
 代わりにもう1度、今度は少し大きな声を出した。はたから見たら滑稽な光景だなと思いつつも、慣れているので気にもならない。気配が動かないのを感じてオボロは一つため息をつく。
「レーヴン。居るんでしょ。出てきてください」
 それでも淡々と続けていると漸くその姿がはっきりと目の前に現れた。思ったよりも近い。見えないとこんなところに居ても気付かないものなのか。
 思わずじっと見つめてしまうとレーヴンの方が振り払うよう に手を動かして叫んだ。
「ええい、何故いつもいつも気付くのだ! 貴様一体どんな手 を使っている!?」
 以前にも一度同じことを聞かれたが教えなかった。オボロは それに少し笑うと地面に手を伸ばし、それを手の中に入れる。
「ああっ……!」
「ウチのネズミもね、さすがにもうあなたの匂いは覚えてるん ですよ。その紋章は匂いまで隠せないでしょう」
 動乱が終わり、最近は毎日襲撃されている。ほとんど居つか れてるような状況で、いつの間にかネズミはレーヴンを噛まな くなった。味方だと認識してしまったらしい。そのおかげでレーヴンもネズミの存在はすっかり忘れていたようだが。
 レーヴンはそのネズミを見つめたあと「動物を使うとは卑怯 だぞ!」とか何とか叫び始めた。反則気味の紋章を使っている相手に言われたくはない。
「それより何の用だ。今日はまだ何もしてないぞ!」
「今日は……。今日は何するつもりだったんですか。あなたいつになったら懲りるんですか」
「貴様がまともに勝負しないからだろう! ちゃんと勝負すれ ば今度こそ俺様が勝つ!」
「ええ、まあそうかもしれませんね」
「ええい、お前のそういう態度が気に食わんのだー!」
 負けを認めようが頭を下げてみようが気に食わないと言われ るオボロはいっそ高圧的にでも出たほうがいいのだろうかとたまに考える。まあ結局結論は出ないままになったのだが。
「その勝負なんですがね」
「ん?」
「少しお預けにしてもらえませんか」
「は……?」
「実はこれからナガールの方に行くことになりまして」
「な……」
「一応あなたにも言っておこうと思って来たんですよ。いつ帰るかわかりませんから」
 レーヴンが言葉を失っている間に立て続けにオボロは言った 。さあ何と言ってくるか。大体の予想はついているし、それに返す言葉も決まっている。それでも僅かに緊張して、オボロはレーヴンの言葉を待った。
 しばらく沈黙していたレーヴンだが、やがてワンテンポ遅れた返事のように叫ぶ。
「待て待て待て! ナガールだと!? ならば俺様も」
「付いてこなくていいですよ。これは私一人の問題ですから」
「俺様は貴様の心配をしているわけではない!」
「ええ、まあさすがにそんなこと期待しちゃいませんが」
 レーヴンがこちらを睨みつけたまま次の言葉を探している。 オボロも間が持たなくなり、言うつもりのなかった言葉を口に する。
「これから探偵事務所の方はシグレくんたちでやってくれます から…」
「何…? 貴様、あいつらを置いていくつもりか!」
「……私一人の問題ですから」
 いきなり責めるような口調で言われて少し動揺しつつも、オ ボロは先ほどの言葉を繰り返す。レーヴンの目が険しくなった。
「……帰ってくるんだな」
「そのつもりです」
「帰って来い!」
「……はい」
 苦笑しつつも返事を返すとレーヴンは良し、と何故か一つ頷 いた。
「ならば貴様が帰ってくるまでシグレたちは俺様が守ってやろ う! これは貸しだからな!」
「……はあ」
 正直レーヴンよりもシグレやサギリの方が強い気はしたが口 には出さない。よく考えれば自分もシグレやサギリより弱い。
「よし、これからはレーヴン探偵事務所だ!」
「それは勘弁して下さい」
 本気で頭を下げそうになって何とか思い留まる。下げてもい いが調子に乗らせるだけだ。
「まあ…よろしくお願いしますよ」
 半ば本気でそう言って、オボロは今度こそレーヴンに背を向 ける。レーヴンは任せろ!と叫んで高笑いをしていた。


「……シグレくん」
 角を曲がり、まだ高笑いの聞こえる場所でシグレが壁にもた れかかったまま こちらを見ていた。既に、別れはすませたはずなのに。
「……厄介なもん押しつけんなよ」
「…ああ、聞いてましたか。すみません」
 でもあれで結構彼も役に立ちますし、とレーヴンの前では決 して言わないような ことを口にする。シグレの表情は見えないが、くわえたキセル が僅かに動いた。
「あー、おっさんよりは役に立つかもな」
「……傷つきますよ」
 情けない顔でそう言うと今度ははっきりとシグレが笑った。
 この子も、随分明るくなったものだとオボロは思う。 子どもたちが成長するに従って自分の立場はどんどん情けなくなっていた気はするが、その代償がこれならいい。
「それじゃあ……行って来ます」
 自分の帰る場所も、ここにあるのだ。





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